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SRサイタマノラッパー

何も持っていない男の話。
何も無い。けど、あがいている、もがいている。そういう男の話。
おそらく普通に生きていると、20歳ぐらいで何かを手に入れている人っていうほうがずっと少ないはずだ。自分自身はまだなにものでもなく、そして、おそらく、うっすらと感じていることは、きっとこのままなにものでもないまま終わっていくのだろう。
いや、何かを成し遂げるとか、そんな大そうなことではなく、打ち込める何か、誰かに何かを伝える、表現する、心の中にたまったものをぶちまける、吐き出す、そういうことをする術を20歳ぐらいで手に入れている人はほとんどいない。
美大とか、バンドやってるとか、クラブでDJやってるとか、なにかそういう自分を表現する手段を持っていて、思う存分それに打ち込めている人っていうのは、本当に一握りの恵まれたラッキーな人で、それ以外のほとんどすべての人は、俺は自分を表現する術を、俺が俺であるってことを世間に対してぶちまける術を何も持っていないって思いながら生きているしかないものだ。むなしく。みじめな気持ちで。
それは結局、自分という人間がこの世の中に対して何の影響も持っていないということ。
俺なんかがいてもいなくても全く関係なくこの世の中は回っていく。
いなくてもいい自分。
いる必要なんてこれっぽっちもない自分。

たったひとつ、ひょっとしてこれなんじゃねーか?ってもの(=ラップ)に出会った男の話だ。
これかどうかわかんねーけど、これだった夢中になれる。これだったらどんなに疲れてても時間を忘れてやってられる。これだったら。
全てが惨めでどうしようもない俺だけど、これだったら、ひょっとしたら。。。
とにかく自分が賭けられるのはもうこれしかねー。あきらめたくねー。

宇多丸さんが「抱きしめたい映画」として、昨年の1位にしているのはよくわかる。
あの畑の真ん中で、あんなダボダボのB-BOYスタイルで歩いていることの滑稽さ。
これが同じ時代が舞台でも渋谷だったらこうならないだろう。
でも舞台は深谷(映画の中では福谷)だ。
あの滑稽さ。
「ブロ」が「Bro」じゃなくて「ブロッコリー」ってのが最高に笑ったが。

とにかく、90年代だったらともかく、宇多丸さんがラップをはじめたころの80年代なんて、ラップってなに?っていう世界なわけだから、HIPHOPファンションなんてほんと「なにそれ、笑える。ピエロみたい」なんて世界だったろうから。
この映画の中の主人公の彼どころじゃない、「あいつ、なに考えてるんだ?」っていう厳しい視線を浴びながら、バカにされながら、笑われながら、悩みながら、時には弱気になったりしながら、ラップっていう自分の信じた道をどうにか進んでいたんだろうから。

とにかく、最後のところ、号泣メーン!

監督さん、タケダ先輩、TOMさんの3人と握手し、映画の余韻を味わいながら下高井戸から帰宅したのでした。

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アンダーカバー・コップ

「ドラムライン」のニック・キャノン。

そもそもニック・キャノンって好きじゃない。
「ドラムライン」って映画は、フットボールのハーフタイムの応援合戦ぐらいのものでしかないものを、「勝負」として描いてみせたってだけでもなかなかの作品だと思っているけど、でも、あの映画でもニック・キャノンは好きじゃない。
正直、もっと別の俳優にやらせたほうが、映画全体としてもより良い映画になったんじゃないかって思った。

で、この「アンダーカバー・コップ」は、そのニック・キャノンが主役で、さらに映画としても本当につまらない。

なんだろう、これ。

本当は大人の警官が高校に潜入捜査するっていう、コミカルな部分で魅せる映画なのかと思いきや、全然そんなこともなく。
じゃあ、普通に潜入捜査が主体の刑事ものアクション映画なのかっていうと、そんなこともなく。
一言で言えば、つまんねー。

どっちかにするべきだろう。
というか、後者はそもそもの設定からしてシリアスなアクション映画にはできるわけないんだから、前者しかあり得ないだろ。
そういうの、いくらでも良い前例があるじゃないか。すこしは勉強しろよ。

大人が高校生をやっているギャップでとことん笑わせて、それでいて、最後の犯人逮捕シーンでは意外とちゃんとしたアクションで感心させて、友情と主人公自身の成長を描いて締める、でしょ、王道は。

どうしてこう、どっちも中途半端な作品にしちゃうんだろう。


本当につまらない映画でした。

そして、ニック・キャノンはカッコよくもないし、かわいくもないし、ほんと全然だめ。








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グッド・バッド・ウィアード

『続・夕陽のガンマン』の原題『THE GOOD THE BAD AND THE UGLY』で、この原題を知らないと、このタイトルのヒネリがわからない。
最後がアグリーじゃなくて、ウィアード。
へんな奴ってことだけど、それをソン・ガンホがいい感じで演じている。

面白いんだけど、全然この映画には責任のない理由で楽しめなかったんだよなぁ。

こないだAVアンプを新しくしまして、マランツのSR6004なんですが、ブルーレイ時代ではあたりまえの最新サラウンドフォーマットに対応するために買ったわけですが、まだウチにはBDプレイヤーがありません。
なので、当然DVDでの鑑賞となったわけですが、このDVD、DTS-ESフォーマットで6.1chの音が入っているんですよ。
メニューで5.1のドルビーデジタルと、6.1のDTS-ESを選択できる。
わー、やった、こりゃ新しいAVアンプのサラウンドバックスピーカー再生を存分に楽しめるって思ったのですが、どういうわけか、なにをどうやってもAVアンプ側では、入力された音声のフォーマットが「ステレオ」として認識されない。
えー、なんでー?

ひょっとして、DVDプレイヤーがちょっと古いものだから、HDMIで映像と一緒に出力できる音声がステレオまでで、サラウンドの音を出力できないのか?と思いまして。
前のAVアンプはそもそもHDMI入力が無いものだったので、DVDプレイヤーとAVアンプは光ケーブルでつないでいたんだけど、今回HDMIが4入力あるAVアンプになったので、光ケーブルは全部撤去したのだけど、こないだしまいこんだ光ケーブルをまた引っ張り出してきて、DVDプレイヤーの光OUTとAVアンプの光INを接続。
この作業だって、重たいAVアンプをギリギリおさまっている棚からずりずり出して大変な作業で。

よし、さすがにこれで認識するだろう、って思ったけど、あいかわらず「ステレオ」と表示される。
なんだこりゃ。

ここで悩んだけど、このあと1時間も接続しなおしたりしてると映画を見る時間がなくなるので、あきらめて「ステレオ」で入力された音を擬似的にサラウンドする機能を使って映画を見ることにした。

うーん、なんかがっかり。

映画が始まり、最初の会話シーンから、列車が走ってくるシーンに。
DTS-ESならさぞかしサラウンド感があるシーンなんだろうなぁ。
銃撃シーン。
DTS-ESならさぞかし迫力のあるシーンなんだろうなぁ。

ってわけで、映画を見る上でもっとも重要かもしれない冒頭の40分ぐらいの間、心の片隅でずっとサラウンド残念感がくすぶっていて映画に集中できない。
「ひょっとして、あそこをああ設定しなおせば???」
なんて思って、一時停止して設定しなおしてみたり。

で、さすがに本当にあきらめたのは、もう映画が始まって1時間ぐらい経ったところ。

で、まぁ、本当に面白かったんですよ。
『続・夕陽のガンマン』の良いところはちゃんと活かして、もっと楽しいエンターテイメントにしっかりと化けさせている。
ソン・ガンホのコミカルさもいいし。
イ・ビョンホンの(ちょっとキャラクターを作りすぎだけど)キャラも面白い。
GOODの人が、なんだかちょっとキャラ的に弱いけど、まぁしょうがないか。

エンディングもいいよね。
こういうの、あるわけないけど、ウエスタンだからこそ、虚構の世界だからこそ成立する、男と男のロマンあふれる勝負。

というわけで、もう一度、話を忘れたころにDTS-ESで、いや、BDのドルビーTrueHDとか、DTS-HD Master Audioとかで、とことんサラウンド感を楽しみながら、見たいなぁ。

おしまい。
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色即ぜねれいしょん

みうらじゅんの自伝的小説の映画化、らしい。

まず、とにかく僕は青春映画が好きだってのがある。
そして、この映画は、とても正しい青春映画だってのがある。
そして、やっぱり最後の高校の文化祭のステージでかます、あの曲は、激しく良い。

というわけで、もう、一言で言えばこの映画はすごく好きだ。
うむ、かなり好き。

僕が生まれて初めてユースホステルに泊まったのは、一浪して大学に入って、入ったサークル全部合わなくてやめて、本当に何もやることがない日々を過ごしていたときに、高校時代の友人と一緒に行った北海道でだ。
北海道のユースは特別で(特別良くて)、本州のユースに行くとがっかりするよって聞いたことあるけど、結局僕は北海道のユースしか泊まったことがない。
そして、夏の北海道のユースってのは、どこもかしこも、本当にいい感じだった。

この映画で描かれているように、同世代とか、ちょっと上とか、ちょっと下とか、とにかく彼女もいない地味な生活を東京で送っている理系男子の心を揺さぶるかわいい女の子は、そりゃあたくさん泊まっているし、夕食のあとのミーティングみたいな場で、酒を飲んで歌ったり語ったり、非常にドキドキする出会いはたくさんあるんだけど、この映画に描かれているように、それは所詮は旅先で、お互い開放感に包まれていて、自由な、それまで属していた世界から解き放された高揚した気持ちのマジックであって、やっぱりそうそう、それが恋愛につながるようなことは無いのだった。

夏だし、薄着の女の子たちの姿にクラクラするだけで、結局はなにも起こらない。

でも、この映画で描かれているように、たくさんの人と出会い、色んなことを語り合い、今まで思いもしなかった価値観に触れて、ショックを受けたり感銘を受けたりして、旅から元の場所に戻ってきた自分は、やっぱり前の自分とは何かが変わっていて、それは、青春時代の、ゆっくりとだんだんと大人になるステップを、旅という加速装置の力を借りて、ほんのちょっとだけど、2段飛ばし、3段飛ばしで昇ることができているんだと思う。

もはや、どんな旅先に行っても、僕は「おっさん」でしかないだろうけど、あともう10年もしたら、息子が旅に出る日が来るだろう。
そしたら、きっと、そんな息子がまぶしくて、僕はちょっと嫉妬するんだろうなぁ。

それにしても、みうらじゅんさん、お母さん良すぎ。
リリー・フランキーさんの「東京タワー」といい、この映画といい、なんかすごく面白いヘンなことを堂々と突き抜けた感じでやれる人って、こういう、なにをやっても認めてくれるお母さんに育てられたんだろうなぁ、って思いました。
シンディー・ローパーも言ってたなぁ、昔。
あ、そうだ、Perfumeの3人も似たようなことを言ってるな。「ブレイクまで8年間あきらめずに済んだのは、親がどういうわけだかずっと『絶対に大丈夫』って信じてて…。」みたいなこと。


あー、それにしても、青春時代は、はるか遠くになかりけり。

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ベンジャミン・バトン

デヴィッド・フィンチャー監督。

やっと見た。
なんとなく、ずーっと見てなかったのは、なんだか妙に期待していたのと、3時間ぐらいあるので、あんまりちょっとずつちょっとずつ通勤電車の電車ごとに切れ切れで見たくなかったからなのだけど、結局いつまで取っておいてもしょうがないってことで、切れ切れで見た。

うーん。

誰もが思うのは、やっぱり「フォレストガンプ」との類似点だろう。
ふつうなら絶対にあり得ない奇妙な人生を歩む主人公の人生を描きながら、この一世紀ぐらいのあいだのアメリカの歴史を差し挟んで振り返る。

ただでさえ、男のほうは船乗りから大金持ちに、女のほうはエンターテイメント業界ってことでも似ているわけで。

ところが「フォレストガンプ」と大きくちがうのは、「フォレストガンプ」がフォレスト自身は決して幸せな人生を歩んでいるわけではないのに、どことなく楽しい映画であったのに比べて、この「ベンジャミン・バトン」のほうは、ベンジャミンは例えばけっこう女遊びをしていたら、カッコいい洋服を着ていたり、最愛の人とヨットで旅してビーチでいちゃいちゃしたり、ベンジャミン自身はそれなりに人生を楽しんでいる感じなのに、映画全体がかもし出す雰囲気は常に暗い感じなんだよなぁ。

これはロバート・ゼメキスという監督と、デヴィッド・フィンチャーとう監督の性格のちがい、人生に対する考え方のちがいなのかなぁ。
ロバート・ゼメキスはきっと、「どんなことでもやればできる」って思っている感じ。その、できないはずの男ができないはずのことを成し遂げるような明るい話を描こうとしているのに対して、デヴィッド・フィンチャーって、結局人生どうにもならないものはどうにもならないもんなのさ、って思っているんじゃないかなぁ。

結局あがなうことなんかできないもんなんだっていうあきらめ。
なんか、そういう暗い感じ、前向きじゃない感じが、3時間の映画としては見ていてつらいんだよなぁ。

映画の作りの問題としては、たびたび「今」の病室に戻す必要はあったのか、ってこと。
あの作りになっていると、観客の期待としては、どうしたって少年になったベンジャミンが最後に病室に現われるとか、そういうのを期待して見てたんだけど、そんなこともおこらないしなぁ。
いらなくないか?
最初、あの病室からスタートして、回想がはじまって、映画のエンディングまではずーっと過去でよくないかなぁ?

で、やっぱり幼い外見だけど、中身は80歳ぐらいのベンジャミンがふらりと病室に入ってきて…、っていうエンディングがよくないか?

3時間飽きずに見ることができたから、それなりに楽しかったわけだけど、結局なんだったんだろう?っていう映画でしたね。

うーむ。
そんな感じ。
フォレスト・ガンプのほうが30倍ぐらい好きだな。




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ダイヤモンド・ラッシュ

デミ・ムーアとマイケル・ケイン。

1960年代のロンドンが舞台で、ダイヤモンドを金庫の中から奪うクライムサスペンス。
その時代の女性の扱われ方、誰よりも早く出社し誰よりも遅く退社する女性が、それでも男性の同僚がどんどん出世していく状況。
いら立ちと、悔しさと。
なんのためにこんなこと頑張ってやっているんだろう、と自問自答する日々。

マイケル・ケイン演じる清掃係の男性が、犯罪のプロでもないくせに堂々とし過ぎているのがなんだか、ちょっと、夢物語のようではあるけど。

ちょっともったいなかった点は、保険会社とダイヤモンド商社との契約の内容とか、保険会社の中でのあのおっさんの孤立していく流れとか、そこいらへんの説明が雑で、いったい何がどういうことになっているのかよくわからないってところが、とても残念。

それ以外は、とてもよく出来ていたんじゃないかなぁ。
あの保険会社の調査員の行動とかも、映画らしいいい感じだったし。

冒頭であの巨大なダイヤをインタビュアーの若い女性にポロリと見せるところが良いな。
一体どうやってこれを盗んだんだろう?ってずっと興味が持続する作り。

とにかく、僕の中での「映画らしい映画」っていう基準にあてはまる、見ていて楽しい映画でした。
これは良かった。
デミ・ムーアも、ヒット作に恵まれずに、いつのまにやらだいぶ年を取ったけど、でもなかなか良い作品を選んで出演しているんだな。

これは、隠れた名作じゃないかな。
名作っていうより、佳作ってところだけど。

よかったです。

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レイチェルの結婚

ジョナサン・デミ監督。

マックで必死に書いた長文のブログテキストが、ネットがちゃんと接続できていなかったばっかりに完全に消えたので、もう思い出せる内容をテキトーに書く。

他の人の感想を色々読んだけど、僕の感想とかなりちがう。
見る人によって、そこまでとらえ方が変わるのかってのが、まず驚いた点だ。
特に母親の言動の意味と、キムの最後の行動の理由が。

僕の感想、っていうか、こういう風にとらえたっていうのは、こんな感じだ。
まず、キムはこの家族の残り3人の犠牲者だってこと。
キムがリハビリ施設から出てきたばかりの頃に、ごく自然に、普通に語られる、姉レイチェルの食事や体形やおやつの話。あれはとても嘘をつくタイミングではないので、あれは本当に自然にキムの口が出ているのだろう。
キムの中では、事実なのではないか。
つまり、レイチェルがかつて(なのか、つい最近もなのか)拒食症、過食症で悩んだ時期があるっていうのは本当にあったのではないだろうか。
あと、子供の頃に親戚のおじさんにレイプされたっていう話も、お父さんが「本当なのか?」って聞いたときに、キムの口から自然に出た言葉は「もう昔のことよ」だった。
あれも、嘘を言ってやれ、っていう感じではなかった。全くなかった。

本当のことなんじゃないのか?

この姉妹は不幸にも親戚のおじさんに乱暴された。
姉レイチェルは拒食症に、妹キムはドラッグに溺れることに。
そんな姉を寝ないで看病もした。
ただ、このことは姉レイチェルに強く口止めされていた。
あのことは無かったこと。それが2人の約束だった。
いつしか、レイチェルは本当にそんなことは無かったと思い込むようになっていた。
ドラッグでラリって意味不明のことを口にするキムが時々話す過去の悲しい出来事は、「キムのいつもの嘘」で片付けられるようになっていった。
虚言癖のあるキム。そういうことになっていった。
歳も上でどうにか過去の出来事を無かったことと自分自身に信じ込ませることで、心の平穏を手に入れた姉レイチェルとちがい、キムの心はつねに乱れていた。
誰も彼女の苦しみを受け止めてくれなかった。全ては嘘で片付けられた。
ますますドラッグに依存していくキム。

幼いイーサンをそんなドラッグ中毒のキムに任せ、母親はどこかに行ってしまった。
母親は昔からわがままで自分勝手で扱いの難しい女性だった。
家族は皆、母親のご機嫌を損なわないようにふるまった。
イーサンが死んでしまった時、本来ならば責められるべきなのは、明らかにドラッグでハイになりラリっていたキムにイーサンの世話をまかせた母親だった。
イーサンを殺したのは、本当は母親が殺したようなものだった。
でも、この家族は、母親の愛をつなぎとめるために、この難しい性格の女性とうまくやっていくために、キムひとりに罪を着せて、キム一人を責めた。
麻薬でなにがなんだかわからない状態だったため、キムもよくわからないままに、家族のその判定を受け入れた。
そして、彼女にとって、反省と謝罪の後悔と懺悔の日々がはじまった。
リハビリ施設での長い日々。
そして、姉レイチェルの結婚式の日がやってきた。

家族は受け入れてくれるだろうか。
家族は彼女を許してくれるだろうか。
愛してくれるだろうか。
こんな自分でも、愛を求めていいのだろうか。
せめて、家族だけでも、自分を愛してくれないだろうか。

そして、この映画の一連の出来事がおこる。
表面上は愛しているなんて言ってる姉は、妹キムの存在そのものがもはや許せない。
キムのつらい気持ちを気づかう余裕など全く無く、容赦ない残酷な言葉を浴びせる。
父親は、昔からそうだったけど、その場を取り繕う以上のことは何もしないのだ。
そして、母親。
結局、この母親がすべての始まり。
最初にあの過去の出来事を相談したときに、姉レイチェルの「それは嘘」という言葉を信じ、キムの相談を無かったことにした。(ここは創作。でもそんな気もしたのだ)。
そして、イーサンを麻薬でハイになっているキムにあずけてどこかに行ってしまったのもこの母親だ。
イーサンが死んだ時、「わたしが悪いの。」とは一言も言わなかった母親。

施設に入るまでは、全てから逃げたくて麻薬をやり続けた。
常に麻薬におぼれ、悲しさや寂しさやつらい気持ちから逃げた。その原因であるはずの家族からも逃げていた。
でも今回、この結婚式があり、リハビリ施設から出て、完全にしらふの状態で、キムは家族と再会し、そして、家族の自分に対する気持ちや言動を真正面から受け止めざるを得なかった。
それは、とても受け止めきれるようなものではなかった。
姉の残酷な言葉。
結局、自分は今度も嘘つき呼ばわりだ。
あれは本当のこと、そんなことを主張してまたこの結婚式をめちゃくちゃにしたら今度こそ本当に姉に憎まれてしまうだろう。
表面的にだけ、どうにか事をおさめようとする父親。
昔からこの父親はことなかれ主義だった。
結局、キム一人に罪を背負わせるというひどい仕打ちに加担したようなものだ。
そして母親の本当の気持ちもわかった。
この人は、自分がかわいいから、決して自分のせいでイーサンが死んだという事実を受け入れないのだ。
そして今度も逃げるのだ。嫌なことからはさっと逃げる女なのだ。

キムはもうあきらめた。
この家に自分の居場所はない。
この家の誰も、自分のことなんて愛していないのだ。

さようなら。



という感じなんじゃないかと思いました。

 
悲しく読み取りすぎでしょうか?











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ワイルド・ライズ

「カクタス・ジャック」の監督アレハンドロ・ロサーノの2作目。
メキシコ映画。

良くも悪くもタランティーノの影響ばかりが感じられた「カクタス・ジャック」のような、複数の話が並行して進んで…っていう映画ではない。
かなり正統派というか、普通の犯罪映画、かな。

この映画で、何度もうんざりしたのは、あのカメラ揺らしまくりのブレブレ映像。
見てられないからさ。
この監督、大画面でこういうブレた映像を見たことあるのかな?って本気で思っちゃったよ。
32インチのテレビで見るならいいけどさ、視界全体を覆うような大画面でこのブレブレの映像を見せられる観客のこと考えろよ。
いや、観客のことっていうよりも、本当にこれでアクションシーンの緊迫感が増すと思っているのだろうか?
わかってやってるのだとしたら、おそらく、低予算で、実は大して迫力のあるアクションになっていないものを無理やり「迫力ありげ」にするために、しかたなくやっているんだろう。
でなきゃ、こんな逆効果としか思えないことをあえてやる理由がわからない。
本当は50キロぐらいでしか走っていないカーチェイスシーンを、無理やり迫力があるような雰囲気に仕立て上げるための「工夫」?

ま、いいけどさ。
編集室のせいぜい30インチぐらいのモニターで見ているから気付いていないんだとしたら、本当にバカな監督だって思いますよ。

あとねぇ、どうかなぁ、この話の展開。
俺は納得いかなかったなぁ。
「いやー、まんまとやられた」なんて思わなかった。


以下ネタバレ++++++++++++++

だってさ、あの男が、あの警察署長やテキサス人を敵に回すような大勝負に出るとは思えないよ。
この映画ではなぜかうまいこと行ってるけど、どう考えてもあいつが警察署長を敵に回して、こんなギャンブルに出るかなぁ。
というか、あれをやるならば、もっと簡単な方法があるでしょ。
あの駐車場屋上の金交換のところで、銃撃を受けて、それで4人はバラバラになっちゃうわけだよね。
ってことは、互いに他のメンバーの生死は知らないわけだ。
ってことは、あのあと他のメンバーと合流しなくても問題ないわけだ。
ってことは、他のメンバーと合流なんてしないで、そのまま空港に行っちゃえばよくないか?
あそこで、なぜ合流する?
その後も、なんであんな色々危険なことに付き合うんだ?
テキサス人のところに3人で行くけど、あの時点で、すでにテキサス人があの緑色のバッグを奪い返していたら、もうバレてることになっちゃうじゃないか。ひょっとするとそんなところにのこのこ3人で顔を出すことになりかねないわけだし。

というわけで、あのエンディングを見ても、決して、「うまいなぁ。監督に見事にだまされちゃったなぁ」なんて思えない。
ぜんぜんツジツマ合ってないよ、この映画。

あとね、原題はちがうんだけど、日本の配給会社のバカが「ワイルド・ライズ」なんて邦題をつけたせいで、誰が誰に嘘ついてるんだろう?って思いながら見てしまったわけですよ。
主人公(?)はちがうとすると、もう女かあいつしかいないでしょう。
この女が本当はテキサス人とグルかな? それとも、この男が実は嘘ついてるのかな? って思いながら見ちゃいましたよ。
でね、あのエンディング見ても全然納得いかないわけですよ。
それまで、見ながらずっと頭の中で考えていた推理よりもずっと低級だったから。
頭の中で「それじゃあ、ツジツマ合わないもんな」って却下した推理が、なんとエンディングで登場。
納得いきませんよ。

というわけで、非常に微妙な映画でしたね。

あと、スペイン語がわからないのでなんとも言えないのだけど、字幕はかなりテキトーな仕事をしているんじゃないですか、これ。
字幕だけ見てると、会話がいまいち成立してないようなところも散見。

ひょっとして、アメリカとかイギリスで公開されたときの英語字幕をさらに日本語に翻訳しているのか?翻訳が2段階で、完全に伝言ゲーム状態? なんて気もしました。


というわけで、監督の考えたストーリーがそもそも穴だらけ、アクションシーンのカメラワークが許せないレベルのブレブレ映像、そして、日本の配給会社のバカな奴の手抜き仕事、という色んな要素が組み合わされて、僕にとってはなんだかムカムカする映画でした。

もう一つ、ムカムカ感を増やしてくれたのは、この映画が新しいAVアンプのサラウンド音響セッティング直後に、「さあ、すごいサラウンドが聴けるかな」と期待して見たのに、ほとんどサラウンドスピーカーから効果的な音がしなかったのでガッカリしたってこともあります。
サラウンドの音作りにまで予算が回せなかったのかもしれないんだけど。


おしまい。



















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そして、私たちは愛に帰る

「太陽に恋して」「愛より強く」のファティ・アキン監督。
この映画も、トルコ系ドイツ人である自身のバックグラウンドを活かした設定になってる。

3つの親子の関係が、すごくうまく絡み合う。
「愛より強く」のような激しいファックシーン、暴力シーンは無いし、「太陽に恋して」みたいにカーチェイスシーンとかもない。有無を言わさず無理やり映画に引きずり込むような作りではない。
もっとゆったりと、少しずつ少しずつ、ドイツとトルコとそれぞれの場所でそれぞれに生きる6人の人生が交錯して、結果として、(生き残った)人達は親は子の、子は親の気持ちを再認識する。
出会っているのに互いに気付いていないっていうのが面白い作り。
この映画を見て、イスタンブールみたいな大都会で、そんなに偶然出会うわけがない、っていうケチをつけちゃうのはつまらない。
「スラムドッグ・ミリオネア」を見て、そんなことを起こるわけがない、ってケチをつけるようなもの。
監督は、どういうわけだか起こってしまった現代のファンタジーを描いているはずなのだから。
それが映画のすばらしいところなんだから。

犠牲祭(だっけ?)のくだりが最高だ。
映画の冒頭が、ここなんだよなぁ。ネジャットがガソリンスタンドで車を停め、お店で食べ物を買う。「犠牲祭おめでとう」というセリフ。犠牲祭ってなんだろう?って思う。

そしてずーっとめぐりめぐって、ネジャットとロッテのお母さんが話す。「犠牲祭ってなに?」「こういう話があるんだ。神様が…」って。
ネジャットが父親の自分への深い愛に気付く瞬間。すばらしい。
ロッテのお母さんが、ロッテが暮らしていた部屋に来てロッテの日記を読み、娘が自分のことを考えていたことを知るところも。娘はまるで昔の自分のようにあんな行動をしたのか。母親はだからこそ娘を止めたけど、娘は自分の過去の行動を知っていた。

いろんなことがあって、みんな相手の自分への気持ちに気付く。

けっこう地味な作品なのですが、非常によくできた良作だと思います。

そして、もうひとつ、この監督の過去の作品のように、音楽がまた素晴らしい。

いい作品でした。





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エイミー

オーストラリアの映画。

何年か前にCMでこの映画の、この女の子が歌う、あのエイミーのお父さんがエイミーのために作った曲がよくテレビから流れていた。
CMで、映画の中の印象的な曲が使われることって多いけど、あの曲もそうかこの映画が元ネタだったのか。

とにかくこの設定がすばらしい。この設定にしてことで、結果として、ミュージカル映画じゃないのにミュージカル映画になってしまう。すごいアイデア。
みんながエイミーを探して、あの頑固なおばあさんが歌い、そして、おまわりさん達も歌いながら探し回るところは本当に最高だ。
これはやられた。
いいアイデア。

あの、お母さんの回想シーンで、歌が異様に長いのだけはちょっとどうかと思ったなぁ。
なんでこの映画で、あんなにあの男(エイミーのパパ)に歌わせる必要があるのだろう。
長すぎるでしょ。
むしろ、向かいのあの男性の歌をもっと聴きたかった。
あの男性が歌って、エイミーがだんだんと心を開き、歌い出すところを、もっともっと丁寧に描いて欲しかったし。いや、単純に、彼の歌が好きだ。もっと聞きたかった。あんなエイミーのパパの歌うどうってことないロック(という言葉が恥ずかしいが)なんかよりも。

とにかくよかった。楽しめた。
このアイデアはすごい。
映画のためのアイデアではなく、こういう症状の人が実際にいるんだってことが、DVDの特典に入っていたけども、でもすごい設定だ。
逆に言うと、この不思議なミュージカルのような映画になっていなければ、この映画はそれほど楽しめなかった気もする。

思いがけず、なかなか良い映画に出会えました。
あの曲だけ、CD欲しくなった。サントラ丸ごと買うほとじゃないけど。







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大統領に気をつけろ

キルスティン・ダンスト。この人が出てくる映画を2本連続で見るなんて、なんたる偶然。
しかし、この映画、楽しかった。
70年代のファッション。音楽。特にファッションに関しては、映画制作者が思いっきり楽しんで作ったんだろうなぁ。70年代ヒッピー系のオシャレファッションが次から次へと出てきて、ほんと見ているだけで楽しい楽しい。
女子高生2人が単に楽しく過ごしているうちに、ウォーターゲイト事件の真相に自分たちでは全く意識せずに近づいていくっていうストーリーが軽快で、これまた楽しい。
ニクソンに「あなたは嘘つきだ」って迫って、ニクソンが「ウォーターゲイトなんて、私は全く知らない」って答えると、「そのことじゃなくて、あなたは犬が好きだって言ってたけど、本当は犬嫌いなんでしょ。」と問い詰めるところ。最高。
こういう、本人は全く知らないのに、大事件の中心人物になってしまっているっていう映画って、けっこうあるけど、この映画はその面白さでグイグイひっぱって大笑いさせるのが目的ではなくて、あくまでも70年代のティーンネイジャーの女の子2人組のどうってことない普通の会話なんかが楽しい映画になっていて、そこがポイント高い。

ま、あんまり期待して見るような映画でもないけど、楽しく1時間半ぐらい見ていられる良い映画でした。


とにかく、見て楽しいファッションの数々、でした。
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最高の人生

ビリー・ボブ・ソーントンが主演で、さらにはモーガン・フリーマン、ホリー・ハンター、そしてキルスティン・ダンスト。
これだけの豪華キャストだけど、ツタヤの棚でひっそりと。もちろん日本では公開されていなくて、DVDスルー。

うん、たしかに派手さは無い。皆無と言っていい。
ただ、なんていうのかなぁ、人生の奥の深さっていうか、人との関わり、思っていた人生だけが人生じゃない、誰かと出会って、そのせいで人生が思い通りに行かない、おかしな方向に進んでしまうこともあれば、色んな人と思いもかけず出会うことで人生が思いもよらない素晴らしい方向に動いていくこともある。

モーガン・フリーマンの存在がこの映画の中でどういう意味があるのか、それだけはよくわからなかったけど、あとの人達は、主演のビリー・ボブはもちろんのこと、この映画の中で、なにかこれまで思っていたのとはちがう人生を歩みはじめる。
主人公は許されるわけがないって思っていたけど、あの最後のホリー・ハンターのセリフ。「わたしの役目は終わったわ」。このわたしの役目って、ずばり、「あなたの償いを受け入れ、あなたと許す役目」ってことだろう。
主人公は、思いもかけず許されたことで新しい人生を歩み出す、ホリー・ハンターもまた、許せるはずがなかった人を許せたことで新しい人生へ、そしてキルスティン・ダンストも。

地味だけど、こりゃ、なかなか見ごたえのある映画でした。

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かいじゅうたちのいるところ

子供の時、僕には友達がいなくて、幼稚園に行くと一人で積み木で遊んだりして一日を過ごし、家に帰ってきてからもずーっと折り紙を折ったり、絵を描いたり、レゴで遊んだりしていた。一人で。
それは一人が楽しかったのではなくて、友達はほしかったけど、どうやったら幼稚園の園庭で楽しそうに遊んでいる輪に入れるのかわからなかったし勇気も無かったのだ。
家に帰って来てからも、とにかく一人で色んなものを作ってた。黙々と何かを作る楽しさって本当によくわかる、けど、それを誰かと共有したときの、すごいねってほめてもらったときの喜びはやっぱり格別だってことも知っていた。
小学校に上がったら、びっくりするほど何もしてないのにあっという間に友達がたくさんできたんだけど、でも自分の中では、あの一人でひたすら折り紙を折ったり、絵を描いたりしていた時間はずーっと心の核の部分みたいな感じで残っている気がする。

ま、この映画のマックスとは全然状況がちがうとは思うんだけど、でも、この映画を見たら、どうしたってかつての、自分の世界の中にこもって黙々と作り続けた時間を思い出してしまう。
家族がお姉ちゃんとお母さんしかいないマックスとちがって、僕の家は7人家族だったから、こんなにかまってもらおうとしなくても、自然と家族の誰かにはかまってもらっていた気がする。特におばあちゃんがいたのが大きかったな。自分でもちょっとこれはすごいんじゃないかなって思うような折り紙が折れたり、絵が描けたりすると、僕はおばあちゃんに見せに行って、そして期待どおりの言葉をもらえた。必ず。「すごいねぇ。」っていう言葉。「本当に上手だねぇ」って言葉。
そこがマックスとちがうところ。
マックス、つらいだろうなぁ、やっぱり、とは思った。けど、イマイチ感情移入できなかったのも事実だ。
僕は、マックスに比べると多少はかまってもらえていたっていうのもあるけど、マックスみたいに感情を爆発させたり、自分のわがままな気持ちを堂々と周りの人に伝えられるようになったのは、小学校4年生ぐらいになってからだ。なにかを相手に求めてそれが通らなかった場合、僕はただあきらめた。要求できなかった。
だからマックスを見ていると、かわいそうっていう気持ちもありながら、マックスみたいに、感情を出せたらどんなに気持ちが楽だっただろうって、すこしうらやましく思った。

ま、マックスにはマックスの、僕の少年時代にはなかったつらさがあるんだけども。

で、かいじゅうだ。
なんの説明もないから、これがマックスの心の中で想像した世界なのか、実在する世界ってことなのか、そこがまったくわからないで見ることになるんだけど、とにかくマックスが求めた心地いい不満のない世界はどこにもなかった。
かいじゅうたちも一人ひとりみんなそれぞれに不満を持っていて、嘘ついて王様だって言ったことも結局プレッシャーにかわってしまう。
いちばん最初に友達になったかいじゅうは、いちばん自分と似ている。なんだか自分勝手で、自分のやりたいことをまわりに押し付けて、自分が思うように相手が行動してくれないとふてくされたり怒り出したり。
自分を中心に世界がまわっているような気持ちはやっぱりこのかいじゅうたちの世界でも錯覚でしかなかった。そんな都合のいい世界なんてどこにもないんだ。
やっぱり周りの人達とどうにかうまく関係を築いて、ちゃんと相手の気持ちとか考えて、自分のやりたいことばっかり通したりしないで、周囲の社会と折り合いをつけながらやっていくしかないんだ。

そっか、やっぱり、いろいろ大変なんだよな。生きるって。いろんな人とどうにかうまくやってくしかないんだな。ママもおねえちゃんも、みんなそれぞれ色々あるんだな。

ってことで、マックスは大人への階段を一歩のぼっていく。
おい、行っちゃうのかよぉ~、という残されたかいじゅうたちとは対象的に、彼の顔はどこか晴れ晴れとしていて、未来に向けて、なんだかキリリとかっこいい顔をして前をしっかり見つめている。

子供って、最初は母親と自分を同じつながったものだと思っていて、次に自分はどうやら自分らしい、母親とは別の個体らしいってことに気付き、それでも世界は自分を中心にまわっていて自分が泣けば周りの人がなにか対処してくれて、っていう世界にいて、そして次に、この映画のマックスのように、どうやら世界は自分の都合とは関係なく勝手に進んでいくものみたいだぞってことに気付くんだと思う。
その、どうやら自分を取り巻く世界は自分のためにあるんじゃないみたいだってことに気付くステップにいる、ある男の子の物語なんだろうなぁ、この映画は。

いろいろ考えちゃうけど、正直、この年代の男の子が主人公の映画は、もはや本人に感情移入するよりも、親の視点で、ウチの子大丈夫かなぁって気持ちで見てしまうようになった。
そのことが一番ビックリした点でした。
俺も大人の階段のぼってるんだなぁ、って。

おしまい。


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レベルポイント

アメリカの地方のそのまた郊外の新興住宅地。
なんにもない広い土地に、同じような、きれいな家が並び、そしてティーネイジャーにとっての娯楽が何もない。
コロンバスはこれほどじゃなかったけど、コロンバスからさらに車で20~30分も行けばもうこんな感じだった。
コロンバスだって、娯楽はボーリングと映画館だけだったし。
ほんと、頭おかしくなりそうだよなぁ、こんなとこに住んでたら。
人間ってのは、もっと猥雑な生き物で、住むべき場所ももっとごちゃごちゃしてるべきだよ。
今住んでる場所が、けっこう人工的に作られた街で、そういう街って昔から嫌いなんだよなぁ。多摩ニュータウンとか、うわー、つまんねー街。僕が今住んでるのも似たような人工的でつまらない街。はぁぁ。
やっぱり、吉祥寺とか、下北沢とか、三軒茶屋とか、高円寺とか、そういう街に住みたいなぁ。。。って映画の話からそれ過ぎか。
とにかく、つまんねーってことだ。つまんなすぎて頭がおかしくなりそうだってことだ。
コロンバイン高校だってこういう場所でしょ。
昔からのさびれた田舎町ってのとはちがうんだよ。
もともとは何もなかった、だだっ広い土地に、とつぜん道を作って家を作って、それがどれもこれも似たような特徴のない家で、そんな街って本当につまらないだろう。
特に、なにかやりたくてウズウズしている中高生にとっては。

なにも理解できていない大人たち。
だんだんとたまっていく鬱憤、不満。
はけ口の無いイライラした気持ち。

「ニルヴァーナのカート・コバーン、ソニック・ユースのキム・ゴードンのフェイバリット映画とも云われる、世界的に熱狂的なファンを持つ傑作青春映画!」「ニルヴァーナの大ヒット曲"SMELLS LIKE TEEN SPIRIT"のPVの元ネタが本作レベルポイントであり、カート・コバーンは本作が彼の人生に大きな影響を与えたと公言していた。 」だそうだ。(出典:アマゾンの紹介文章)
それだけで見たくなる人も多いだろう。

サリンジャーの訃報を聞いた朝、なぜかこの映画を見始めるなんて。運命感じる。
10代のやり場の無い気持ちがうずまく映画。

こりゃあ、なかなか掘り出し物の青春映画でした。
もっと若い時に見ていたら、もっと影響受けたかもなぁ。




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キャピタリズム

マイケル・ムーア。

あいかわらず、わかりやすく、そしてジョークもまじえて説明してくれる。
7000億円の税金がどこに消えたのか。というか、ドサクサの土壇場で、トリックのようなことをして、7000億円の税金をせしめて、その使途をまったく報告しないでよいようにした奴らがいたのか。なるほど。

日本も、ほんと同じ道を歩んでいたよね。
小泉さんの時代に。
竹中さんって本気でアメリカ的な資本主義、1%の金持ちのために99%の国民がホームレスになったり路頭に迷うような社会ルールが正しいと思っていたのかなぁ。竹中さんもこの映画で描かれている1%の人たちの一員だったってことなのか???
竹中さんに見てもらいたいよなぁ、この映画。
まあ、きっと、竹中さんはこの映画を見ても全く意見が変わらないだろうし、もっともらしい反論をするんだろうなぁ。

民主党になって、日本もどうなるんだろう。
オバマさんもかなり苦戦しているみたいだし。

世の中が、まじめに生きているごく普通の大多数の人たちの手に戻ってくることを切に望む。

こないだ見た「ジャマイカ 楽園の真実」とかもそうなんだけど、本当に一握りの人達が、ものすごい金を手に入れるために、世界中の人たちを騙して不公正なルールを勝手に導入して好き勝手やっている、そういう感じがしちゃうよなぁ。
で、日本でも、その一握りのグループのメンバーが暗躍しているんだろうか。
こわいこわい。

とにかく、資本主義が万能だと思っている人達に権力を持たせてしまうと、かなり恐ろしい事態になってしまうってことがよくわかりました。

でも、2時間以上あるのは、ちと長すぎかな。





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