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上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

暗闇から生還したウチナーンチュ 4

2013-04-14 09:33:36 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

前回の続き

~我如古の井戸編~ 4

 山里孫存ディレクターはその日の上映会の収録画面を編集し、沖縄テレビの毎週水曜日の沖縄戦六十周年シリーズで放送し、反響を呼んだ。
 戦争を生き残った者はほとんどの場合、子や孫には戦争の話をしない。愛する者には元気に明るい人生を送ってもらいたいのだ。
 だが、生き残った者はいったん口を開くと、見事な語り手となる。無意識のうちに戦争の物語をまとめ、封印しているのだ。一方、戦争フィルムの中に自分や家族の姿を見ると、自分の全人生を見る。だからこそ感動が生まれるのだ。そればかりではない。これから話すような信じられないことが起きることがある。
 テレビの報道からしばらくして、山里さんに一本の電話がかかってきた。「私たち姉妹も我如古の井戸から救出されたのでずが、そのフィルムを見せてくれませんか。ひょっとすると私たちも映っているかもしれません」。沖縄市に住む真栄城初江さんという方だった。山里さんからの連絡を受けて筆者も取材に参加した。真栄城さん宅には妹の米須キヨさんら親族が待っていた。初江さんは朗らかな人で、キヨさんはおとなしい人だったが、二人の話では家族が井戸から救出されたということだ。母の平良きくえさん、祖母のウシさん、それに叔父も井戸に潜んでいた。生後四カ月の妹を母きくえさんは勝子と名付けたが、平和の礎には勝江と刻まれているという(最新の情報では、そのきくえさんも二〇〇九年の九月に亡くなった)。父の平良真勇さんは防衛隊に召集され、摩文仁で戦死された、ということだ。初江さんとキヨさんは話をしながらも、「私たち映っているかしら」と気が気でない様子だ。
 いよいよ、ビデオテープがテレビに設置されて、いつものように照明係の金城さんとカメラマンの赤嶺さんが二人にカメラを向け、決定的瞬間を期待する。
 ビデオがスタートする。井戸から住民が救出される感動的場面が続く。二人の真剣な目が映像を追う。画面は救出されてトラックに乗る人々に移る。だが、二人の姿は出てこない。二人の目に失望感が漂う。「私たち映っていないんじゃないかしら」。画面は別のリールに移る。だが、やはり二人の姿は出てこない。山里さんも二人のそばで決定的瞬聞を待っているが、その目にも失望感が浮かぶ。
 「これはハズレかな」。その時、初江さんが「アリ、アリ、アレーワンアラニ(あれまあ、あれは私じゃないの)」とウチナーグチで叫んだ。縦ジマの着物を着た少女が画面に現れ、続いて淡い模様の着物を着た小ちゃな少女がアメリカ兵に引き揚げられ、一瞬フラッとしたが、姉のところにヨチヨチ歩いてゆく。姉がいかにもお姉さんらしく妹の頭をなでて迎える。姉妹の表情はとても落ち着いている。
 ところが、この画面を見ていた初江さんとキヨさんの表情は驚きと喜びが入り交じり、次の瞬間目から涙があふれ出た。カメラマンの赤嶺さんはこの瞬間を逃さなかった。カメラマン冥利に尽きる一瞬だった。肩が傾いても重たいカメラを担ぐ理由がそこにある。初江さんの口から感激の言葉が機関銃のように出てくる。キヨさんは感激で言葉が出ない。山里さんは落ち着いて取材した。何度も姉妹の登場する場面を二人に見せ、落ち着かせた。テレビ報道用の取材が終わったところで、キヨさんが何げなく言った。今度は山里さんが仰天する番だった。「私、お姉さんが着ていたあの着物をまだ持っているのよ」

「アリ、アリ、アレーワンアラニ」とテレビ画面に向かって驚きの声を発する真栄城初江さん(左)と妹の米須キヨさん

救出されたばかりの妹のキヨさんの頭をやさしくなでる初江さん(その着物は60年後も大切に保管されていた)

つづく


暗闇から生還したウチナーンチュ 3

2013-04-13 09:28:05 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

前回の続き

~我如古の井戸編~ 3

 宮城盛英さんは筆者の思っていた通りの人物だった。募黙でひょうひょうとしていた。自分がアメリカ兵と一緒にガマや亀甲墓や井戸に潜んでいる多数の住民を救出したことを他人に語ることはなかった。ましてや、それが英雄的行為だとは全く感じなかった。道で転んだ子供を助け起こすことと大して変わらなかった。それだから、フィルムの中の白いハットの青年が自分に似ているが、自分は白いハットなどかぶったことはないから自分ではないだろうと軽く考えて、島袋記美子さんに、そう言ったのだ。あの米須精一さんもそうだった。数千人の住民を救出しながらケロッと忘れていた。それが沖縄の聖衆高さる人々なのだ。
 だが、宮城さんのそばに立っている仲宗根千代さんは、六十年前、目の前の井戸から自分たちを救い上げてくれた宮城さんのことをはっきり覚えていた。「この人が私の命の恩人よ。この人がこの井戸の底に降りてきて、『アメリカ人はあなた方をいじめたり、殺したりしないから井戸から出よう』と言ったので私たちは井戸から出ることにしたのです。この人のおかげで私はこうして生きているのです」と仲宗根さんは明るく語ったが、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。二へーデービル、と宮城さんに抱きついた。宮城さんは恥ずかしそうにほほ笑んだ。このすばらしい再会はこの井戸をそのまま保存し、テレビ・クルーと一緒に井戸の底の洞窟に潜ってくれた呉屋盛一さん夫妻のチムグクル(心遣い)がなければ実現しなかったろう。
 さて、井戸の取材が終わると、テレビ・クルーは我如古公民館に向かった。そこには数十人の我如古住民が待っていた。山里ディレクターがすべて整えていたのだ。いよいよ、例のフィルムのテレビ上映が始まった。観衆はしんと静まり返り、食い入るようにテレビの画面を見つめる。あちらこちらから、声が上がる。「アレー××ヤサ」「画面をとめて!」「もう一度そこ」さまざまな声が交錯する。観衆は皆、我を忘れて画面の世界と一体となっている。整理がつかない。
 だが、カメラマンの赤嶺さんは観衆のさまざまな表情を見事にとらえていた。声も拾っていた。井戸から救出された人々の氏名と消息が次々と判明した。これまで、目標(井戸)を探すのに苦労していたが、目標にたどり着くと一挙にすべてが明らかになる、そんな感じだった。もちろん、フィルムに登場する人物のすべての氏名と消息が判明したわけではない。
 棚原盛福さんは観衆の中で静かにテレビの画面を見ていたが、その時、彼の口から「アッ」と声が漏れ、目から涙があふれ出た。画画に映っていたのは今は亡き、妻の春子さんの姿だった。春子さんは愛らしい笑顔を浮かべている。初めて見る亡き妻の少女時代の映像だった。彼の胸には春子さんと過ごしたすばらしい青春が走馬灯のように去来していたに違いない。筆者が映像の力を実感した瞬間だった。
 フィルム映像は写真と違い、登場する人物が今、生きているように動くのだからインパクトが大きい。アメリカ軍は百人以上のカメラマンが戦場の場面だけではなく、沖縄住民を無数に撮影した。
 実を言えば、沖縄戦のフィルムを見た者はほんの一握りにすぎない。それは恐ろしい、悲しい戦争を誰も見たくないからだ。山里孫存さんを先頭に今、テレビ界も新しい視点から沖縄戦の生き残った者たちを訪ねる旅が始まっている。

棚原盛福さん。 今は亡き妻の春子さんの映像を画面に発見し、喜びの涙を浮かべた瞬間

在りし日の棚原春子さん。井戸の中から救出された直後、笑顔をカメラに向ける、いや、棚原盛福さんに向けている。

つづく


暗闇から生還したウチナーンチュ 2

2013-04-12 09:17:41 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

前回の続き

~我如古の井戸編~ 2

 比嘉ツル子さんに案内されて筆者と新城良一さんは我如古のに入った。比嘉さんの自宅からほんの二、三キロ離れているだけだったが、比嘉さんは六十年ぶりどのことだった。

 我如古公民館に車を預けて、僕らは歩き始めた。だが、フィルムで見た我如古の景観はなかった。すべてが変わってしまっていた。比嘉さんはあの井戸の場所が分からず、戸惑っていた。狭い通路を行きつ戻りつしている内に、比嘉さんの表情が真剣になり、子供のように足早に歩き始めた。いつも四拍子で歩いている筆者はどんどん離されてゆく。比嘉さんの目には誰のことも入らない。あのころの自分の世界に入ったのだ。
 それでも井戸は見つからない。ある屋敷の後ろで僕らがウロウロしている姿を見た家主がどうしたのか尋ねてきた。説明すると、「この屋敷の井戸かもしれないね」と言った。その人が呉屋盛一さんだった。呉屋さんは大きな駐車場に案内し、「ここですよ」と言った。そこには大きな鉄板が置かれていた。石囲いは壊してしまったそうだ。鉄板を外すと、そこには底が見えない井戸がぽっかり口を開けていた。比嘉さんは顔を上気させ、言葉を詰まらせて、うなずいた。とうとう「井戸」を見つけたのだ。
 呉屋さんの説明では井戸の底には東西約二百メートルの自然洞窟が横に延びているということだ。これで二つの謎が解明された。井戸の底から二十数人の住民が次々、姿を見せるフィルムを見て、井戸の底はどうなっているのか、想像がつかなかったからだ。そして、宜野湾市文化課が調査した洞窟の図面はこの井戸を示していたのだと気がついた。筆者はすぐに山里孫存ディレクターに電話した。「やったぞ。井戸を見つけたぞ。後は君の出番だ」
 数日後、山里さんはすべてをテキパキ手配して、テレビ・クルーを伴って取材に向かった。筆者もついて行くことになった。取材現場の井戸の入り口には呉屋盛一さんとご家族が迎えてくれた。呉屋さんは井戸にはしごを下ろし、電線を延ばし、先頭に立ち、取材クルーを奥で待っている。照明係の金城さんが取材クルーの先頭を切り、いつも重たいカメラを担ぎ、肩が右に傾いてしまったカメラマンの赤嶺さんが続く。
 筆者がはしごを降りると、底には水がたまっている。やはり井戸だ。だが、呉屋さんが張り出してくれた横板の先に大きな口を開けた洞窟が続いた。洞窟の奥は照明が届かず、真っ暗だ。横二、三メートル、縦一メートル足らずの空間だから、体をかがめながら進む。筆者の後から来る山里さんと顔を見合わせ、溜息をつく。 「よくもこんな暗黒の世界に二カ月近くも潜んでいられたものだ。大したものだ。世間にはイヤなことも多いが、太陽の下が一番だね。さあ、戻ろうか」。僕らは深くて暗い井戸の底から再び太陽の下に出た。身体は泥だらけになっている。気分はほっとする。だが、戦争の時、救出された者たちの気持ちが分かるはずもない。僕らはわずか一時間足らず洞窟にいただけだ。この井戸の奥の洞窟には老人だけではなく、物心もつかない子供たちもいた。いや、物心もつかないと言っては失礼だろう。子どもたちは外界で何が起きているか、よく知っていた。だから、二カ月間も暗黒の世界にいられたのだ。つまらない物欲に振り回されている現代の大人たちの方が物心がついていないのだ。
 井戸の外に出ると、一人の老人が静かに微笑を浮かべて立っていた。ピンときた。フィルムの中で井戸から住民を救出したあの白いハットの"青年"だ。その人がやはり宮城盛英さんだった。そして宮城さんのそばに立っていたのは、比嘉さんと一緒に井戸から救出された仲宗根千代さんだった。

「あなたは私の命の恩人よ」と宮城盛英さん(左)に抱きつく仲宗根千代さん(呉屋盛一さん宅の井戸のそば)

つづく


暗闇から生還したウチナーンチュ 1

2013-04-11 09:24:49 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

~我如古の井戸編~ 1

 ぼくはいつも「戦争とは人間が試される究極の舞台だ」ということを念頭に置いて戦争の物語を伝えている。 そして「最も醜いはずの戦争」の中にこそ最も美しい人間の物語が秘められているのだ。 今、琉球新報や沖縄タイムスが腐れ切った中で真実を告げるという戦いのど真ん中で「真実を告げる」という作家の真価が問われている。そして、ぼくは恐れることもなく、勇気を持って戦っている。 いつか、いや、まもなく、ぼくの物語は最も美しい物語の一つとして歴史の中に刻まれることになるだろう。

 読者のほとんどはぼくのこうした物語を読んだことがないはずだから、ここでぼくのことを知ってもらうためにもこれまで発表した「戦争の中の人間の物語」を伝えることにしよう。 では、ぼくが2006年12月20日から28日に琉球新報で発表した物語を紹介しよう。

 二〇〇四年六月、筆者は沖縄県平和祈念質料館の島袋記美子館長から依頼を受けて一本の戦争映画を作った。 資料館が保存している二百五十本余の沖縄戦フィルムから四十本ほどのフィルムを選び、台本を用意した。 映像編集を担当したのが映像の魔術師と評判の高い沖縄テレビのディレクター山里孫存さんだった。 「そしてぼくらは生き残った」と題された作品はこれまでの「悲惨な戦争の哀れな生き残り」という既成概念を打ち破るものだった。 生き残った優しくたくましいウチナーンチュの姿を伝える「人間賛歌」だった。 だが、これから語ろうとしているのはその映画のことではない。 その映画の一シーンのことだ。 暗く深い井戸の底に一人の白いハットの青年が降りて行き、子供、娘、母親、老人らが次々、つるべにしがみつき、引き揚げられる。 目が離せない印象的な場面が続く。映画に詳しくなくても見事な、映像だということはわかる。 彼らは一体、どこの誰だろうか。そもそも、この井戸はどこにあるのか。 島袋さんも山里さんも、もちろん筆者も、この井戸の場所を探し当て、救出された人々に巡り合いたい、という気持ちがふつふつとわいてきた。
 その年の慰霊の日に資料館で映画が上映されたが、「井戸」の情報は皆無だった。 それでも、必ず見つかるはずだ、という確信は揺るがない。 三人の思いは執念となった。 救出シーンの映像には一九四五年五月十二日の日付と第77歩兵師団という記述がある。
 山里さんはこのフィルムに映っている通訳が新着の慶留間島上陸のフィルムにも登場していることに気がついた。 慶留間に上陸したのは第77師団だから救出シーンのフィルムが第77師団の撮影班の手によるものであることは間違いない。 五月十二日の時点で第77師団は首里の北側に近づいている。 撮影隊は前線の後方にいるから宜野湾あたりだろう、とおよその見当がつく。
 山里さんと一緒に宜野湾市役所文化課に出かけ、問い合わせたが、確たる情報は得られない。 井戸は無数にあるのだ。 その時には重要だと思わなかったが、文化課の人が一枚の図面を提供してくれた。 我如古内の洞窟の調査図面だった。 だが、僕らが探しているのは、井戸であって洞窟ではない。 その時はそう思った。
 一方、島袋さんは誰よりも核心に近づいていた。 映画を見た知人から、救出された少女の一人は比嘉ツル子さんと言い、宜野湾市に住んでいるという重要情報だった。 だが、比嘉さんは取材を拒んでいるという。 さらに、井戸から住民を救出した白いハットの青年は宮城盛英さんだ、ということを聞き、島袋さんは一人で宜野湾市我如古に出かけ、本人にビデオを見せたが、白いハットの青年は自分ではない、白いハットなどかぶったことはない、と告げた、ということだ。
 島袋さんはこれではどうしようもない、とあきらめ顔だ。 だが、ウチナーンチュ気質を誰よりも知っていると自負している筆者は確信した。 宮城盛英さんが白いハットの青年だ。 そして、比嘉ツル子さんも必ず、取材に応じてくれる はずだ。 山里ディレクターに連絡して、取材の準備をさせた。 ところが比嘉さんに電話するとテレビ取材はイヤだ、というのだ。 だが、筆者だけなら会ってもよい、との返事を得て、やむなく山里さんとテレビ・クルーを置き去りにして、大琉球の英語文献すべてを収集している新城良一さんの車で宜野湾市に向かった。 比嘉ツル子さんは会って話をするうちに、目が輝き出し、我如古の井戸へ案内しようと言った。だが、戦後一度も井戸を訪ねたことはない、という。

60年前の自分の姿を画面に発見して感動する比嘉ツル子さん

深い井戸から救出された可愛い少女は比嘉ツル子さん(1945年5月12日宜野湾我如古)

つづく


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