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上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

暗闇から生還したウチナーンチュ 9

2013-04-19 09:24:11 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

前回の続き

~轟の壕編~ 3

 壕の入り口に座を占めていた荒井警察部長が、怒鳴り込んできた兵隊に事情を説明すると、その兵隊は「一般人が入り込んだ、と思ったものですから。知事さんなら話は別です。こちらの入り口から壕の半分をあなた方で使用され、向こう側の入り口から半分を隊で使用することにしましょう」と。
 筆者はこの話を伝えながら、不快に思う。一般人と知事を差別していることだ。筆者は人を職業や地位で差別することはない。
 島田知事は警護の隈崎に言った。「今の様子では、ここにも長く居られそうにない。すまんが、代わりの壕を探してくれんか」。隈崎は嘆いた。一県の知事ともあろう方が、まるで野良犬のように追われ追われて、落ち着く場所もない。神州不敗などというスローガンを盲信した、自分たちの浅はかさが情けなかった。戦争は負けるんだ。だが、自分の最後の役目は知事を守ることだ。
 知事の一行は皆、敗戦を感じていたが、投降など誰の頭にもなかった。死ぬことが、国の、天皇陛下の大恩に報いる道だ、と信じていた。死ぬことが唯一の救いだった、いや、正確には逃げ道だった。
 だが、死ぬまでは立派に生き延びねばならない。隈崎は部下の与那嶺巡査部長と浦崎巡査に、近くのから知事の敷物を探してくるよう命じ、壕の外に出た。雨がやみ、近くを流れる与座川(正しくは報得川の中流)がS字の形を作って、流れが緩やかになっていた。そこに水浴びをしている住民がいた。戦争を忘れた至福の瞬間だ。隈崎もためらわず水に入った。島田知事も荒井警築部長も子供のように水浴びに参加してくる。水は人の悩みも苦しみも流してくれる。そう思った。だが、それも束の間の夢にすぎなかった。グラマン機が頭上をかすめて去り、夢は終わった。
 島田知事が福地森の壕に移ったことがいち早く近くの壕に伝わったらしく、県庁職員らが挨拶にやってきた。高嶺製糖の工場長が糖蜜酒を水筒に入れて、知事に贈呈した。いつも冗談を絶やさぬ大宜味衛生課長が「一県の長官にわずか水筒一本とは、シミッタレたやつだ」と言うと、工場長は「そんなに欲しいのなら、取りに来いよ」というわけで、大宣味医師と若い者二、三人は壕を出て、一時間もすると、鬼の首でも取ったような顔つきで帰ってきた。壕内にあった水筒の全てに糖蜜酒が詰められていた。
 その大宜味医師に知事は「怖がって外にも出ないやつが、酒だと目の色を変えて飛び出して行ったな」と軽口を叩いて言った。「ところで、衛生課長さん、この薬は湿ったようだが、大丈夫かな」。島田知事の手に一包の薬包紙が握られていた。「湿っても効果百パーセントですよ」と大宜床医師はいつものように軽口で返した。だが、その目は悲しそうに曇っていた。それは青酸カリの包みだった。
 隈崎は島田知事の指示に従って「壕探し」に出た。報得川に沿って、県道に出て大城森の西側の分岐点へ来ると、糸満の海が夜目にも輝いて見えた。かつて三山鼎立して覇を競った時代の南山城跡の西側の小道を進んだ。国吉、真栄里のを通り抜けて、海岸近くの目的の壕に着いた。それが轟の壕だった。
 冒頭で述べたように、この壕は巨大な穴が空に向かって口を開けている不気味な自然洞窟だったが、敵砲弾から逃げまくっていた者には、素晴らしい避難所に見えた。読者が持つ平常感覚は既に失われていた。戦場では不気味だとか美しいだとかの感覚は失われる。それどころか、気の毒だ、とか哀れだとかの感覚も失われるのだ。
 筆者の知り合いが語ってくれたことがある。道端で赤ちゃんが母親を求めて泣きじゃくっているのに、気の毒だとも哀れだとも思わなかった。敵の気配を感じて、闇の中、底知れぬ断崖を飛び降りた。恐怖心もなかった。グシャッとした台地に落ちた。それは人の死体の上だったが、何の臭いもしなかった。その人は身重の女性だったが、自分のおなかの子のことも頭になかった。生存本能だけの獣にすぎなかった、いや、それ以下だったと涙ながらに語ってくれた。
 そう、あの時は涙も出なかったのだ。彼女が戦場で涙を流したのは、爆風で吹き飛ばされて、気がつくと、あの”恐ろしい”アメリカ兵の腕の中に抱きかかえられていた時だ。その時、彼女はワァーと子供のように泣いた。人間を取り戻した瞬間だった。

つづく


暗闇から生還したウチナーンチュ 8

2013-04-18 08:21:52 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

前回の続き

~轟の壕編~ 2

 轟の壕には島田知事ら県庁職員や海軍兵、陸軍兵、それに多数の住民が潜んでいた。
 轟の壕で何が起きたのか、筆者は数人の体験者にも会い、フィルムも手に入れた。だがフィルムを見るだけでは何の感動も湧かなかった。ところが、フィルムに登場する 一人の美しい女性の正体が判明し、フィルムの画画の裏の真実を告げてくれたのだ。
 ここからは数人の証言者の後を追って轟の壕に辿り着いてみよう。
 隈崎俊武警視は沖縄県警察部の輸送課長であったが、沖縄戦が始まると島田叡県知事付護衛官を担っていた。
 五月二十四日早朝、隈崎は島田知事の書簡を持って、首里城地下の軍司令部壕の長参謀長を訪ねた。知事は敵が首里に近づいている状況下で、どのように行動すべきか、参謀長にお伺いを立てたのだ。参謀長は知事宛てに達筆な返書を渡した。「県は速かに与座岳以南において、県民指導に充られたい」というものだった。
 幸いにもその前日、東風平村志多伯の野戦重砲隊の将校が、緊多川の県庁壕にやってきて、作戦上、陣地を北に前進させたいので、食糧も含めて野戦重砲隊の壕と交換してくれ、と頼んでいた。島田知事は翌五月二十五日未明、志多伯に向かって出発することにした。日用品を携行するだけで、全ては県庁壕に残すことになった。これがケチのつき始めだった。
 島田知事をはじめ、仲宗根官房主事、平良県立病院長、嶺井官房、大宜味朝計衛生課長、小渡信一、徳田安全の二人の知事秘書官、荒井警祭部長、佐藤特高課長、仲村警部補、伊野波警防課長、内間経済保安課長、宮城警部、金城刑事、与那嶺巡査部長、浦崎巡査らおよそ二十人の一行だった。もちろん証言者の隈崎知事護衛官も含まれていた。
 運日、雨が続き、道は泥だらけだった。途中、一行は首や手足がもがれた兵の死体や、老人と孫娘らしい十歳ほどの少女が抱き合って死んでいる姿や、乳飲み子を背負った母親の後ろから学用品でふくらんだランドセルを背負って母親を追っかけている少年などの姿を見た。だが、知事一行は黙々と進む。知事は今にも泣き出しそうに顔がゆがむ。助けたくでも助けられないのだ。知事の一行も避難民に過ぎなかった。
 午前八時、志多伯の壕に辿り着いたが、野戦重砲隊は軍指令で、北部前進を中止したので、壕の交換はできない、というのだ。先に述べたが、五月二十四日夜から五月二十五日夜明け前にかけて、首里の司令部壕に全軍の指揮官が集合し、南部撤退が決まったが、実は知事には知らされていなかった、と護衛の隈崎警視は証言している。
 こうして、知事一行は安全なはずの予定の壕に入れず、他の一般住民と同じく、安全な壕を探して、右往左往することになった。
 まず、食い物を碓保せねばならない。その夜、宮城警部を隊長に、十四、五名が繁多川の県庁壕に引き返し、明けて五月二十六日の朝、米や味噌や炊飯用具を背負って戻ってきた。皆、一睡もしていなかった。次は壕だ。佐騾特高課長と伊野波警防課長の二人が高嶺村に駐屯する山部隊(第二四師団)の部隊長を訪ね、空いている壕はないか交渉した。幸い、高嶺村の与座北側の福地森にある通信隊の濠が空いているので、そこに行くように指示された。
 五月二十七日早朝、再び島田知事の一行は雨の中、福地森に向かった。福地森の近くでは墓地を利用して、多数の住民が避難していた。近くを流れる与座川は水が絶えたことのないことで知られているが、運日の雨で満々と水を蓄え、飲み水には困ることあるまい、と隈崎警視はほっとした。
 ところが、その夜、隈崎らが知事を囲んで話し合っていると、一人の兵隊が「誰だ。軍の壕に無断で入っている奴は!」と怒鳴り込んできた。

つづき


暗闇から生還したウチナーンチュ 7

2013-04-17 09:13:50 | 暗闇から生還したウチナーンチュ


これは2008年6月10日~7月8日に琉球新報で「パンドラの箱を開ける時 第10話 住民の命を救った天女─轟の壕」として掲載されたものです。

~轟の壕編~ 1

 両側に雑草の生い茂る小道を行くと、次第に辺りが暗くなる。樹木の陰が深くなり、森に入ったのか、と思うと目の前に直径四十メートルほどの巨大なスリ鉢の縦穴が道を塞ぐ。この「スリ鉢」の周囲をガジマルなどの樹木が覆い、スリ鉢の底を薄暗くし、幽気が漂う。
 人が踏みしめた跡のある急勾配の坂を下り、奈落の底に同かう。右手、つまり南の方角に大きな横穴の入り口が見えてくる。左手に進むと、人がひとり通れるほどの小さな暗い口が、ぽっかり下に向いて開いている。懐中電灯を照らして、下に降りると、底に着く。懐中電灯で穴の底を照らす。思わず、息を呑む広大な空間だ。
 東の山の手から西の海岸に向かって巨大な洞窟が走っている。暗黒の洞窟の奥に向けて、懐中電灯を向けるが、光は闇に吸収され、目と鼻の先しか見ることができない。闇はどこまでも深い。足がすくむ。
 これがカーブヤー(こうもり)ガマとか轟の壕とか呼ばれている洞窟だ。ここには沖縄戦の最終段階で千人とも千五百人とも言われる人々の恐ろしい「闇」の物語と眩しいばかりの「光」の物語が眠っている。今回はこの物謡を伝えよう。
 ─一九四五年五月二十四日夜、首里城地下の第三二軍壕の幹部室で作戦担当の八原博道高級参謀は彼が秘かに温めていた南部撤退案を牛島満司令官、長勇参謀長と全軍の指揮官に提示した。そこには海軍の沖縄方面根根拠地隊司令官大田實少将も列席していたが、一言も口をはさむことはなかった。
 八原は沖縄戦をできる限り長引かせ、敵軍に最大限の出血をさせ、大日本帝国が敵軍の日本上陸までに、十分な応戦態勢をとれるようにすぺきだ、という戦略持久戦を主張した。激しい論争が交わされたが、牛島司令官が断を下し、南部に撤退することが決められた。
 南部撤退は首里司令部壕に呼ばれていた島田知事ら民間人指導者らにも伝えられ、全軍と全民間人の大規模な撤退が始まった。
 二十五日夜明け前、大田提督は小禄の海軍壕に戻ると、小禄全体を守備していた海軍の将兵らに撤退を命令した。大田提督は真栄平の壕に退避し、そこで敵を迎え撃つことになった。連日続く雨の中、海軍兵らは重い武器、弾薬を続々、運び出していった。
 ところが、大田提督が真栄平の壕に着き、首里の司令部壕に到着を知らせる電報を送ったところ、予期せぬ返事が入ったのだ。
 長参謀長は「わが本隊より先に、撤退するとはけしからん」と激怒し、「小禄に戻れ」と命令してきたのだ。こんな理不尽な命令はない。大田提督がいかに憤慨したか、記録はないが、その心中は察しがつく。彼は涙を呑んで、小禄に撤退することを部下に命令した。彼はその時、小禄で玉砕することを決心したのだ。
 小禄に戻ることになった海軍兵らは哀れだった。雨の中、わけも分からず、重い銃器を引いて小禄に戻ることになった。生き残って捕虜になったわずかばかりの海軍兵はアメリカ軍第6海兵師団の尋問調書で、涙ながらに「無残な撤退」について語っている。
 六月四日、小禄に上陸した第6海兵師団は「日本兵が集団で自殺する」姿をあちこちで目撃した。海軍兵は既に戦意を喪失していたのだ。牛島司令官は南部に撤退せよ、という命令を出したが、遅きに失した。大田は「小禄で玉砕する」と打電したのだ。これに驚いた牛島は親書を送り、南部に撤退してくれるよう、頼んだ。だが、大田の決意は揺らぐことはなかった。
 六月六日、大田提督はあの有名な「沖縄県民かく戦えり。後世に格別のご高配を賜らんことを」という電文を東京の軍令部に送ったのである。こうした間題を抱えて、南部撤退は行われたことを忘れてはならない。

つづく


暗闇から生還したウチナーンチュ 6

2013-04-16 09:44:28 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

前回の続き

~我如古の井戸編~ 6

 深い井戸の底からよみがえった一枚の着物は今、沖縄県平和祈念資料館に展示されている。この着物は所有者だった真栄城初江さんだけでなく、そこから救助され、救助した多くのすばらしい人々の物語があったことを伝えてくれるだろう。
 最後に井戸の発見に尽力してくれた島袋記美子さんと黙々と笑顔で全面協力していただいた我姐古の井戸の持ち主呉屋盛一さんご家族には紙面を借りてニヘーデービタンと感謝して第12話を閉じることにしよう。
 そしてこの「戦争を生き残った者の記録」もこれで終わろう。終わる理由は唯一つ。年の瀬が迫っているし、読者も疲れているだろうし、筆者もくたびれたからだ。疲れたら休め、仲間もそう遠くへ行くまい、とはツルゲーネフ先生の言葉だ。くたびれたら遊べ、読者もそう遠くへ行くまい、とはウチナーンチュの筆者の言葉だ。
 ところで先日、筆者がいつものように独りで散歩していると、知人が筆者に尋ねた。「君の文中には沖縄人とか琉球人とか、頻繁に出てくるが、何か意図があるのかい」。そうだ、その通りだ。筆者は意図的に「沖縄人」、「琉球人」という言葉を使用した。
 もともと、アメリカ軍の記録のOKINAWANあるいはRYUKYUANの翻訳であるが、アメリカ海軍はOKINAWAN、陸軍はこれに対抗してRYUKYUANをよく使用した。我々白身も沖縄人、あるいは琉球人と自称した歴史的な言葉だ。筆者は読者にアイデンティティーをはっきりさせることが大切だ、と認識してほしかったのだ。
 二十世紀初頭、孤高の画家ゴーギャンはその最後の作品に「我等はどこから来たか、我等は一体何者か、我等はどこへ行くのか」とタイトルを付けてタヒチに死んだ。これがアイデンティティーという難しい言葉の真の意味だ。
 「琉球」とは「丸く青い宝石」もう少し文学的に言えば「青い宝玉」のことだが、若者たちは誰も知らない。琉球新報の記者たちも「琉球」の語源を知らないのが実情だ。「琉球人」とは本来、誇らしい言葉なのだ。
 この「生き残った者の記録」で筆者が伝えたかったことは「生き残った者たち」は決して戦争で叩きのめされた哀れな者たちではなく、戦争の中で正気を失わず「優しくたくましい、誇り高い民族」だったということである。
 いつの時代も光があれば陰がある。その陰影がはっきりするのが戦争の時だ。あの「沖縄戦」の中で子供たちが見せてくれた曇りなき笑顔を思い出そう。何事もなかったように超然と振る舞う聖衆高さる老人たちの姿を拝もう。
 筆者は心からウチナーンチュとして生まれていてよかったな、と思っている。
 若者たちよ、なにがあってもウチナーンチュとして楽観もせず、悲観もせず自身の生命力を培い、青い宝玉のように輝き、人生を謳歌してもらいたい。それが、戦争で死んだ者たちの死が無駄ではなかったことの証なのだ。

深い井戸の底から「生き残った」すばらしいウチナーンチュたち(2006年6月 県平和祈念資料館で)

(おわり)

お詫び

この度は文中に不適切な表現があり、心よりお詫び申し上げます。

我如古の井戸編」の物語はは2006年12月20日~28日に琉球新報の「戦争を生き残った者の記録 第12話 井戸の底から生還したウチナーンチュ」で掲載されたものです。

明日からは「轟の壕編」が始まります。

 


暗闇から生還したウチナーンチュ 5

2013-04-15 09:31:23 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

前回の続き

~我如古の井戸編~ 5

 山里ディレクターも筆者も驚いた。今、見ているテレビの画面の中で真栄城初江さんが六十年前井戸から救出される時に着ていた着物を妹の米須キヨさんが持っているというのだ。
 事情を聴くと、母の平良きくえさんが大切に保存していたのをキヨさんが預かったが、捨てるにも捨てられず、箪笥にしまってある、ということだ。いつもクールな山里さんも目の色を変えて「その着物を見せてもらえませんか」と震える声で言った。キヨさんは「いいですよ。では私の家に行きましょう」とクールに言った。
 宜野湾市真栄原の米須さん宅にテレビ・クルーが着くと、キヨさんはボロ切れのような小さな着物を差し出した。山里さんはそのきちんとたたまれた古い着物を宝物を扱うようにゆっくり広げた。確かに、初江さんがフィルムの中で着ていた縞模様の着物だった。きれいに繕われ、母のきくえさんが大切にしていたことが分かる。さらに驚いたことにキヨさんは、「私が持っていてもしようがありませんから、あなた方で利用してください」と言った。「エッいいんですか」と山里さんはチグハグな返答をして喜びを表現した。
 帰りの車の中で筆者が「この着物をオークションに出してひと儲けしようか」と不謹慎な提案をすると、山里さんは「ダメだよ。これはウチナーンチュみんなの宝だよ。みんなが見られる場所に飾るんだ」ときまじめに答えた。
 こうして、呉屋盛一さん宅の井戸から救出された真栄城初江さんと米須キヨさんと、そして奇跡的に「生き残っていた」小さな縞模様の着物は沖縄テレビで紹介され、さらにフジテレビの全国放送のトップニュースとなった。後日、そのニュースは全国最高の視聴率を獲得し、そしてその優れた内容で沖縄テレビと山里ディレクターと赤嶺一史カメラマンは表彰された。
 さて、あの小ちゃな宝物の着物は収まるべきところに収まることになった。あの井戸の発見につながるフィルムは沖縄県平和祈念資料館が保存していたものだったし、あの発見は当時の館長であった島袋記美子さんがいなければ実現されなかったことは確かだから、筆者の腹は決まっていた。平和祈念資料館に贈呈して、みんなに井戸にまつわる人々と出来事のことをいつまでも覚えてもらえればいい。筆者は山里さんと相談し、慰霊の日あたりに贈呈式をし、その日に、あのドラマチックな救出劇の主人公たちに集まってもらうことにした。
 その日は激しい雨で、どうなるか危ぶまれたが、例のテレビ・クルーは獅子奮迅の活躍をし、宮城盛英さんら八人を資料館に連れてくることができた。新報やタイムスだけでなく、ニューヨーク・タイムズやドイツのテレビ局の記者も豪雨の中やって来た。新館長の川満茂夫さんにあの宝物の小ちゃな着物が贈呈され、資料館を訪れる人たちの目に触れることになった。もちろん、ニューヨーク・タイムズもドイツテレビも井戸からの救出劇を報道し、とうとう世界的はニュースになってしまった。
 だが、筆者には気がかりになっている人がいる。それは末吉チヨさんである。末吉さんもニューヨーク・タイムズに紹介されたが、末吉さんは贈呈式でも控えめにしていた。フィルムの中で臨月の末吉さんは息子さんの手を引いていたが、その息子さんは後年アメリカ軍の車にひかれて亡くなったということである。筆者が井戸からの救出場面のフィルムを映画にし、世間に紹介したことが余計なことではなかったか、唯一憂える点である。いつか末吉さんにもう一度お会いしたいと思っている。

米須キヨさん(右)から宝物の「小っちゃな着物」を受け取る山里孫存ディレクター

60年ぶりに姿を現した井戸からの救出劇の主人公、真栄城初江さんが着ていた「小っちゃな着物」

つづく


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