~我如古の井戸編~ 1
ぼくはいつも「戦争とは人間が試される究極の舞台だ」ということを念頭に置いて戦争の物語を伝えている。 そして「最も醜いはずの戦争」の中にこそ最も美しい人間の物語が秘められているのだ。 今、琉球新報や沖縄タイムスが腐れ切った中で真実を告げるという戦いのど真ん中で「真実を告げる」という作家の真価が問われている。そして、ぼくは恐れることもなく、勇気を持って戦っている。 いつか、いや、まもなく、ぼくの物語は最も美しい物語の一つとして歴史の中に刻まれることになるだろう。
読者のほとんどはぼくのこうした物語を読んだことがないはずだから、ここでぼくのことを知ってもらうためにもこれまで発表した「戦争の中の人間の物語」を伝えることにしよう。 では、ぼくが2006年12月20日から28日に琉球新報で発表した物語を紹介しよう。
二〇〇四年六月、筆者は沖縄県平和祈念質料館の島袋記美子館長から依頼を受けて一本の戦争映画を作った。 資料館が保存している二百五十本余の沖縄戦フィルムから四十本ほどのフィルムを選び、台本を用意した。 映像編集を担当したのが映像の魔術師と評判の高い沖縄テレビのディレクター山里孫存さんだった。 「そしてぼくらは生き残った」と題された作品はこれまでの「悲惨な戦争の哀れな生き残り」という既成概念を打ち破るものだった。 生き残った優しくたくましいウチナーンチュの姿を伝える「人間賛歌」だった。 だが、これから語ろうとしているのはその映画のことではない。 その映画の一シーンのことだ。 暗く深い井戸の底に一人の白いハットの青年が降りて行き、子供、娘、母親、老人らが次々、つるべにしがみつき、引き揚げられる。 目が離せない印象的な場面が続く。映画に詳しくなくても見事な、映像だということはわかる。 彼らは一体、どこの誰だろうか。そもそも、この井戸はどこにあるのか。 島袋さんも山里さんも、もちろん筆者も、この井戸の場所を探し当て、救出された人々に巡り合いたい、という気持ちがふつふつとわいてきた。
その年の慰霊の日に資料館で映画が上映されたが、「井戸」の情報は皆無だった。 それでも、必ず見つかるはずだ、という確信は揺るがない。 三人の思いは執念となった。 救出シーンの映像には一九四五年五月十二日の日付と第77歩兵師団という記述がある。
山里さんはこのフィルムに映っている通訳が新着の慶留間島上陸のフィルムにも登場していることに気がついた。 慶留間に上陸したのは第77師団だから救出シーンのフィルムが第77師団の撮影班の手によるものであることは間違いない。 五月十二日の時点で第77師団は首里の北側に近づいている。 撮影隊は前線の後方にいるから宜野湾あたりだろう、とおよその見当がつく。
山里さんと一緒に宜野湾市役所文化課に出かけ、問い合わせたが、確たる情報は得られない。 井戸は無数にあるのだ。 その時には重要だと思わなかったが、文化課の人が一枚の図面を提供してくれた。 我如古内の洞窟の調査図面だった。 だが、僕らが探しているのは、井戸であって洞窟ではない。 その時はそう思った。
一方、島袋さんは誰よりも核心に近づいていた。 映画を見た知人から、救出された少女の一人は比嘉ツル子さんと言い、宜野湾市に住んでいるという重要情報だった。 だが、比嘉さんは取材を拒んでいるという。 さらに、井戸から住民を救出した白いハットの青年は宮城盛英さんだ、ということを聞き、島袋さんは一人で宜野湾市我如古に出かけ、本人にビデオを見せたが、白いハットの青年は自分ではない、白いハットなどかぶったことはない、と告げた、ということだ。
島袋さんはこれではどうしようもない、とあきらめ顔だ。 だが、ウチナーンチュ気質を誰よりも知っていると自負している筆者は確信した。 宮城盛英さんが白いハットの青年だ。 そして、比嘉ツル子さんも必ず、取材に応じてくれる はずだ。 山里ディレクターに連絡して、取材の準備をさせた。 ところが比嘉さんに電話するとテレビ取材はイヤだ、というのだ。 だが、筆者だけなら会ってもよい、との返事を得て、やむなく山里さんとテレビ・クルーを置き去りにして、大琉球の英語文献すべてを収集している新城良一さんの車で宜野湾市に向かった。 比嘉ツル子さんは会って話をするうちに、目が輝き出し、我如古の井戸へ案内しようと言った。だが、戦後一度も井戸を訪ねたことはない、という。
60年前の自分の姿を画面に発見して感動する比嘉ツル子さん
深い井戸から救出された可愛い少女は比嘉ツル子さん(1945年5月12日宜野湾我如古)
─つづく
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます