美空ひばりさんがかつてこのような思い出話をしたことがありました。
>りんご追分を唄うとね... 昔、哲也(かとう哲也さん/和也さんの父・ひばりさんの弟)が進駐軍のジープに跳ねられて大怪我したことがあったんです。そしたらその「米兵」がリンゴをぽ~んと放り投げて、そのまま走り去っていったんです。あのときの悔しいことを思い出すんです...
彼女の生まれ育った横浜・磯子/滝頭...幸い滝頭は横浜大空襲の戦火を逃れましたが、すぐ隣は「本牧/根岸といった進駐軍に接収されていた広い地域」でした。
フェンスの向うのアメリカ...間近に見て育ちます。実家は「魚屋さん」...商人の子供です。
美空ひばりさんの残した初期のカバー「シャンハイ」では「ひばり節」を消して歌っているように感じますが、三人娘映画「ジャンケン娘」の劇中ではバラ色の人生を「完全なひばり節」で歌っています。それは後年のジャズアルバムでも...
日本音階の「陰音階の部分/伝統的なジャパネスク・スタイル」をむしろ強調して...とでも云ったらいいのでしょうか。本場アメリカ的な部分を否定して「日本人/美空ひばり」として唄っているように感じます。(ロング・トーンのちりめんビブラートなど...)
片や、雪村いづみさんは「そういった日本の伝統的な部分」を全く否定して、これまでの日本の歌謡曲の伝統をすっかり否定して「アメリカ人と同じ表現力」で歌ったように感じます。
小学校は清明学園、中学校は河村女学校...父君の早世、母君の事業の失敗・病気によって生活に困るまでは「由緒正しきお嬢様」だったわけです。大井町線/大岡山に生まれ、雪谷大塚で育ちます。郊外の山手...ここも戦火を免れました。
父君は商事会社に勤務していたエリートで、戦後はAP通信やシカゴ・トリビューンといったアメリカの通信社の仕事につき、雪谷の屋敷には進駐軍の関係者も大勢遊びに来ていたのだとか...みようみまねで「英語の歌」を歌って発音を褒められたこともあったそうです。声楽を習いに行っていた...という経験も持っていた。
そして、江利チエミさん...
日本人らしさを肯定し、決して打ち消すことなく「新しい外来のもの」を自身で消化して表現した...といえると思います。あくまで日本人としてアメリカの楽曲を歌った。
バンドマンの父、女優の母...芸人の娘はサービス精神も旺盛だった。父が柳家三亀松師匠の相三味線やピアノ伴奏もしていた経歴があったから、幼少時から「チトンテトシャン」の邦楽にも慣れ親しんでいたという「普通経験できない」音楽環境にあった。勿論、洋楽、歌謡曲も広く親しむことのできる環境にあった。
メジャーデビューまで家族の生計を「進駐軍で歌う」ことで支えていた。
しかし、疎開先の甲府で間一髪「大空襲」に逢わずにすんだ...といった経験をもっています。また、将校クラブでは拍手の変わりに「机をドンドンとたたく」といった上級兵士やそのご夫人がたに屈辱的な洗礼もうけ、子供ながらに「敗戦国民としての惨めさ」も噛み締めていました。
チエミ「上海」
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