江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ 前章で触れた「東宝争議」のこと

2007年08月21日 | 余談
(参考文献:わたしの渡世日記/高峰秀子著「赤いスタジオ」より)

>映画会社には、月給と契約の2つの制度があり...契約者というのには主に演出、カメラマン、俳優などで、作品1本につき幾らと決められ、年間4本ならその4本分が12ケ月に割り切られて支給される。4本をオーバーすれば、その都度1本分が別に支払われ、ボーナスは関係なく、もちろん組合員でもなかった。

東宝争議のくだり...

>...そもそも事の起こりは、終戦後、半年ほどは順調ではあった東宝映画が、公職追放令、新円切り替え、従業員過剰などの混乱から、赤字を続出、千人以上の従業員を整理案を出したことから、既に所内の共産党員によって固められていた「日映演労働組合東宝支部」の態度がにわかに硬化し...会社に対していきなり「ゼネラル・ストライキ、賃上げ闘争」の切り札を突きつけたのであった。

才能を活かしての商売...
個性の強い映画人が、1つに纏まるということ自体が難しい!
 ...十把ひとからげに一同に集めて圧力で押し切ろうとした共産党はいささか見通しが甘かったか...
反対派の組合員はバラバラに。

営業部門の第二組合に1100人
 新東宝プロダクション・第三組合に800人
  演劇関係再建同士会第四組合に800人...
--->4つに分裂。
結果、メインの東宝砧撮影所に3000人足らずの映画人が残る。「赤いスタジオ」と呼ばれ23年の労使闘争では進駐軍の戦車、飛行機までが警察の要請で出動。撮影所から組合員を排除する騒ぎにまで発展する。

こういった動きからハジキだされた(ハジキでた)人たち...とりわけ俳優陣が多かった。毎日「根無し草」の状態の中、この「第三組合」というだけでは誰が代表なのかわからない!
そこで、大河内伝次郎/長谷川一夫/藤田進/黒川弥太郎/入江たか子/原節子/花井蘭子/山根寿子/山田五十鈴/高峰秀子の「十人の旗の会」とする。
青柳信雄プロデューサーの先導で祖師谷大蔵にある東宝予備撮影所に落ち着き「映画をつくろう...とにかく面白い映画をつくるんだ...」名称も「新東宝プロダクション・第三組合」と決まって、嬉々として仕事に打ち込んでいった...
これが最初の25年まで続いたもともとの「新東宝」の始まり!
22年度、東宝作品29本のうち、9本が新東宝。23年は34本のうちの20本。24年は53本のうちの24本を、新東宝第三組合員は、狭い不自由な職場で夢中になって撮りまくったそうです。

代表作は...
22年---> 阿部豊演出「愛よ星と共に」、千葉秦樹演出「幸福への招待」 
23年--->島耕二演出の「グッドバイ」(太宰治書き下ろし・高峰秀子主演で企画され23年春の大作として企画されたもの。ところが~愛人・山崎富栄と玉川上水に入水心中。後半が出来ていなかった原稿を脚本家の小国英雄に任せて6/28の封切りを果たす。)
24年--->あの大ヒット「銀座カンカン娘」です。
25年--->轟・高峰...オールスターの「細雪」も新東宝作品です。

原点は「映画が好きで好きでたまらない職人と俳優陣が懸命に映画を作った映画組合」だったといえます。

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