江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ 8/19の朝、TBSで・・・

2007年08月20日 | 江利チエミ(続編)
劇団四季の経営者として浅利慶太さんが出演されていました。
日本のミュージカルのパイオニア...

う---ん どうだろう??
  一朝一夕には日本にミュージカルは根付いたりはしなかった...
   ましてや1劇団によって...と思ってみたりして。

浅草オペラからはじまり、本格的にミュージカルと取り組んで来た宝塚歌劇団や、戦後の帝劇ミュージカル(東宝/越路吹雪の「モルガンお雪」など)での東宝の菊田一夫さん、森岩雄さんの業績...
日本におけるブロードウェイミュージカル初演であった江利チエミさんの「マイ・フェア・レディ」の成功、森繁久弥さんの「屋根の上のバイオリン弾き」のロングラン、ブロードウェイでアメリカ人と競演した「ラ・マンチャの男」の松本幸四郎(6代目・市川染五郎/7代目染五郎さんの父)さんなどの活躍を抜きにして「日本のミュージカル」は語れません。

浅利さんが名実共にミュージカル界の重鎮となりえたのは東宝からフリーになった越路吹雪さんが、彼の演出による日生劇場ロングリサイタルの成功を納めてからだと思います。越路さんもそのころから日本のミュージカルの女王的な存在に上り詰めます。
また、スター・システムを逆手に取ったオーデイション・システムを成功させ定着させたことも彼の大きな力だったといえます...雪村いづみさん、木の実ナナさんがここから本格的にミュージカルへと進んで行きました。

タモリさんではないですが、わたしも正直「ミュージカル」は苦手です。
今朝のTBSの放送でも、日本語特有の「すべて母音で終わる」という特性を、舞台で何を言っているのか客席にはっきり伝えるための「母音トレーニング」が紹介されていました。
歌をすべて「子音」を除いて「母音だけ」で歌う...というもの。
はっきり聞こえる
 でも オーバーで不自然 ...と感じるのはわたしの「偏屈さ」かもしれませんが。
それだけ、日本人/日本語とミュージカルは本来「合い入れない物」なように思います。

江利チエミさんとミュージカル...
それは確かに「本格的なモノ」ではなかったと言われればそれまでです。しかし、なにより、大きな舞台を仕切ってしまうスターとしての彼女の雰囲気となにより彼女の「不自然ではないスタンス」があったればこそ、商業演劇としての舞台公演が成功したのだと思います。
今でさえ「アレルギー」が出てしまうミュージカルです。昭和38年当時、観客の方に今よりもっともっと『テレ』があったはず...
「江利チエミの庶民性/自然さ/演技力」が中和剤になったこと...これが日本のミュージカル発展の礎になったことは軽んじられることではないと思います。
また、この時脇には益田喜頓さん、八波むと誌さん、京塚昌子さんといった芸達者が固めたこと、また「歌って踊れる映画スター」高島忠夫さんという存在があったことも幸いしたのです。

マイ・フェア・レディ...
このブロードウェイからの初輸入ものを日本で上演するという試行錯誤から今日の本格的ミュージカル作りも始まったのだ!...と思います。


※昭和26年、帝国劇場で、越路吹雪主演、日本初のミュージカル「モルガンお雪」が上演されました。越路 吹雪さんは昭和14年に宝塚でデビューしてから、男役スターとして活躍していました。
宝塚在籍のまま、この「モルガンお雪」に出演して、大成功を収めたのを期に宝塚を退団し、映画/商業演劇/レビューの世界に活躍の場を移しました。

※東宝の社長にまで上り詰めた森岩男さん...
>東宝の資本とPCLの技術の上に映画の興行面で展開をもたらしたのは製作における予算と人的資源の管理を行うプロデューサー・システムの本格的導入であり、これをもたらしたのがアメリカ帰りの森岩雄とされる。
松竹の城戸四郎、日活の根岸寛一と並び称される森だが、この分野における足跡は大きい。PCL時代より民主的な社風で知られ、監督や大スターでも個室がなく、大物に対しても「さん」付けや「ちゃん」付けであった。巨匠監督も部下の助監督や名もない俳優を「さん」付けや「ちゃん」付けで呼んだ。歌舞伎の因習やヤクザっぽい親方子方気質を引きずった封建的な他の映画会社の体質を公然と批判した。
他社のようにスタッフや俳優を縁故採用に頼るのではなく公募を戦前より行い、優秀な人材を得た。(しかしその優秀な人材が戦後の東宝争議の中心メンバーとなったため、後に縁故採用を強化し、権力に逆らわない人材を入れる傾向に変わっていった。)

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