江利チエミさんと切っても切れない間柄だった、清川ママこと清川虹子さん。
2002年5月24日 享年89歳でお亡くなりになりました。
彼女の訃報を知らせる日刊スポーツの記事を引用します。
>生涯現役を貫いた喜劇女優清川虹子さん(きよかわ・にじこ、本名関口はな=せきぐち・はな)が24日午前3時37分、肺出血のため川崎市の病院で死去した。89歳だった。98年に肝臓がんを発病してから入退院を繰り返していた。戦前から数多くの喜劇の名優と共演し、喜劇女優としてのプライドは人一倍高かった。一方で「楢山節考」「復讐するは我にあり」など名作映画で鬼気迫る演技も見せた。恋多き女で波瀾万丈の人生だったが、豪快かつ庶民的な人がらは多くの人に親しまれた。
関係者によると、清川さんは肝臓がんを患って以来、何度も入退院を繰り返していた。今月3日に、下血などの影響で極度の貧血となり自宅で倒れ、緊急入院した。亡くなる前日の23日、見舞客には笑顔を絶やさぬ心遣いを見せたが、自力でタンが切れずに何度もせき込んで酸素マスクに血がにじむ状態だった。24日未明、親族に見守られながら静かに息を引き取った。
遺体はこの日午前、葬儀・告別式の営まれる新横浜総合斎場に運ばれた。報道陣が多数駆けつけ、ワイドショーは生中継した。
清川さんの女優人生は、喜劇にささげたものだった。エノケンこと榎本健一、伴淳三郎、徳川夢声ら、一世を風靡(ふうび)した喜劇の名優と共演。喜劇女優の先駆けとして、欠かせない存在となった。
当時、喜劇女優は“格下”とみられ敬遠された。「日本の喜劇は、受け取る側がレベルを悲劇より下のものと思っている。だから若い女優さんが、なかなか三枚目をやりたがらないの。あたしはねえ、人が笑っているのを見るのがすきなの。だから喜劇を選んだの。コメディアンは多数いるけど、喜劇女優は今の日本に、あたし一人だけ」と言い切る強力な自負と自信を持ち合わせていた。
恋多き女でもあった。「女は恋をしないとだめ」が口癖で、結婚は4度。56年には、日米合作の映画「八月十五夜の茶屋」で共演した名優マーロン・ブランド(78)とのロマンスも話題になった。東洋の神秘を体現したような清川さんの肉感的な魅力に、ブランドが一目ぼれしたものだった。
豪快さでも群を抜いていた。42年に結婚した東宝社長の弟大沢清治氏が死去した際、当時の金額で1億円を超す遺産を残されたが「財産目当ての結婚ではなかった」と全額を寄付した。89年の参院選挙では「笑いのある老後実現のために、ジャンヌ・ダルクになる」と、国政を目指し立ち上がった。年金党を旗揚げし比例区で立候補したが、惜しくも落選した。
83年に、カンヌ映画祭でパルムドール(最高賞)を獲得した映画「楢山節考」では70歳のヌードも披露した。左とん平(64)とのラブシーンも体当たりで演じ「初めておっぱいを見せたけど、なかなか良かったでしょ」と笑った。
秋上映の映画「夜を賭けて」(シネカノン)が遺作となる。昨年秋に3カ月かけて韓国で撮影。戦後をたくましく生きる在日コリアンの女性を描く人情物語で、清川さんはそのオモニ(お母さん)役を演じた。喜劇もシリアスも見事に演じる清川さんの女優人生が凝縮された作品となった。
戦前、戦後を通じ、日本中に笑顔を届けた。かつて「死ぬことは怖くない。あの世には、最高の映画ができる素晴らしい役者さんがそろっているから」と話した。日本に1人と自負した、喜劇女優が逝った。
清川さんは晩年は横浜の菊名に住まわれていましたが、その前までは長く(同じ東横線の)武蔵小杉(神奈川県川崎市)に住まわれていたそうです。
今回、江利チエミのサザエさん映画一挙公開を催してくれた「川崎市民ミュージアム」の最寄駅がこの武蔵小杉… 清川さんの思いが実現させてくれたような気がしなくもありません。
実は、私はずいぶん前に新横浜駅の改札の外、ちょうど新幹線のガード下の喫茶店で朝はやくに清川さんと隣り合わせになったことがありました。
わたしは図々しいので(自覚症状アリ)「清川先生ですね?!」と話し掛けてしまいました。
「えっ?」って顔されたのですが、「私はチエミさんのファンで清川さんは年1回くらいですけど、コマの舞台で拝見し続けておりました。」・・・等、すこしお話をしたことがあります。
本当にチエミさんを娘のように愛しておられたのだと感じました。
しかし、後で考えるとその時清川さんは「喪服」だったのです。
記憶が定かではないのですが、あの時は確か息子さんを亡くされた時だったようで・・・ 知らないこととはいえ、唐突に話し掛けてしまったのに「嫌な顔」もされず、どこのウマの骨ともわからぬ私に話をしてくださったのでした。
映画「サザエさん」のチエミさんと清川さんは、本当にどんな場面でも手を抜かない!・・・という印象が強いです。
根っからの「芸人」だな~ と、先日の川崎市民ミュージアムでも今更ながらに関心させられました。
2002年5月24日 享年89歳でお亡くなりになりました。
彼女の訃報を知らせる日刊スポーツの記事を引用します。
>生涯現役を貫いた喜劇女優清川虹子さん(きよかわ・にじこ、本名関口はな=せきぐち・はな)が24日午前3時37分、肺出血のため川崎市の病院で死去した。89歳だった。98年に肝臓がんを発病してから入退院を繰り返していた。戦前から数多くの喜劇の名優と共演し、喜劇女優としてのプライドは人一倍高かった。一方で「楢山節考」「復讐するは我にあり」など名作映画で鬼気迫る演技も見せた。恋多き女で波瀾万丈の人生だったが、豪快かつ庶民的な人がらは多くの人に親しまれた。
関係者によると、清川さんは肝臓がんを患って以来、何度も入退院を繰り返していた。今月3日に、下血などの影響で極度の貧血となり自宅で倒れ、緊急入院した。亡くなる前日の23日、見舞客には笑顔を絶やさぬ心遣いを見せたが、自力でタンが切れずに何度もせき込んで酸素マスクに血がにじむ状態だった。24日未明、親族に見守られながら静かに息を引き取った。
遺体はこの日午前、葬儀・告別式の営まれる新横浜総合斎場に運ばれた。報道陣が多数駆けつけ、ワイドショーは生中継した。
清川さんの女優人生は、喜劇にささげたものだった。エノケンこと榎本健一、伴淳三郎、徳川夢声ら、一世を風靡(ふうび)した喜劇の名優と共演。喜劇女優の先駆けとして、欠かせない存在となった。
当時、喜劇女優は“格下”とみられ敬遠された。「日本の喜劇は、受け取る側がレベルを悲劇より下のものと思っている。だから若い女優さんが、なかなか三枚目をやりたがらないの。あたしはねえ、人が笑っているのを見るのがすきなの。だから喜劇を選んだの。コメディアンは多数いるけど、喜劇女優は今の日本に、あたし一人だけ」と言い切る強力な自負と自信を持ち合わせていた。
恋多き女でもあった。「女は恋をしないとだめ」が口癖で、結婚は4度。56年には、日米合作の映画「八月十五夜の茶屋」で共演した名優マーロン・ブランド(78)とのロマンスも話題になった。東洋の神秘を体現したような清川さんの肉感的な魅力に、ブランドが一目ぼれしたものだった。
豪快さでも群を抜いていた。42年に結婚した東宝社長の弟大沢清治氏が死去した際、当時の金額で1億円を超す遺産を残されたが「財産目当ての結婚ではなかった」と全額を寄付した。89年の参院選挙では「笑いのある老後実現のために、ジャンヌ・ダルクになる」と、国政を目指し立ち上がった。年金党を旗揚げし比例区で立候補したが、惜しくも落選した。
83年に、カンヌ映画祭でパルムドール(最高賞)を獲得した映画「楢山節考」では70歳のヌードも披露した。左とん平(64)とのラブシーンも体当たりで演じ「初めておっぱいを見せたけど、なかなか良かったでしょ」と笑った。
秋上映の映画「夜を賭けて」(シネカノン)が遺作となる。昨年秋に3カ月かけて韓国で撮影。戦後をたくましく生きる在日コリアンの女性を描く人情物語で、清川さんはそのオモニ(お母さん)役を演じた。喜劇もシリアスも見事に演じる清川さんの女優人生が凝縮された作品となった。
戦前、戦後を通じ、日本中に笑顔を届けた。かつて「死ぬことは怖くない。あの世には、最高の映画ができる素晴らしい役者さんがそろっているから」と話した。日本に1人と自負した、喜劇女優が逝った。
清川さんは晩年は横浜の菊名に住まわれていましたが、その前までは長く(同じ東横線の)武蔵小杉(神奈川県川崎市)に住まわれていたそうです。
今回、江利チエミのサザエさん映画一挙公開を催してくれた「川崎市民ミュージアム」の最寄駅がこの武蔵小杉… 清川さんの思いが実現させてくれたような気がしなくもありません。
実は、私はずいぶん前に新横浜駅の改札の外、ちょうど新幹線のガード下の喫茶店で朝はやくに清川さんと隣り合わせになったことがありました。
わたしは図々しいので(自覚症状アリ)「清川先生ですね?!」と話し掛けてしまいました。
「えっ?」って顔されたのですが、「私はチエミさんのファンで清川さんは年1回くらいですけど、コマの舞台で拝見し続けておりました。」・・・等、すこしお話をしたことがあります。
本当にチエミさんを娘のように愛しておられたのだと感じました。
しかし、後で考えるとその時清川さんは「喪服」だったのです。
記憶が定かではないのですが、あの時は確か息子さんを亡くされた時だったようで・・・ 知らないこととはいえ、唐突に話し掛けてしまったのに「嫌な顔」もされず、どこのウマの骨ともわからぬ私に話をしてくださったのでした。
映画「サザエさん」のチエミさんと清川さんは、本当にどんな場面でも手を抜かない!・・・という印象が強いです。
根っからの「芸人」だな~ と、先日の川崎市民ミュージアムでも今更ながらに関心させられました。