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江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

続・あの歌 会津磐梯山

2006年02月12日 | 続・江利チエミ(初期記事・後編)
芸者歌手 やら 磐梯熱海 を検索していて「岸波通信」さんというHPに行き着きました。ここに「会津磐梯山」について興味深い記述がありましたので、引用し(加筆・要約して)紹介させていただきます。

>♪ エイーヤー
   会津磐梯山(あいづばんだいさん)は 宝の山よ
     笹に黄金(こがね)が エーまたなりさがる
   スッチョイ スッチョイ スッチョイナー
  
   小原庄助(おはらしょうすけさん)さん
   なんで身上(しんしょう)つぶした
   朝寝(あさね) 朝酒 朝湯(あさゆ)が大好きで
   それで身上つぶした
   もっともだ もっともだ

>普段耳にする「会津磐梯山」は、昭和9年に、日本ビクターが、売り出したばかりの“蓄音機”の販売促進のため、売れっ子作家の長田幹彦に作詞させ、芸者歌手の小唄勝太郎に歌わせたキャンペーン曲だったのです!
もともと会津地方で歌われていた「会津磐梯山」とは唄も伴奏もかなり違うものでしたから、地元の会津民謡研究会では、“郷土芸能を冒涜するものだ” として同社に強硬抗議するという騒ぎも起きました。

>ビクターの目論見はみごと的中し、そのレコードは爆発的な大ヒットとなって「蓄音機」も売れに売れたのです。

>昭和9年、世の中が日中戦争から太平洋戦争になだれ込もうとする暗い世相の中・・・逆にこの曲の持つ明るさや東北民謡には稀なアップテンポのハヤシなどが大衆に支持されたのかも知れません。

>本来の「会津磐梯山」・・・こちらはもともと“盆踊り唄”でした。
盆踊りの風習は、江戸時代中期から各地で盛んになりましたが、会津地方では「玄如踊り」と呼ばれ、そのハヤシ唄は「玄如節」と呼ばれていました。
「正調会津磐梯山」は、何と162番もある長い唄なのです。

>それが現在伝わる「正調会津磐梯山」の形になったのは明治に入ってからのことで、新潟県の五箇浜地方から会津に出稼ぎに来ていた油職人たちが故郷の五箇浜踊りを持ち込み、これが会津の玄如踊りと一体化したのです。
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※盆踊り...は、昔の日本の「若い男女の出会いの場」でもあったのです。
♪ 唄え十六 声張り上げて
     胸の蓮華の エーまた開くほど  (14番)
♪ 浅い川なら 腰までまくり
     深くなるほど エーまた帯を解く (102番)
♪ 俺と行かぬか あの山越えて
     落ち葉布団で エーまた寝てみたい(126番)

いやはや... なんとも「おおらかな風情」であります。(笑)

江利チエミ盤/会津磐梯山は、
チエミ・ゴールデン・アルバム~チエミ・アット・ザ・コマ~ SKR6 (1967発売)、このLPの民謡メドレーの最後と、江利チエミ・グランドショーLP(1973発売)のやはり民謡メドレーの中に収録されています。
このアルバムはそれぞれ前年の新宿コマ江利チエミ特別公演の「江利チエミショウ」の演目を軸に構成されているものです。

※画像はテレビで「三階節」を歌うチエミさん。



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