◆災難続きだった天才歌手 より
>ミュージカル・キスミーケイトの直後彼女は突然喉をいためて声が出なくなった。
・・・手術、そして辛抱強いリハビリの後、やっと声を取り戻したチエミちゃんだったが、やはり以前に比べて彼女の歌からパワーが減少してしまったことは否定できない。
>「ねえ ヒロシ。どうしても喉をかばってしまうのよね。思い切って声を出すのが怖くって、小手先の小細工で歌を誤魔化そうとする自分が情けなくて」・・・
(チエミさんはこう語ったのだそうです。筒井さんの著作はこう続きます。)
>自分で判っているのだ。でもどうすることもできない。少し歌うだけで喉に痛みを覚えるといっては、辛そうに嗽(うがい)をする。そんな彼女に、ぼくだって慰めようがない。
※twigさんが前の筒井先生の章のコメントに「‘夜のヒットスタジオ’でこの雨に…をいづみさんに国際電話しながら歌ったときに、チエミさんが涙を流した」というエピソードを投稿いただきました。
いづみさんは原田さんと再婚し41年---45年はずっとアメリカに暮らしています。
ゆえに「歌手/江利チエミの受難」を傍では見ていなかった。
チエミさん---いづみさんは、親友であるけれどライバルでもある。
この雨に濡れては、昭和44年の作品。ポリープの手術の翌年です。
江利チエミさんの胸中は「複雑」であった...と思います。
筒井先生とチエミさんの仕事はチエミさんの亡くなるまで続きました。
それは亡くなる直前(3・4ケ月前)のこと、筒井さんチエミさんとは北海道への演奏旅行にでます。
「ヒロシの棒で歌いたい。一度ぐらい棒ふったっていいじゃない!」...このリクエストに筒井先生は応えます。
江利チエミコンサートでタクトを初めて筒井さんは振ったのです。
地元のクロ服のおアニイさんに丁重に出迎えられて警護もされた...といったエピソードも描かれています。
そして年はあけ、2月13日がやってきます...
とるものもとりあえず筒井先生は奥様とチエミさんの泉岳寺のマンションに向かいます。
そしてチエミさんのご家族とずっと仮通夜、本通夜、仮告別式を一緒に過ごします。
あわただしい3日間を過ごしたあと、奥さんを自宅に戻してひとり筒井先生は新宿に飲みにでかけます。
バーにはいり、少しキザかなと躊躇しつつチエミさんの分と2杯の水割りを注文。チエミさんに「ま、ともかく一杯いこうよ」と心の中でつぶやくと、これまで一滴の涙もこぼさなかったものが堰を切ったように溢れ出します。
トイレに駆け込み嗚咽が表に漏れるのではと心配なほどに号泣したのだそうです。
先生の著書「青春の志は音楽家」はこのくだりで締めくくられています。
57年3月3日、増上寺「江利チエミ・音楽葬」の場面です。
>家族の胸に抱かれたチエミちゃんの位牌、遺影、遺骨が本堂をでた。
シャープス・アンド・フラッツの演奏する曲名は「There is no business like show business」。あのミュージカル・ナンバー「ショウほど素敵な商売はない」です。
そうですよ!
チエミちゃんには「葬送行進曲」なんか似合わない。最後までハッピーに、にぎやかに、「ショウほど素敵な商売はないもんね!」と歌い上げてもらわなくちゃ。
その時、沿道を埋め尽くしたファンのなかから声がとんだ。
「チエミ!」
「日本一!」
「大統領!」
父親が歩みを止め、そして、その声がとんだ方に向けて静かに一礼した。
チエミちゃんの遺影が、そのとき、にっこりして「ありがとね!」と、言ったように思えた。
いや、確かに言った。
確かにぼくはその声を聴いた。
戦後の日本を代表する天才的なスターの、これが最後のカーテンコールだった。
-完-
合唱団TERRAさんHPより...
再び、筒井広志先生のことを引用します。
>慶応義塾大学卒業後、作曲家広瀬健次郎に師事。翌年より旧日劇、東宝歌舞伎、宝塚劇場、松竹劇場等の作曲担当。その後、テレビ・ラジオ・映画音楽・CMソング等の作曲で幅広く活躍。
1970年アメリカ・ロスアラモス芸術院主催の国際作曲コンクールにて第2位受賞。これと平行して故江利チエミの専属音楽監督として活躍。1981年小説家としても、処女作「我等が宇宙永遠に平和なれ」を始め、「オレの好きなワタシ(新潮社)」等多くの小説を出版。1985年TVドラマ「例えばこんなメロドラマ」の原作・シナリオ・作曲で放送ギャラクシー賞受賞。
1989年音楽座ミュージカル「シャボン玉とんだ宇宙までとんだ」の原作・作曲・編曲により、文化庁の優秀舞台芸術賞、移動芸術賞等を受賞。1990年同じく音楽座ミュージカル「とってもゴースト」の原作、総監督により、文化庁芸術祭舞台部門芸術賞受賞。最近作は、劇団「目覚まし時計」のミュージカル「ファーブルの昆虫記」など。
(中略)
多才な才能を持ちながら、64才の若さで亡くなられた 筒井広志さんの死を悼み、ご冥福を祈りたい。
江利チエミに終生付き添った音楽家、最高のパートナーは親友・戦友でもあった筒井先生であったといえるのではないでしょうか。
出逢った時期がもう少し早かったら...
もっと早くにスター・江利チエミと筒井先生との距離感がなくなっていたなら...
真剣勝負、四つに組んだ間柄なら喉の故障も引き起こさなかったのでは...
どうにもならないことですが、歌手/江利チエミの人生はまったく違ったものになっていたように思えます。
今となっては、チエミさん、筒井先生よ安らかに!...と祈ることしかできません。
<余談>
昭和27年 江利チエミ初主演映画「猛獣使いの少女」は、江利チエミ扮する猛獣使いが主題歌を歌うシーンで終わります。
♪わたしは涙のうたうたい...
...なんとも彼女のこれからの波乱の人生を言い表わしているようで胸が詰まります。
>ミュージカル・キスミーケイトの直後彼女は突然喉をいためて声が出なくなった。
・・・手術、そして辛抱強いリハビリの後、やっと声を取り戻したチエミちゃんだったが、やはり以前に比べて彼女の歌からパワーが減少してしまったことは否定できない。
>「ねえ ヒロシ。どうしても喉をかばってしまうのよね。思い切って声を出すのが怖くって、小手先の小細工で歌を誤魔化そうとする自分が情けなくて」・・・
(チエミさんはこう語ったのだそうです。筒井さんの著作はこう続きます。)
>自分で判っているのだ。でもどうすることもできない。少し歌うだけで喉に痛みを覚えるといっては、辛そうに嗽(うがい)をする。そんな彼女に、ぼくだって慰めようがない。
※twigさんが前の筒井先生の章のコメントに「‘夜のヒットスタジオ’でこの雨に…をいづみさんに国際電話しながら歌ったときに、チエミさんが涙を流した」というエピソードを投稿いただきました。
いづみさんは原田さんと再婚し41年---45年はずっとアメリカに暮らしています。
ゆえに「歌手/江利チエミの受難」を傍では見ていなかった。
チエミさん---いづみさんは、親友であるけれどライバルでもある。
この雨に濡れては、昭和44年の作品。ポリープの手術の翌年です。
江利チエミさんの胸中は「複雑」であった...と思います。
筒井先生とチエミさんの仕事はチエミさんの亡くなるまで続きました。
それは亡くなる直前(3・4ケ月前)のこと、筒井さんチエミさんとは北海道への演奏旅行にでます。
「ヒロシの棒で歌いたい。一度ぐらい棒ふったっていいじゃない!」...このリクエストに筒井先生は応えます。
江利チエミコンサートでタクトを初めて筒井さんは振ったのです。
地元のクロ服のおアニイさんに丁重に出迎えられて警護もされた...といったエピソードも描かれています。
そして年はあけ、2月13日がやってきます...
とるものもとりあえず筒井先生は奥様とチエミさんの泉岳寺のマンションに向かいます。
そしてチエミさんのご家族とずっと仮通夜、本通夜、仮告別式を一緒に過ごします。
あわただしい3日間を過ごしたあと、奥さんを自宅に戻してひとり筒井先生は新宿に飲みにでかけます。
バーにはいり、少しキザかなと躊躇しつつチエミさんの分と2杯の水割りを注文。チエミさんに「ま、ともかく一杯いこうよ」と心の中でつぶやくと、これまで一滴の涙もこぼさなかったものが堰を切ったように溢れ出します。
トイレに駆け込み嗚咽が表に漏れるのではと心配なほどに号泣したのだそうです。
先生の著書「青春の志は音楽家」はこのくだりで締めくくられています。
57年3月3日、増上寺「江利チエミ・音楽葬」の場面です。
>家族の胸に抱かれたチエミちゃんの位牌、遺影、遺骨が本堂をでた。
シャープス・アンド・フラッツの演奏する曲名は「There is no business like show business」。あのミュージカル・ナンバー「ショウほど素敵な商売はない」です。
そうですよ!
チエミちゃんには「葬送行進曲」なんか似合わない。最後までハッピーに、にぎやかに、「ショウほど素敵な商売はないもんね!」と歌い上げてもらわなくちゃ。
その時、沿道を埋め尽くしたファンのなかから声がとんだ。
「チエミ!」
「日本一!」
「大統領!」
父親が歩みを止め、そして、その声がとんだ方に向けて静かに一礼した。
チエミちゃんの遺影が、そのとき、にっこりして「ありがとね!」と、言ったように思えた。
いや、確かに言った。
確かにぼくはその声を聴いた。
戦後の日本を代表する天才的なスターの、これが最後のカーテンコールだった。
-完-
合唱団TERRAさんHPより...
再び、筒井広志先生のことを引用します。
>慶応義塾大学卒業後、作曲家広瀬健次郎に師事。翌年より旧日劇、東宝歌舞伎、宝塚劇場、松竹劇場等の作曲担当。その後、テレビ・ラジオ・映画音楽・CMソング等の作曲で幅広く活躍。
1970年アメリカ・ロスアラモス芸術院主催の国際作曲コンクールにて第2位受賞。これと平行して故江利チエミの専属音楽監督として活躍。1981年小説家としても、処女作「我等が宇宙永遠に平和なれ」を始め、「オレの好きなワタシ(新潮社)」等多くの小説を出版。1985年TVドラマ「例えばこんなメロドラマ」の原作・シナリオ・作曲で放送ギャラクシー賞受賞。
1989年音楽座ミュージカル「シャボン玉とんだ宇宙までとんだ」の原作・作曲・編曲により、文化庁の優秀舞台芸術賞、移動芸術賞等を受賞。1990年同じく音楽座ミュージカル「とってもゴースト」の原作、総監督により、文化庁芸術祭舞台部門芸術賞受賞。最近作は、劇団「目覚まし時計」のミュージカル「ファーブルの昆虫記」など。
(中略)
多才な才能を持ちながら、64才の若さで亡くなられた 筒井広志さんの死を悼み、ご冥福を祈りたい。
江利チエミに終生付き添った音楽家、最高のパートナーは親友・戦友でもあった筒井先生であったといえるのではないでしょうか。
出逢った時期がもう少し早かったら...
もっと早くにスター・江利チエミと筒井先生との距離感がなくなっていたなら...
真剣勝負、四つに組んだ間柄なら喉の故障も引き起こさなかったのでは...
どうにもならないことですが、歌手/江利チエミの人生はまったく違ったものになっていたように思えます。
今となっては、チエミさん、筒井先生よ安らかに!...と祈ることしかできません。
<余談>
昭和27年 江利チエミ初主演映画「猛獣使いの少女」は、江利チエミ扮する猛獣使いが主題歌を歌うシーンで終わります。
♪わたしは涙のうたうたい...
...なんとも彼女のこれからの波乱の人生を言い表わしているようで胸が詰まります。