夜半過ぎの住宅街をふたつの影が走っていく。
この時間に人の往来はほとんどなく、交通許可時間外のため上空に飛行車の姿もない。走り続ける二人の足音ばかりがただ静寂を小刻みに揺らしている。
男に手を引かれ息を切らせながら、白坂(しらさか)蘭は色々な事を思い出していた。
1
白坂蘭はアンドロイド研究の第一人者である父と美しい母との間に生まれた。
広い屋敷に家族三人と家庭用アンドロイド数体の何不自由ない生活。父親の明晰さと母親の容貌とを受け継ぎ、裕福な人生を約束された彼女は、誰の目から見ても恵まれているといえた。
それでも彼女自身が幸せを実感することはあまり多くなかった。ある程度の金は自由に使うことが許されており、身の回りのことも子守ロボットや機械仕掛けのハウスキーパー――勿論これらは全て父である白坂博士の作品である――が助けてくれたが、むしろそのことがより一層蘭の寂しさを強くさせた。
今思い返しても、家族の思い出と呼べるものはほとんど見当たらない。父は研究に没頭していたし、母は一人で出掛けることが多かった。
しかしそんな彼らでも蘭にとっては大切な家族であることに変わりはなかった。
母親が男と逃げたのは蘭が十歳のときだった。
今まで漠然と感じていた不安が現実となったことに蘭は動揺し人知れず泣いたが、それ以上に打ちひしがれたのは白坂博士であった。
彼は妻を深く愛していた。そして愛情を表現することを怠っていたわけでもなかった。研究において結果を出すことが同時に家族に対する愛情表現になりうるのだと彼は信じていたのだ。
妻を失ってしばらくの間博士は憔悴しきっていたが、一週間ほど経った日の夕食の最中、娘に悲痛な面持ちで、お前だけは私のことを裏切らないでくれ――と告げると、今まで以上に研究に熱を上げるようになった。
蘭は、父が家庭を顧みなかったことが母のいなくなった最たる原因だろうと感じていたが、同時に自分自身に母を繋ぎ止めるだけの価値がなかったのかもしれないとも考えた。それでもやはり家族を捨てた母への嫌悪感は心のどこかにあって、父に同情する気持ちと共に、自分が強く在らなければという思いを抱いていた。まだその時は。
白坂夫人の蒸発から数ヶ月後のことである。
「新しいママだよ」
そう言って白坂博士が娘に紹介したのは母親によく似たロボットだった。
「パパ、これ――」
博士は、聞きたいことは全て分かっているという風な笑顔で答えた。
「蘭のママにそっくりだろう。お前が寂しいんじゃないかと思って造ったんだ。これからは新しいママが身の回りの世話をしてくれるからね。な、頼んだよママ」
博士の言葉に反応して、ロボットが音声を発した。
「ヨロシクネ、蘭チャン。ママッテ呼ンデネ」
こんなもの要らない、とは言えなかった。
蘭はこのとき初めて、父と自分の間にある感覚の差異をはっきりと認識した。そして父が何を考えているのか理解できないことが不安で仕方なかった。
母親型アンドロイドはプログラム通りとても友好的に接してきたが、突然いなくなったかと思うと数日後にひょっこり戻ってくるということが多かった。そういう意味では本当の母によく似ていた。
ある夜遅く、滅多にないことだったが蘭はトイレに目を覚ました。
静かな廊下を歩いているとやけに聴覚が敏感になる。蘭は微かだがどこからか妙な音がしていることに気付いた。
その音は、両親の――今は父とあの機械の――寝室から聞こえていた。
父の声がする。
大概の場合、白坂博士は自宅内のラボで寝起きをしているので、彼が寝室にいるのは珍しいことだった。
蘭はそこで何が起きているのか気になって、ロックされた自動扉に恐る恐る近付くと耳をそばだてた。その音が空耳ではなく例えば父と機械の性交渉によるものであったとしても蘭の傷はそこまで深くはならなかっただろう。
怒号と何かを壊すような音。
途切れ途切れに聞こえる女声の謝罪。
何が起きているかを彼女が理解するのに、それほど時間はかからなかった。
父は、母の形をしたものを破壊している。
蘭はその時、ぼんやりと考えた。
突然いなくなったかと思うと数日後にひょっこり戻ってくるということが多かった――。それなら、今この部屋の中で破壊されているのは何体目の『母』なのだろう、と。
やがて謝罪の音声は聞こえなくなり、怒号は呟きに変わったがそれもじきに止み、あとはただ破壊音だけが断続的に続いていた。蘭は茫然としながら震える脚で部屋まで戻り、何を思考することもできないまま声も上げず涙を流した。
それでも蘭は賢い子どもだったので表面上は今まで通り父に接するよう努めた。そのため白坂家の生活は、表面上は今まで通り平穏であった。
高校生の頃、母親型アンドロイドが屋敷から姿を消した。
蘭は当初、それを『いつもの修理期間』だと考えたが、白坂博士は事も無げに言った。
「ママは処分したよ。もうお前も大きくなったし、母親は必要ないだろう」
そうじゃない。
そうね――と微笑みながら蘭は内心震えていた。
そうじゃない。似てきたから代わりを造る必要がなくなっただけだ。
私が母に似てきたから――。
父に対する蘭の疑心は日に日に膨らみ続けた。
一方で、白坂博士は娘に対し時折、恐れのような視線を向けることがあった。かつて経験した嫌な事がまた起きるのではないかと不安がる目。
蘭は、父に破壊されながら謝罪し続ける夢に何度もうなされた。
そんなとき蘭は、今まさに彼女の手を握り走る男――当時大学生であった葉森次郎――に出会ったのだった。
ある晴れた日の午後、公園のベンチで文庫本を読んでいた蘭に、葉森は親しげに話しかけてきた。
「僕も好きなんですよ、その本。このご時世に紙媒体だなんて珍しいですね」
葉森の言う通り、本などというのはもはや前時代的な代物になりつつあり、今や携帯情報端末に電子書籍をダウンロードする方法が一般化してきていた。しかし、蘭はページを指でめくる感覚や目に見えて読み進まれていく感じが好きでよく古い文庫本を持ち歩いていた。
蘭がそのことを告げると彼は、そうなんですよねと満面の笑みで同意した。
葉森は蘭のことを珍しいと言ったが、一方で蘭も葉森のことを珍しく思った。この辺りの地区には見知らぬ相手に気安く話しかけるような人間はほとんどいないからだ。
最初は警戒した蘭だったが、葉森の柔和さはその緊張を解きほぐした。
二人はそれから、自分の好きな本を互いに貸したりしてしばしば会うようになり、いつしか恋人の関係となっていった。
知り合ってしばらくしてから分かったことだが、葉森は近年急成長を遂げているバイオテク企業の御曹司であり、後継者ではないものの彼に期待する者は多いようだった。葉森は頭脳明晰とも容姿端麗とも言いがたい比較的地味な青年だったが、人当たりがよく実直であった。
彼は大学生活を送る傍らでロボットの擁護活動に参加しており、アンドロイドに対してもある程度の権利が与えられるべきだと考えていた。そのため彼は白坂博士の研究にも少なからず興味を持っているようで、蘭は彼に父のことを話したりもしたが、父に関する自身の苦悩を吐露することは出来なかった。
付き合い始めてどれくらい経った頃だろうか、葉森は蘭に、自分が大学を卒業したら結婚しようと言った。
蘭にとってもそれはとても嬉しい言葉だったが、同時に新たな悩みの種にもなった。実のところ彼女は、交際相手がいることを父に伝えていなかったのだ。
伝えられなどしない。
恐れを含んだ父の視線を蘭は恐れていた。
そうこうするうちに葉森の卒業が近付いてきた。
彼は父親の会社への就職が決まっており、経済的な心配は必要ないと言った。蘭の憂いはそことは別にあったのだが、葉森が妙に真剣な顔していたので、最大の心配事は解消されたね――と軽口を叩いて笑ってみせた。
それから静かな決意を胸に、出来るだけ何気ない風を装って言った。
「父に挨拶に行こう」
「君にお父さんと呼ばれる筋合いはない」
何かの喜劇で聞いたような台詞を、白坂博士は不愉快そうな顔で言い放った。
それでもそれは蘭が予想していたよりも余程人間染みた言動だったので、彼女は少しほっとしていた。彼女は父が怒号を上げて暴れだすか、あるいは無言で自室に戻ってしまうかというようなことを半ば本気で懸念していたのだ。
隣ではがちがちに緊張した葉森が、あ、いや、すみません――などといいながら冷や汗をかいていた。それを横目で見ながら蘭は、今まで自分が感じてきた底無しの不安のほとんどが杞憂か何かだったのではないかと考えていた。
しかし、それがもしそうだとしても、父がいま二人の結婚に反対しているという事実は変わらない。蘭は父の目を見て言った。
「お父さん、確かに今までずっと黙ってたことは悪かったと思うよ。でも次郎君となんの話もしていないのに頭ごなしに否定するのも少し違うと思うの」
蘭の助け船に葉森は大きく頷いた。
「はい、私自身、おとうさ――いえ白坂博士とはお話をさせていただきたいと兼ね兼ね考えておりまして。例えばアンドロイドの権利についてだとか――」
それを聞いて、今まで険しかった白坂博士の顔が変わった。
「なんだって?」
「あ、私はアンドロイドにも最低限の権利が与えられるべきだという考えを持っていまして、その点についてもロボット工学の権威である白坂――」
「ロボットは人間の道具だ」
博士は無表情に言うと、葉森をにべもなく追い返した。
そして、無言で自分のラボに戻ってしまうとその日一日出てくることはなかった。
それから数日して、白坂博士が一人の男を連れてきた。
「お前が結婚したいというからぴったりの相手を探してきたよ」
博士は蘭に、悪意の欠片も見えない柔らかな口調で言った。その言い方が余りにも自然だったので、蘭は最初、父の言っていることの意味について思考が追いつかなかった。
「乙俣(おとまた)君だ」
それはまるで機械のような男だった。顔立ちは美しかったが、張り付いた笑顔と無駄のない所作がなんだか不気味だった。
「いやあ、先生の娘さんがこんなに綺麗だなんてびっくりしましたよ」
「ほう、君もなかなか言うようになったねえ」
彼は父が非常勤をしている大学の院生であるということだったが、蘭はそれも怪しいものだと思った。どこか人間味に欠けるこの男は父の造ったアンドロイドではないのか。
ここ数年でロボットは人間とほとんど見分けがつかないほどに進化していた。その現状を生み出す一端を担ったのは紛れもなく、蘭の目の前で談笑している白坂博士その人であった。
蘭には白坂博士の考えていることが分からなかった。
父にとって私はなんなのか。
大切な愛娘か。逃げ出した母の代わりか。
あるいは研究対象のひとつでしかなくて、自分という人間の人生は全て父にプログラミングされているのではないか。
そう考えると蘭は頭がどうにかなってしまいそうだった。
今では逃げ出した母親の気持ちがなんだか分かるような気がした。しかし母が実際に何を考えていたのかさえ今となっては確かめようのないことだと思うと、自分が底無しの暗闇の中に立ったまま沈んでいくような心持ちがして吐きそうだった。
蘭は雑談を交わす二人に、体調が優れないからと謝罪して部屋に戻ることにした。
居間を出るまでずっと、蘭は背中に二人の無機質な視線を感じていた。
逃げなければ――そう思った。
「どうしたの、顔色が悪いよ」
蘭の目の前には心配そうな顔をした葉森の姿が浮かんでいた。
机の上に置かれた機器から投影された映像である。
実際に会えないとき、二人はこの方法で通信していた。蘭の造ったポータブルタイプの送受像機は画質も荒く、トランシーバーのように、対になる二台の間でしかやり取りの出来ない簡易な物だったが、蘭にとっては家の回線を使用するよりも余程安心だった。表立って紹介するまで父に葉森の存在を知られなかったのは、この送受像機の活躍による部分が大きかったといえる。
葉森の映像に向かって、蘭は青ざめた顔で言った。
「私はいつか父に殺されてしまうかもしれない」
今まで常に心のどこかに抱いていた恐れを言葉にしたのも、そのことを誰かに伝えたのも、彼女にとってこのときが初めてだった。蘭は、子どもの頃から自分の中で呪いのように膨らみ続けてきた思いを全て葉森に吐き出した。
葉森は始め、戸惑ったような表情をしていたが、馬鹿にもせず嫌な顔もしないで蘭の話を聞いていた。そして蘭が喋り終えると、しばらくの間じっと考え込むように黙ってから、蘭の目を真っ直ぐに見て言った。
「逃げよう」
葉森の瞳には不安が色濃く浮かんでいたものの、そこに迷いは見えなかった。
「一緒にどこか遠くで暮らそう」
蘭は、子どもの時以来ずっと我慢してきた涙を流しながら何度も何度も頷いた。
それから数日後、白坂博士が学会の集まりで家を空けた夜、二人は最小限の荷物だけを手に、住宅街の外れで落ち合った。
そして今、走っている。
2
二人の息遣いが徐々に激しくなってきた頃、蘭は耳馴染んだ音を背後に微か聞いた。何か忘れ物をしているような気分にさせるその足音。
蘭チャン、蘭チャン、はんかちヲ忘レテルヨ。
小学生の頃の記憶。――あれは。
駆動部の軋む足音が聞こえる。
後ろから一生懸命に走ってきたのは、蘭の初めての友だちだった。
白坂博士によってデッチと名付けられた、その小児サイズのアンドロイドは、子守ロボットとして幼い蘭に与えられた。
デッチは白坂博士の比較的初期の作品であり、人間に近い外見をもった現在のアンドロイドに比べると、余りにロボット然とした風貌をしていた。子どもが描く簡素なロボットを想像してもらえれば分かりやすいだろう。
それでも蘭にとってデッチが仲の良い友だちであることに変わりはなかったし、外見から想起されるほど彼――デッチの人工知能は男性である――は無能でもなかった。
むしろ幼い頃の蘭は賢い子どもであったもののどこか抜けていて、学校へ向かう途中で後ろからデッチが忘れ物を持って追いかけてくるという光景が日常茶飯事であった。
しかし成長するにつれ、蘭の忘れ物は減って人間の友人が増え始めた。デッチと遊ぶ機会もどんどんと少なくなっていった。
蘭が小学校を卒業する頃、白坂博士がデッチを指差して言った。
「捨ててもいいんだぞ。また新しいのを造ってあげるから」
蘭は首を横に振った。
「いいの、デッチは家族だから。捨てたくないの」
蘭は最早デッチの助けを必要としないまでに大きくなっていたが、デッチは代えの利く玩具などではなく、一人の家族に他ならなかった。修理されては戻ってくる『母親』よりも、何を考えているか分からない父親よりも、余程蘭にとっては家族であった。
だからデッチは現在でもお手伝いロボットとして白坂邸で機能している。
しかしそれでも今の今まで、蘭は走ることに精一杯でデッチのことなどすっかり忘れていた。勿論家を出るという話になったとき、デッチのことを考えもした。けれど、蘭は家も家族も捨てる覚悟でいた。デッチが後から追ってくるなんてことは彼女にとって思いもよらないことだった。
「蘭チャン、忘レテルヨ」
デッチと目線が合うように蘭がしゃがみ込むと、目のライトをパチパチと点滅させながらデッチは言った。
「僕モ連レテ行ッテ」
蘭はとても驚いたが、それ以上にとても嬉しかった。蘭はデッチのことを家族だと思っていたが、彼も同様に自分のことを家族だと認識しているとは思いもよらなかった。
蘭がその気持ちを言葉にすることができずに葉森を見上げると、彼は微笑んで、連れて行ってあげようと言った。
今ではすっかり自分の方が大きくなってしまった、小さなロボットを抱きしめながら、蘭は、忘れてないよ――と呟いた。
夜が明ける頃、彼らは目的の場所に辿り着いていた。
鐘崎(かねさき)ニュータウン。
人口過密を緩和するため前世紀に建設された居住区であったが、今世紀においては一見して巨大な廃墟群の様相を呈している。
しかし、そこは廃墟ではない。富の偏りが一般通念化した現在、そこには社会の中心から追いやられた貧しい人々たちが身を隠すようにして暮らしていた。中には戸籍のない者や犯罪まがいの商売をしている者も少なくないが、政府はそれを黙認し、黙殺している。
現代の日本において、鐘崎ニュータウンのような場所は各地に点在している。富裕層と貧困層の間には明確な境界線が引かれ、お互いがお互いのテリトリーに干渉することなく生活しているのだ。
そして、蘭たちはその境界を跨いだ。
住居の確保は容易かった。人間二人とロボット一体が暮らすには全く申し分のない広さである。
問題は経済的な部分にあった。勿論ある程度の金は持ってきていたので当面の心配はなかったが、ここで暮らしていく以上何らかの職を得なければならないことは温室育ちの二人にも分かることだった。
そうして訪れた内職斡旋所の受付には、妙に化粧の濃い老婆が座っていた。ぷんときつい香水の匂いが鼻を突く。
「あんたたち、新しい顔だね」
「はい、僕たちここに来たばかりでなにぶん知らないことが多いもので。よろしくお願いします」
「まぁ直に慣れるだろうさ。そんな生き生きとした目が出来ないくらいにね」
時折吐き出される老婆の毒に辟易しながら実に簡単な手続きを済ませると、老婆は受付に並べた数枚の書類を指して言った。
「今ある仕事はこんなところさね」
ざっと眺めたところ、まともな職は少なかった。特に一番端のピンク色の紙には性的な言葉が躍っていたし、その隣の青色の紙には「内臓」という文字が見えたので蘭は知らぬ振りをした。
結局、蘭はどこかの工場で使われる機械の部品を組み立てる職を選び、葉森は安い煙草を刻む仕事に就くことにした。
「あんた若くて綺麗なんだから、もっと金になる仕事があるのにね」
下卑た笑いを浮かべる老婆を尻目に二人は斡旋所を後にした。
徹底した節制の暮らしはとても大変なものだった。覚悟はしていたことだったが、それでもその苦労は想像の斜め上をいった。
与えられた内職はどう頑張ってもなかなか大した金にはならず、そう毎日風呂に入れるというわけでもない上に浴槽はドラム缶だったし、夜はといえばほぼ完全な暗闇だった。最初は小奇麗な異物だった二人も、いつしか鐘崎ニュータウンの薄汚れた一部になりつつあった。
街にいた頃は恋人同士だった関係も生活臭に蝕まれ、今まで溢れていた若さのようなものは日に日に乾きつつある。お互い愛は感じていたが、かつて思い描いていた理想的な夫婦関係とは程遠い場所にいた。
それでもその生活に耐えることが出来ているのは、デッチがいるからだった。
元々省エネルギーで動くデッチは少ない充電でよく働いた。よく働いたといっても、食事の皿を運んだり簡単な掃除をしたりと、子どもの使いのような仕事ばかりだったが、それでも一生懸命な様がいじらしく、二人の心のささくれを癒やしてくれるのだった。
そして彼らが鐘崎を訪れた翌年の秋、蘭と葉森の間に男児が生まれる。
3
「キクオ?」
子どもは、家の裏手に立派に咲き誇る菊の花から、菊生(きくお)と名づけられた。
生まれたばかりの我が子を抱きかかえながら、蘭はデッチに微笑みかける。
「そう、菊生。これでデッチもお兄ちゃんだね」
「オ兄チャン?」
その側で葉森も幸せそうに笑って言う。
「そうだよ。デッチの方が大きいからね。面倒見てあげられるかな?」
「大丈夫デス。任セテクダサイ」
旧式のロボットであるから表情も変わらないはずなのに、嬉しそうな顔に見えるのが不思議である。
菊生が生まれてからというものの、デッチは今まで以上に張り切って働くようになった。ろくなメンテナンスも出来ないため、彼の身体は徐々に傷んでいたが、自身に与えられた任務を遂行するためにデッチは一生懸命だった。
それからしばらく幸せな日々が続いた。
菊生が生まれてから家には笑いが絶えず、蘭と葉森も笑顔を交し合うことが増えた。二人が最近した喧嘩といえば、菊生の初めて喋った「あーあー」という言葉が『パパ』か『ママ』かで揉めるという微笑ましく馬鹿馬鹿しいものであった。
デッチも菊生の布おむつを代えてやったり、泣いている菊生をあやす手伝いをしたりと、とても楽しそうに働いていた。
しかし、幸せとはいえ、子どもを育てるのにはやはり金が必要である。今のままではいずれ生活は立ち行かなくなる。二人には新たな働き口が必要だった。
そのため二人はデッチに菊生を任せ、より収入の多い仕事を探しに出かけた。
納得のいく仕事を見つけ、ほくほくと帰ってきた二人を、デッチは玄関で棒立ちになったまま迎えた。
デッチは言った。
「オ湯を沸カシマシタ。菊生ヲ入レテアゲマシタ」
「ありがとう。菊生はもう寝ちゃった?」
「菊生ハ死ンデシマイマシタ」
「え?」
蘭はその言葉の意味が分からず、固まった笑顔のまま聞き返した。
「菊生ハ死ンデシマイマシタ」
先程と同じ音程、速度で発せられた音声の意味をようやく理解し、二人は靴も脱がず風呂場に向かって駆け出した。
脱衣所の床にはタオルにくるまれた菊生が横になっていた。ただ一つ異常な点は、その身体が海老のように茹でられ、全身の皮がずるりと剥けていることだった。ドラム缶に湛えられた湯はぷくぷくと泡を立てて煮えたぎっている。
蘭は絶叫してその場にへたり込んだ。葉森は声も出せずにその場に立ち竦んだ。
後ろからデッチの声がした。
「任セラレタ仕事ヲシマシタ。菊生ハ死ンデシマイ――」
「風呂に入れろだなんて頼んでないわよ!」
蘭は怒鳴り声を上げて、側にあった手桶をデッチに向かって投げつけた。デッチはそれを避けることもせずに受けて右目の一部が破損したが、何も言わず逃げもせず立っていた。
「なんとか言えよ!」
蘭の口から自分でもびっくりするような怒号が飛び出した。それでも蘭の興奮は収まることなく、震える足で立ち上がるとデッチに向かって歩いていった。
「ゴメンナサイ」
デッチの謝る声を聞きながら、蘭は床に落ちた手桶を拾い上げた。そしてそれを勢いよく振り上げる。
そこでようやく葉森が後ろから蘭を羽交い絞めた。
「こんなことしたって何にもならないだろう! こいつを壊したって菊生は戻ってこないだろう!」
「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ――」
デッチはやはり逃げもしないで謝り続けている。
離してと叫びながら暴れる蘭の脳裏に、そのとき何かがフラッシュバックした。
謝罪し続ける機械音声。
激しい怒号。
アンドロイドを破壊する。
壊したって何にもならない。
戻ってこない。
――蘭の中で何かが萎えた。
全身の力が抜けて倒れそうになる蘭を葉森が支える。
デッチは身じろぎもせずにただひたすら、ゴメンサイ――と呟いていた。
二人は簡素な葬式で菊生を弔い、ニュータウンの外れにある墓地にその亡骸を埋葬した。
デッチが二人に話しかけることも、二人がデッチに話しかけることもなくなったが、夫婦が墓参りに行く時間を避けて、デッチもまた菊生の墓を訪れては菊の花を手向け、墓を掃除しているようだった。
デッチに対する二人の憎しみは消えていた。菊生のことを思えば胸が苦しく痛み、無論忘れることなど出来るはずもなかったが、デッチを恨んでどうなることでもないし、何より毎日欠かすことなく墓参りをするデッチの姿に心を打たれた。二人にはそれがただの人真似の模倣には見えなかった。
そして、これからまた三人でもう一度やり直そう――そう思った矢先、デッチが死んだ。
菊生が死んでから四十九日後のことだった。
デッチが墓参りから戻らないことを訝しく思った二人が墓地へ向かうと、菊生の墓の前にデッチが倒れていた。彼は先の尖った竹を握っており、その先端はデッチの頭と身体との接合部位を真っ直ぐに貫いていた。
目のライトが弱弱しく点滅している。まだ完全に壊れてはいなかったが、終わりの時が近いことを予感させるような心許ない光である。
蘭はデッチに駆け寄るとその身体を力強く抱きしめた。その身体は最早脱力して動かない。
「やめてよ――あなたまでいなくなったら私たちはどうすればいいの? どうしてこんな――」
人工知能も走馬灯を見るのだろうか。
蘭の悲痛な声を認識しながら、デッチのコンピュータはかつて設定されたプログラムを走馬灯のように再生していた。
そのプログラムは一年程前のあの日――蘭が葉森を紹介した日――に、白坂博士が来るべきエックスデーを予測して追加したものだった。
条件――対象Aの逃亡
実行内容――対象Aの追跡
→その生活空間への介入
〈条件――対象Aの愛児たる対象Bの誕生〉
→対象Bの抹消
〈条件――対象B抹消から四十九日経過〉
→自己破壊プログラム起動
デッチは任せられた仕事をしただけだった。白坂博士に対する共感もなければ、蘭に対する憎悪もなかった。設定されたプログラムの条件が満たされたために、それを実行しただけだった。デッチはただ任せられた仕事をしただけだった。白坂博士に対する共感もなければ、蘭に対する憎悪もなかった。設定されたプログラムの条件が満たされたために、それを実行しただけだった。
走馬灯は再生を繰り返す。
条件――対象Aの逃亡
「いいの、デッチは家族だから。捨てたくないの」
実行内容――対象Aの追跡
「連れて行ってあげよう」
→その生活空間への介入
「忘れてないよ」
〈条件――対象Aの愛児たる対象Bの誕生〉
「これでデッチもお兄ちゃんだね」
→対象Bの抹消
「そうだよ。デッチの方が大きいからね」
〈条件――対象B抹消から四十九日経過〉
「あーあー」
→自己破壊プログラム起動
「あなたまでいなくなったら私たちはどうすればいいの?」
ノイズが混じる。
プログラムとは別の記録――いや、人間はそれを記憶と呼ぶのか。
デッチは無数に発生するノイズを処理することができなかった。人工知能の死に際して、コンピュータの動きが鈍くなっていることだけがその要因ではなかった。
処理する必要がない――デッチはそう判断した。それは人が、忘れたくない――と思うことにとてもよく似ていた。
走馬灯は今やノイズに支配されている。
「いいの、デッチは家族だから。捨てたくないの」
ハンカチを差し出した自分に蘭が笑いかけている。
「連れて行ってあげよう」
蘭に抱きしめられた自分を見て葉森が微笑んでいる。
「忘れてないよ」
蘭の作った夕食を食卓に運んでいる。
「これでデッチもお兄ちゃんだね」
生まれたばかりの菊生を抱いた蘭が笑っている。
「そうだよ。デッチの方が大きいからね」
口を尖らせた蘭と葉森が「ママだ」「パパだ」と言い合っている。
「あーあー」
さっきまで泣いていた菊生が自分を見て嬉しそうにしている。
「あなたまでいなくなったら私たちはどうすればいいの?」
蘭が自分を抱きしめて泣いている。
泣いている。
デッチは任せられた仕事をしただけだった。
デッチはアンドロイドだった。
デッチは『幸せ』という言葉を定義することが出来なかった。
それでも今、『悲しい』ということが分かった気がした。
『愛』とは何だろう。
「蘭チャン」
思考もノイズも消えた。
4
鐘崎ニュータウンの外れに静かな墓地がある。
毎日誰かしらが訪れては、それぞれ亡くした人の墓前で手を合わせる。手入れされた綺麗な墓もあれば、数年も人の来ていないような荒れた墓もある。
そんな墓の群れの中に葉森菊生の墓は立っていて、その隣に寄り添うようにしてもう一つ小さな墓が佇んでいる。
二つの墓には今日も大輪の菊が手向けられていた。
〈 終 〉