つわわわわ

上半身が球体に近づきつつある男の、特になんともないブログ

日本の夏、Nazcaの夏

2011年08月22日 11時50分38秒 | 日記
ブログでお知らせしたと思っていたらお知らせしていなかった、
劇団銀石第10回公演「Nazca」が無事千秋楽を迎えました。

二度目の吉祥寺シアター。
前回踏んだときは楽しかったけど悔しかったのですが、
今回は楽しかったしほとんど悔いの残らないような感じで戦えました。

ただもちろん課題は残る。
大きな劇場をもっと密に使えなければと思うし、
芝居にムラが出ないだけの体力をつけなければいけないし、
ちゃんとタオルを持って行かなければならない。
手が濡れたとき拭くものがないからだ。

とにもかくにも、怪我なく全ステージを全うすることができました。
これもひとえに、この公演に関わってくださった全ての方々の存在あってのことです。
本当にありがとうございました。

写真は、愛機とゴーグルです。
あとジャスミンティーとネモ。


さぁーて、遊ぶぞーっ!!!

誰かの写真

2011年08月15日 00時25分54秒 | 戯言
幼い子どもにとって留守番というのは、いつも人がいるはずの我が家から自分以外の誰もがいなくなるという、割と非日常的なイベントであるといえる。

具体的な時期については曖昧なのだけれども、小学校低学年から中学年の頃だったと思う。
買い物やら何やらの用事で、家族が全員家を空けているという時があった。

当時、僕の家はまだ改築を行う前で、今よりも余程狭かった。
二階には襖で仕切られた六畳と四畳半、それに小さな物置部屋があるばかりで、子どもの頃は六畳に布団を敷いて親子五人「川11」の字で寝ていた。

それはさておき、留守番の最中。
幼い僕は二階のその四畳半にあるゴミ箱の中を見た。
その頃四畳半で使っていたゴミ箱は長い筒状のもので、おそらく僕は何かを捨てた拍子にその中身を覗いたのだった。

そこには写真があった。
証明写真のように人物がアップになった、セピア色の写真。

写っていたのは僕の知らない女の人だった。
おそらく十代の半ばから二十代前半ほどの年頃。
年齢がはっきりしない顔立ちだったということをなんとなく覚えている。
その女の人は着物を着ていて、おかっぱ頭で、特に笑いもせず、猫のような目でじっとこちらを、ファインダーを見ていた。

僕は急に怖くなってゴミ箱の中身から目を背けた。
そもそも、当時の僕には「写真を捨てる」という感覚が理解できなかった。
漠然とではあるけれど、写真は思い出とイコールだと思っていたし、大人になった今でも、余程のことがない限り捨てるものではないと思う。

僕は写真そのものよりも、写真の置かれたその状況の方が怖かった。
だからもしあの写真がゴミ箱ではなく、アルバムの中に納められていたなら、別段恐怖を感じることもなかったかもしれない。

さらに言えば、そのとき僕は恐怖と同時に奇妙な背徳感を感じていた。
自宅のゴミ箱に写真が捨てられているということは、家族の中にそれを捨てた人間がいたということだ。
それは僕にとって、なんだかとても考えたくないことだった。
だから僕はしばらくの間、そのゴミ箱を覗くことができなかったし、写真について家族の誰に聞くこともできなかった。

しばらく経って、まともにあのゴミ箱を覗けるようになったとき、当然のことではあるが、写真はそこにはなかった。
家族に聞いても、誰もそんな写真は知らないし、捨ててもいないと言う。

結局写真については何一つ分かっていない。
あの写真は本当に存在していたものだったのか。
もし存在していたのなら誰が捨て、なぜそのことを隠したのか。
二十歳を越えた今となっても、小さな引っ掛かりとして心の片隅に残っている出来事である。


というのが、前回のブログで妙に引っ張った、あまり大したことのない不思議話です。
なお、当ブログにて趣味で掲載している「だれかのゆめのにっき」の「ゆめ1 『祖母の写真』」はこの体験がモチーフとなっています。
まぁそんな感じです。

おやすみなさい。