「真実はいつもひとつ」なんてそんな、馬鹿だ。
真実はいつも人の数だけあって、いつもひとつなのは事実だ。
でも事実は人に観測された時点で、もはや真実となってしまうのだから、そのひとつの事実を知ることができる人間などはいないわけだ。
そもそも「知る」という行為そのものが事実を真実に変貌させているのだ。
人間はそれぞれにとっての真実を抱いて、他人の真実とすり合わせ、時にぶつけあって生きている。
そして多くの人間が自分の真実こそ「世界の真実(=事実)」だと考えていて、僕もある意味その一人で、そんな奴は馬鹿だ。
見たものを信じることは大切だけれど、見たものしか信じられないような人間は馬鹿者だ。
見たものは飽くまで階段の段のひとつなのであって、世界のすべてではない。
他人の真実を受け入れない人間が宗教戦争とか起こすんだよ。
だから、人と争うってことはひとつの共有の形であるべきであって、相手の真実を組み込み、自分の真実を組み込んでもらうって行為であるべきなんだよ。
決して相手を叩き潰して、完膚なきまでに相手の我を消滅させるという行為であってはならない。
その快楽はただ力任せの逃げだ。
増長であって成長ではない。
生物多様性の逆を行く愚かな行為ですよ。
そんな奴はきっと自分と同じような種類の強い奴に叩き潰されるだけ。
それがそいつの選んだ世界観、生き方、つまり死に方で、まぁそれで満足ならいいじゃないって思う半面、生きようとしてる奴の足を引っ張るな糞がと思う。
我なんてものは相対的なものなんだから、我を我たらしめている他を大事にしなくて、それは真に我を大切にしているのだと言えるのだろうかよ。
人の感覚を大事にできる人間こそ真に自分の感覚を大事にしているのだといえるはず。
「自分で立っている」ということはつまり「地面に寄り掛かっている」ということなのだからね。
明日になったら忘れてるからメモとして残しておきます。
まぁ読まないだろうけどね。