デモクラティックスクールで働いていて私が難しさを感じるのは、子どもとの付き合い方です。なんだかそのまんまですが…
わたしは塾でも働いているのですが、デモクラティックスクールで働き始めてから、塾で教えることのラクさと、ここで働くこと特有の難しさを毎日感じています。
塾では私は“先生”であり、子どもは“生徒”です。そこには上下関係・権力関係が最初から前提されており、生徒は先生の言うことを聞くべきものとされています。
そのような上下関係の中で、先生は生徒に「最近学校はどう?」とか「勉強は難しい?」とか「クラブはどう?」とか話しかけます。
そこでは必ずしも会話が弾む必要はありません。コミュニケーションを取ることが大事なのです。子どもも最初から“先生”と友達のように会話することを期待していません。
そのようなちょっとした会話をした上で、先生は授業をします。そう、先生と生徒の関係では、先生は授業をするという明確な役割があるので、それを上手にするということに意識を向けていればいいのです。もちろん、面白い授業をするためには、一定のスキルや経験が必要なのですが。
でも、とにかく役割・任務が決められている分、子どもと付き合う上での心理的負担は軽減されます。
でもデモクラティックスクールでスタッフに求められるのは、生徒との対等な付き合いです。
ここでは、子どもは勉強すべきであると考えるわけにはいきません。
子どもは自分のしたいことを追求する存在と捉えます。その上で、その子どもたちにとって自分にできることは何なのかをスタッフ自身は考える必要があります。
子どもは一方的に上から物を言う権威は求めていません。また、子どもと没交渉で事務的仕事をこなす存在を求めているかどうかも分かりません。子どもでも大人でも、人とのコミュニケーションを求める点では同じだからです。
でも、そのようなコミュニケーションは、お互いが対等な立場に立って初めて成り立つものです。
この“対等さ”ということが、デモクラティックスクールで働き始めた私にとっていちばん難しく感じることです。
同時に、大人とも、また回りのメンバーとも“対等”な関係でいられる環境こそが、子どもに安心感をもたらし、自分のしたいことをしやすくしてくれるのだと思います。
わたしは塾でも働いているのですが、デモクラティックスクールで働き始めてから、塾で教えることのラクさと、ここで働くこと特有の難しさを毎日感じています。
塾では私は“先生”であり、子どもは“生徒”です。そこには上下関係・権力関係が最初から前提されており、生徒は先生の言うことを聞くべきものとされています。
そのような上下関係の中で、先生は生徒に「最近学校はどう?」とか「勉強は難しい?」とか「クラブはどう?」とか話しかけます。
そこでは必ずしも会話が弾む必要はありません。コミュニケーションを取ることが大事なのです。子どもも最初から“先生”と友達のように会話することを期待していません。
そのようなちょっとした会話をした上で、先生は授業をします。そう、先生と生徒の関係では、先生は授業をするという明確な役割があるので、それを上手にするということに意識を向けていればいいのです。もちろん、面白い授業をするためには、一定のスキルや経験が必要なのですが。
でも、とにかく役割・任務が決められている分、子どもと付き合う上での心理的負担は軽減されます。
でもデモクラティックスクールでスタッフに求められるのは、生徒との対等な付き合いです。
ここでは、子どもは勉強すべきであると考えるわけにはいきません。
子どもは自分のしたいことを追求する存在と捉えます。その上で、その子どもたちにとって自分にできることは何なのかをスタッフ自身は考える必要があります。
子どもは一方的に上から物を言う権威は求めていません。また、子どもと没交渉で事務的仕事をこなす存在を求めているかどうかも分かりません。子どもでも大人でも、人とのコミュニケーションを求める点では同じだからです。
でも、そのようなコミュニケーションは、お互いが対等な立場に立って初めて成り立つものです。
この“対等さ”ということが、デモクラティックスクールで働き始めた私にとっていちばん難しく感じることです。
同時に、大人とも、また回りのメンバーとも“対等”な関係でいられる環境こそが、子どもに安心感をもたらし、自分のしたいことをしやすくしてくれるのだと思います。