鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅵ278] 安楽死/考 (1) / 「安楽死」とはなにか

2023-12-26 10:36:22 | 生涯教育

私は「安楽死」の問題を積み残しにしていた。この連載では《Ⅳ236「日本人は浅い民である」(230503)》として問題を提起したままだった。「安楽死」の問題はとても深遠な問題を抱えていてとても難しい。私はこれに関して記すのをためらっていたが意を決して書くことにした。「安楽死」とはなにか。

《「安楽死」を示す英語の euthanasia は、ギリシャ語の eu (良い・気高い)と thanatos (死) からできていて、「良き死」(good death)という言語的意味をもっていた。しかし現在では一般に、それとは逆の状態、すなわち「苦痛に満ちた侮辱的な状態から解放されるための死」、「安楽になるための死」という意味で用いられる》(葛生栄二郎、河見 誠、伊佐智子:いのちの法と倫理[新版]. p.179、法律文化社、2023)。

まず鑑三翁が「安楽死」をどのように考えていたのかという事。私が全著作を読み進めてきた中では、鑑三翁が「安楽死」そのものを主題にした論稿はなかった。ひょっとして私の見落としがあったかもしれないが。しかし鑑三翁が「安楽死」を正面から取り上げなかったからと言って、鑑三翁が「安楽死」ついて考えることはなかったとは言えない。

たとえば後述する森鴎外注1)の『高瀬舟』は『中央公論』(1916(大正5)年1月号)に掲載されて話題を呼んだので、同時代を生きた鑑三翁かそれを知らなかった筈はない。また徳富蘇峰注2)の発行していた『国民之友』には、鑑三翁も何度か寄稿しており、森鴎外は小説も発表していることから、鑑三翁は森鴎外についても当然知っていただろう。しかし森鴎外及び『高瀬舟』『高瀬舟縁起』(『心の花』1916(大正5)年1月号)に関して、鑑三翁が論評した形跡は見られない。

注1) 本名林太郎。1862〈文久2〉-1922〈大正11〉、石見国鹿足郡津和野町(現・島根県鹿足郡津和野町)生まれ。代々津和野藩亀井家の典医の家柄で、鴎外もその影響から第一大学区医学校(現・東大医学部)予科に入学。そして両親の意に従い陸軍軍医となる。1884(明治17)年から5年間ドイツに留学し衛生学などを学ぶ。『舞姫』『うたかたの記』『ヰタ・セクスアリス』などに、ドイツ時代の鴎外を見て取ることができる。その後陸軍軍医総監へと地位を上り詰めたが、創作への意欲は衰えず、『高瀬舟』『阿部一族』などの代表作を発表した。)

注2) 明治・大正・昭和期にかけてのジャーナリスト、思想家、歴史家。1863(文久3)-1957(昭和32)。熊本県益城町生まれ。熊本洋学校時代にはキリスト教に関心を持ち「熊本バンド」の結成にも参画した。明治20年には月刊誌『国民之友』を発行、明治23年から『国民新聞』を主宰した。明治27年には『国民之友』には鑑三翁の「Justification of Korean War」を『国民之友』に掲載した。これは朝鮮出兵論であったが、後年鑑三翁はこの自説を「誤りであった」として撤回している。)


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