鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅵ285] 安楽死/考 (8) / 死の「時」

2024-02-18 09:49:19 | 生涯教育

鑑三翁は人間の生命は神の造られた「像」なので尊ばなければならないとした。ではその人間が死を迎える時/神の腕に抱かれて天に召される「時」は何時なのか。鑑三翁はこれについては次のように記している(全集20、p.270)

【「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり」(伝道の書3:1-2)と言う。そうであれば信仰をもつ者(原文「信者」)の死すべき時とはいかなる時であるか。

信仰をもつ者はいたずらな長寿を保つべきではない。死は彼にとっては神の呪い(原文「呪詛」)ではない。彼には死すべき時がある。その時が来れば彼は感謝して死すべきである。信仰をもつ者は神の僕(しもべ)である。主人から特殊な要務(注:重要な用務のこと)を委ねられた者である。したがって彼はこの要務を果たすまでは死すべきではないし、その時まで彼は決して死ぬことができないのである。

リビングストン(注:David Livingstone、1813-73、スコットランドの探検家、宣教師、医師。 ヨーロッパ人で初めてアフリカ大陸を横断した) が、「我々は天職を終るまでは不滅であるかのように働く」と言ったのは、信仰をもつ者の確信である。彼が罹患した病気の重さは問う必要もない。彼になお天職が完成しないものがあれば彼は死なないのである。しかしながら彼がもし果たすべき仕事を果たし終えたのであれば彼は死を迎えるのである。彼は長命長寿の願いをもって神に迫ってはならない。なぜならば既に要務なき者はこの世に永らえる必要はないからである。「なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか」(ルカによる福音書13:7) である。僕(しもべ)は主人の要務を果たせばそれで去ってよいのである。彼は心に言うべきである、私は長く生きることを望まない、私はただわが主の要務を為すべきことを望むのだ、と。

信仰をもつ者は神の僕(しもべ)であると同時にまた神の愛子(いとしご)である。ゆえに神は彼が成熟して天国の市民としての資格を備えるまでは、彼をこの世から召し賜わないのである。信仰をもつ者がこの世に存在するのは、傷もなく汚れもなき者となって主なる神の前に立つべく準備を行うためである。(中略) そうであるとは言っても、信仰をもつ者は自分自身で画然と彼の死の時を決めることはできない。彼は果たして彼の天職を成し遂げたのかどうか、また彼は果たして天国に入る準備を完成したのかどうかを自らが確定することはできない。しかしながら彼は神は愛なりと信じている。彼は今日までの彼の実体験(注:原文は「実験」)において、彼の生涯は愛なる神の摂理によって形成されてきたことを信じている。ゆえに彼は彼の生涯の結末において彼を運命の流れに委ねることはなされないと信じている。すなわち彼は彼の神が死すべき時に彼を死に至らせられる事を信じている。

すなわち神の恩恵の手に誘われてきた彼は、死すべき時でなくては死なない。また彼の死ぬ時は彼が死ぬべき時が来たことを信じている。神に依り頼む彼は、万事を神に委ね奉るのである。まして人生の最大事としての死に於いてをや。彼の生涯の指導に関して誤ることのなかった神は、彼の生涯の最大事件である「死の時期」を選ぶ事について、神は決して誤ることはない。ゆえに信仰をもつ者は安心して死に対峙すべきである。必ずしも生を求めることなく死を願うこともなく、生きるのも死ぬのも主のためである。死ぬべき時に死ぬるのは大いなる恩恵である。もしいたずらに生を願い死ぬべき時に死ななければ大きな不幸と言わざるを得ない。死ぬべき時に死ぬのは光明に入る門である。死は最大の不幸なりと言うのは、信仰をもつ者が言うべき事ではない。

彼はただ死ぬべき時に死ぬことを求めるのである。その「時」は早くもなく遅くもない。】

死の「時」は神に委ねる。それが信仰をもつ者の態度である。したがって私は自分で勝手に「死の時」を決めることはできない‥鑑三翁の確信である。

しかしながら今まで記してきた鑑三翁の考え方だけでは、「安楽死」の問題に対処することは出来ないことも事実だ。長い間闘病の中で呼吸困難や疼痛や様々な症状に苦しみ、人格が壊れそうになるほどの耐え難い心身の苦しみが続き、現代医学をもってしても病の治癒の可能性がほぼないと診断され判断される時、目の前の患者が安らかな死への意志表示を明確に示している時‥私は《高瀬舟》の兄のように判断するかもしれない。しかし私は目の前の人間をこよなく愛している、一日でも長く生きていて欲しいと願っている、それは私だけではない家族も同様だ、そして心身の安定して穏やかな日には彼女とあれこれととりとめのない話をしていたい、これは彼女の意思を顧みない身勝手な願いなのだろうか、しかし彼女は今日も安らかな死を懇願しているとしたら‥。問題点はぐるぐると私の中を回り果てしがない。日々私の決断は変化する。だがどこかでこの連鎖を止めることが必要だということはわかっている。

目の前の彼女にとっての恩寵とは何か、彼女の生のピークに私は何ができるのか。‥彼女とは人間同志の魂の了解点に達していること、家族にこれが困難であれば友人隣人医療者でもいい、決して彼女を一人ぽっちにはさせないこと、彼女の心身の苦悶を共に抱いてあげること、彼女の息遣いと心臓の鼓動を共に聞いてあげること、彼女の魂に添うようにして彼女の切なる願いを達成させてあげること‥これらは私にとって人生の達人の仕業のようにも思えるが‥これが今の私の結語である。


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