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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅱ35]鑑三翁の思想の著しい特徴(3)    

2021-04-29 11:31:13 | 生涯教育

        

※仏教観など: 

「我等の心霊の友はウェスレーなるよりも寧ろ法然なり、ムーデーなるよりも寧ろ親鸞なり、宗教の同じきは信念の傾向の同じきに如かず、我等がイエスを仰ぎ奉る心は、法然親鸞が弥陀仏に依頼(よりたの)みし心に似て、英米の基督信徒がキリストを信ずるの心に類せず、我等は勿論イエスを去て釈迦に就かんと欲する者に非ず、然れども神が我等日本人に賜ひし特殊の宗教心を以て我等の主イエスキリストを崇め奉らんと欲す。」(全集14、p.366) 

「(世人一般の評に仏教は世界の宗教中最も哲学的の者だと申しまするが貴下も爾(そ)うお考へなさいますか。) 左様さ、若し「哲学的」とは「形而上学的」を謂ふ者ならば爾うかも知れません。仏教程其教義の中に多くの逃道を供へたる宗教はありません。実に仏教は凡ての宗教を綜合した者の様に思はれます。其内に何んでもありまするのは何んにも無い事を証拠立てるかもしれません。 (然し貴下は其れが我国に為したる大なる善事を否むことは出来ますまい。) 左様、ソレは貧者と虫けらに対する憐憫を教へました。然し自由平等等の大問題に就ては全く沈黙を守りました。仏国は隠遁者を作ります、然し勇者と愛国者とを作りません。」(全集7、英和時事問答(10)、p.221) 

「儒教に戦々兢々として薄氷を践むの感あらば基督教に躍々として天に昇るの感あり而して我は謹慎戦慄の教義に優りて欣喜雀躍の宗教を択ぶものなり。」(全集7、p.446) 

※政治観など: 

「貧しくして慧(かしこ)き青年は 老いて愚かにして諫言を納(いる)る事を学ばざる王に愈(まさ)る、彼れ牢獄(ひとや)より出て王となれば、王は其国に在りて乞食(こつじき)となる、我れ日の下に歩む所の群生(ぐんせい)が、王に代りて立し所の青年の下に群るを見る、際限(はてし)なき民衆其前に在り、然れども彼の後に来る時代は彼を悦(よろこば)ざる也、是も亦空にして風を捕ふる事なり」と(伝道之書、四章十三-十六節)、…政治の事たる多くは是れ空にして風を捕ふる事なるは誠実の士にして之を試みし者の等しく看破せし所である、政治は決して人生の最上善ではない、縦(よ)し之に成功して総理大臣となり、大勲位を授けられ、正一位を贈られて墓に下るとも、政治の事たる豊太閤の歎ぜしが如く「浪速のことは夢の世の中」である、…政治は婬婦の如き者である、「神の悦び給ふ者は之を避くるを得べし、然れども罪人は之に執(とら)へらるべし」である(伝道之書七章廿六節)。」(全集22、p.69) 

※ 

精神医学者のC.Gユング(1875-1961)はキリスト教信仰のカトリックとプロテスタントを次のように比較しています(C.G.ユング・林道義訳:ヨブへの答え、みすず書房、1988)。「カトリックは原型的なシンボルが世俗的に発達してゆくに任せ、それが理解しにくかろうが批判を受けようが、元の形のままで押し通している。この点にカトリック教会の母性的な性格が見られる、‥それに対して父性的な精神によって義務づけられているプロテスタンティズムは、初め世俗の時代精神との対決から形成されたばかりでなく、その時代の精神的潮流との論争も続けている。」(p.149-50) 

このユングの記述は簡潔にして要点をついています。この記述に従えば、日本では内村鑑三こそ、プロテスタンティズムの代表的なキリスト者であると私は断言します。つまり鑑三翁こそ、”世俗の時代精神との対決から形成された”思想を醸成し、それを武器として”精神的潮流との論争”も続けてきた人だと確信しています。私にとっては、鑑三翁の言葉は今なお生きていて、今日日も活き活きと発言を続けているようにさえ思われます。共に2018年に出版された先述の新保祐司氏や若松英輔氏の著作も、明らかに”今なお生き続けている内村鑑三”の視点から執筆されているように思われます。  

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[Ⅱ34]鑑三翁の思想の著しい特徴(2) 

2021-04-27 12:50:02 | 生涯教育

※世論について: 

「輿論は神の声なりと意(おも)ふは非なり、神の声は常に輿論に反対す、昔時の予言者は皆悉く輿論の反抗者なりき、人類何者ぞ、聖書に曰くエホバ天より人の子を望みて悟る者、神を究(たず)ぬる者ありやと見給ひしに皆な逆(そむ)き出て悉く腐れたり、善を為す者なし、一人もなしと(詩編十四篇二、三節)、神を反き去りし人類の輿論は神意を伝ふるものにあらず、吾人は神の言たる聖書に聴くべし、悪人が多数を占むる社会の輿論なるものに従ふべからず。(全集13、p.122) 

「世が当時善人と見る者は大抵は悪人である、世が当時悪人と見る者は善人である、神に叛(そむ)きし此世の輿論は大抵の場合に於ては神の真理と正反対である、我等は此心を以て人の批評を聞き、日々の新聞を読むべきである。」(全集16、p.386) 

※司法や裁判所について: 

「我れまた日の下を見しに 審判(さばき)を行ふ所に邪曲(よこしま)なる事行はる、公義を行ふ所に邪曲なる事行はる」と(伝道之書三章十六節)、裁判所の腐敗である、裁判官の堕落である、司法権の蹂躙である、国法の濫用である、コーへレスは之を見て憤慨に堪えなかったのである、故に之を矯め之を正し国家と社会とを其根柢より潔めんとしたのである、然れども嗚呼、此場合に於ても他の場合に於ける如く「曲れる者は之を直からしむる能はず」であった(同書一章十五節)、腐敗は依然として継続せられた、司直の任に当る者は種々の言を構へて邪曲の邪曲ならざるを弁じた、…彼は司法官の無能に失望して神に頼るに至ったのである、誠実なる改革の努力に常に此利益が伴ふのである、人は社会と政府と協会に失望して神を信ずるに至るのである。」(全集21、p.62) 

※日本及び日本人について: 

「日本人は浅い民である。彼等は喜ぶに浅くある、怒るに浅くある、彼等は唯我(が)を張るに強くあるのみである。忌々(いまいま)しいことは彼等が怒る時の主なる動機であって、彼等は深く静に怒ることが出来ない。まことに彼等の或者は永久に深遠に怒ることの如何に正しい神らしい事である乎(か)をさへ知らない。故に彼等の反対は恐ろしくない。彼等が怒りし時には、怒らして置けば其れで宜(よ)いのである。電気鰻(うなぎ)が其貯蓄せる電気を放散すれば、其後は無害に成るが如くに、日本人は怒る丈け怒れば、其後は平穏の人と成るのである。若し外国人が日本人の此心裡を知るに至らば、彼等は日本人を扱ふの途を知って彼等を少しも恐れなくなるであらう。…「深遠、深遠に応ふ」と彼等(※基督教国)の詩人は歌うた(詩篇四十二篇七節)。人は何人もエホバの神に深くして戴くまでは浅い民である。欧州にニイチェのやうな基督教に激烈に反対する思想家の起った理由は茲(ここ)に在るのである。彼等は基督教に由て深くせられて、其深みを以て基督教を嘲り又攻撃するのである。東洋の儒教や仏教を以てしては到底深い人間を作ることが出来ない。」(全集28、p.200) 

「日本国は情実国である、随(したがっ)て其教会は情実の巣窟である、此国で最も好まるゝ人は「優しい人」と称(とな)へられて明白なる不義背徳を見逃す人である、之に反して最も嫌はるゝ人は「無慈悲の人」と称へられて正道は如何なる情実をも排して勇敢に之を実行する人である、日本人は其信者なると不信者なるとを問はず、すべて湿った人を愛して乾いた人を嫌ふ、」(全集19、p.431)  

「日本の天然は美しくある、其社会は悪しくある、居心(いごころ)の悪い社会とて日本の社会の如きはない、其点に於て米国の社会と雖も優(はるか)に日本のそれに勝る、何故に然る乎と云ふに、日本の社会に在りては敵と味方とが判然しないからである、…宗良(むねなが)親王の名歌に曰く「諏訪の湖(うみ)や氷を渡る人の世も神し守らば危(あやう)からめや」と、実に能く日本人の心中を歌ふた歌である、日本人の社会は氷を以て張詰めたる諏訪湖の如き者である、之を渡る者は何時信頼の友に裏切られて苦痛の深淵(ふかみ)に陥るかわからない、…唯神の守護に依りてのみ是等「偽り兄弟の難」を免かるゝ事を得るのである。(コリント後書十一章廿六節、テモテ後書四章十四、十五節等参考)。」(全集26、p.508) 

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[Ⅱ33]鑑三翁の思想の著しい特徴(1)   

2021-04-25 18:59:41 | 生涯教育

鑑三翁のキリスト教信仰は深く厳しく柔和で慈愛に富むものでした。しかしながら鑑三翁の内奥にある考え方や思想には、往時の教会の組織活動や牧会活動、神学及び神学教育には見られない独特の思想/考え方が見られます。その代表的なものは「無教会主義」の思想です。鑑三翁はその独特な考え方や思想を「聖書にもとづく信仰」の一点を揺らぎなく守り続けながら、時には舌鋒鋭く批判・批難し世に訴えました。時にはたっぷり皮肉を込めながら、時には諭すように話し、執筆しました。 

このような鑑三翁のユニークな思想/考え方は、一般社会に向けて、あるいは教会信者や伝道者、神学研究者、海外からの宣教師に向けて発せられましたが、これらの多くは伝統的な考え方や権威主義的な思考、当たり前の通念の問い直しを迫るような強いメッセージを含んでいるのが大きな特徴です。鑑三翁の著作等から「無教会」「プロテスタント主義」「信仰」「真理/知識/自由」「世論」「司法や裁判所」「日本及び日本人」「仏教観」「政治観」といった事柄につき、ごくごく一部を原文のまま拾ってみました。明治・大正・昭和という激動の時代を生きた鑑三翁ですが、このような信仰等の姿勢に関しては、右顧左眄せず、慮ることなく忖度せずに、堅固で一貫した姿勢を保ち続けたところに大きな特徴があります。「死への準備教育」からは横道にそれますが、鑑三翁という人の全貌を少しでも知っていただきたいと考え記しました。 

※教会と無教会について: 

「教会は人のためであって、人は教会のためでない、余輩は教会の不必要を唱へない、同時に亦無教会の必要を認むる。」(全集19、p.439) 

「無教会主義の理由を知らんと欲する乎、之を余輩に問ふを要せず、直に教会其物に就て視るを得べし、其教師の嫉妬と反目と排擠とを見よ、其信者の奪合を視よ、其協会員の不義と不正と不実と不信とを視よ、然らば余輩に問うことなくして無教会主義の理由は自づから明かなるべし、教会其物が無教会主義の最も力ある証明者なり、」(全集17、p.213) 

※プロテスタント主義について: 

「神の外、何者にも依らざる、是れプロテスタント主義なり、若し教会に依るの必要あらん乎、我儕は復たび羅馬天主教会に還るべきなり、蓋(そは)其組織の完全にして其系統の確実なる、此旧教会に優るものゝ他に存せざれはばなり、然れどもルーテル一たび信仰の自由を唱へてより地上の教会は不必要物と成れり、我儕プロテスタント主義者は信仰養成のために教会を利用することあるべし、然れども其指導を受くるにあらざれば我儕の救済を全うする能はずと信ずるが如きは我儕本来の主義にあらず、我儕は忠実なるプロテスタント主義者として飽くまで教会の主権に反対す。」(全集12、p.241) 

※信仰について: 

「基督教に在りては改宗は単にさとりでない。救主との直接個人関係の成立である。」(全集30、p.380) 

「基督者の信仰生活は半信半行ではない、全信無行である、我が恵信僧都は此信仰状態を歌ふて曰ふた「夏衣ひとへに西を慕ふかな 裏なく弥陀に頼る身なれば」と、我等の信仰の目標はキリストである、」(全集23、p.357) 

「斯くてすべての善き信者は小児(こども)であった、パウロもルーテルも、コロムウェルもムーデーも、我がシイリ―先生も皆小児であった、彼等の偉大なる人格と該博なる知識と強健なる意志とは彼等が小児らしきことを妨げなかった、彼等は日々の糧を父に仰ぎ、日々の教導を彼に求め、愛せらるゝ小児の如くに彼に効(なら)はんと努めし者であった、故にあどけなき所があった、嬉々として恩恵を楽しむ所があった、…彼等は又容易に人を信じた、故に人に欺かれ易くあった、…彼等は容易に人の善を信じて容易にその悪を信じなかった、…彼等は老いたる小児であった、老いて老いざる者であった、」(全集23、p.372) 

※真理/知識/自由: 

「且つ汝等真理を識らん、而して真理は汝等に自由を得さすべし(ヨハネ伝八章三十二節)。此一節の中に三つの大なる詞(ことば)があります、其第一は「真理」…第二は「識る」…第三は「自由」であります。…「真理」と訳したのが抑々(そもそも)誤解の始めであります、学問上の真理ではありません、信仰上の実態であります、空虚に対するの実物であります、真(まこと)の理ではありません、実(まこと)の者であります、…「識る」とは「在る」ことであります、我を彼の衷(うち)に置くことであります、…一体になることであります、一心になることであります。「真理を識る」こと、即ちイエスと一体になること、其結果が「自由」であるとの事であります、…「自由」は罪を犯さない自由であります、」(要約)(全集19、p.197-99) 

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[Ⅱ32]内村鑑三という人(2) 

2021-04-24 12:59:29 | 生涯教育

   

鑑三翁はアメリカから帰国後1889(明治22)年には東洋英和学校、水産伝習所の教師となりました。この年には、結婚生活が破綻していたタケと正式離婚、同年高崎の横浜かずと結婚しました。1890(明治23)年には東京の第一高等学校の嘱託教員となりました。ここで鑑三翁のその後の人生を決定づける「不敬事件」が起こり第一高等学校をやむなく退職、その後貧苦の中で妻かずを喪うという悲劇が続けて襲いました。かずの死は鑑三翁に人生最大の衝撃を与えたものと考えられます。そしてかずの死からおよそ2年後に執筆されたのが「愛するものゝ失せし時」です。鑑三翁の喪失感とそれによる打撃の大きさ、人生と信仰の危機が如実に表現されています。この一文は『基督信徒の慰』(1893)に収載されました。『内村鑑三全集』[以下全集](岩波書店、1980-84)では第2巻に収載されています。 

1992(明治25)年には大阪泰西学館教師となりました。この年に京都の岡田しづと結婚、1894(明治27)年には娘ルツ、1897(明治31)年には長男祐之(注: 後に東京大学医学部精神医学教室教授)が生まれました。しづとの結婚後、鑑三翁の執筆活動や講演活動が積極的になっていきました。 

このような様々な活動を積極的に行う一方、一般紙誌にも寄稿を続けました。1897(明治30)年には『万朝報』英文欄主筆に招かれ健筆を奮いました。一方では定期的な講演会も開催しています。この時期の連続講演会は大きな会場が毎回満席になるほどの盛況でした。1898(明治31)年には『東京独立雑誌』を創刊。1900(明治33)年には『聖書之研究』が創刊され鑑三翁の亡くなるまで継続刊行されました(逝去の年1930年4月375号にて終刊)。 

出版活動や講演会活動は順調な経過をたどっていきましたが、鑑三翁にはまた一つの悲劇が起こりました。1912(明治45)年1月最愛の娘ルツの死です。鑑三翁が51歳のときでした。ルツは18年の生涯でした。ルツの死は、鑑三翁にとっては痛恨の打撃にはなりましたが、人生経験を経てからの死であり、かずの死のときとは比較にならないほどの落ち着きをみせています。ルツの死の後に記された文章が「祝すべき哉疾病(やまひ)」(1912)、「祝すべき死」(1912)などです。 

鑑三翁の執筆活動・出版活動は旺盛なものになっていき、講演活動も高い評価を受けながら行われていきました。講演会の記録は直ちに『聖書の研究』に収載され、評判の高いものは出版されました。こうした中で刊行された出版物のごく一部を以下にあげます。 

『基督信徒の慰』(1893)、『求安録』(1893)、『Re-presentative Men of Japan』(英語版1894、『代表的日本人』(1908))、『How I became a Christian』(英語版1895、その後ドイツ語版、フィンランド語版、スウェーデン語版、デンマーク語版、フランス語版、アメリカ版が発行されました。日本語版は鑑三翁の死後岩波書店から刊行されたのが『余は如何にして基督信徒となりし乎』(鈴木俊郎訳、1935)。『後世への最大遺物』(1897)、『デンマルク国の話』(1913)、『約百記講演』(1922)、『羅馬書の研究』(1924)、『一日一生』 (1926) 。その他多くの出版物が世に出ましたが、ここでは省略します。 

鑑三翁の言論活動及び出版活動は多岐にわたりました。それらに加えて日記や書簡、年譜までを総て収載した『内村鑑三全集』[以下、全集]は1980(昭和55)年に刊行が始まり1984(昭和59)年までに全40巻(総21,332頁)が出版されました(岩波書店、鈴木範久ら編集)。この全集には鑑三翁の著作のほぼ全てが網羅されています。その後この全集のDVD版も発行されています(内村鑑三全集DVD版出版会、2009年)。またこの全集からは主題別編集『内村鑑三選集全8巻・別巻1冊』[以下、選集](岩波書店、1990、鈴木範久編集)が生まれました。  

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[Ⅱ31]内村鑑三という人(1)

2021-04-23 13:24:27 | 生涯教育

前回までの連載(鑑三翁に学ぶ死への準備教育[1]~[30])では、私自身の体験から書き起こした「死への準備教育」に関する私の考え方を記しました。今回からの「第二部」では、私自身が大きな影響を受けた明治・大正・昭和を生きた言論人にしてキリスト者・内村鑑三(以下[鑑三翁]と表記します)の厖大な論稿の中から、「死への準備教育」を学習するに際して、私が必須と考えた論稿を選定し、その「現代語訳」を中心に学んでいきたいと思います。私の過去の連載でも鑑三翁に関しては何度か触れていますが、鑑三翁が人生の危機を乗りこえて執筆されたいくつかの論稿は、同様な体験をした私にとっては大きな励みとなりました。 

ところで鑑三翁の死後90年近くが経過して、近年『明治の光 内村鑑三』(新保祐司、藤原書店、2018)、『内村鑑三 悲しみの使徒』(若松英輔、岩波書店、2018)といった鑑三翁の研究者の手による著作が相次いで出版されました。これも鑑三翁の思想や信仰への再評価を示すものと考えられ、また混迷の時世にある日本にあって、日本及び日本人の進むべき航路と精神を鑑三翁の中に見出すことができると確信した人たちの労作とも言えます。場末の寓居で黙々と鑑三翁を読み耽る私もその一人です。 

ところが一方では、「今さら何故内村鑑三なんて古い‥」とか、「無教会主義のキリスト教なんて危険思想‥」とか、「今のITの時代に明治の思想家なんて‥」とか、最も多い声は「内村鑑三なんていう人、名前も聞いたこともないし、どんな人かさっぱりわからない」という誤解・曲解の声が私の元に届きます。しかし私はそれらの人たちにはぜひ内村鑑三の世界を探索して、著作実物をお読みいただきたいと願っています。キリスト教の信仰をもつ人にも、そうでない人にも、必ずや鑑三翁の声はあなたの胸の奥底に響くものがあると確信しています。 

※ 

内村鑑三(1861-1930)は、高崎藩の下級武士であった父親・内村金之丞宜之(母ヤソ)の長男として、1861(万延2)年父親の赴任地江戸小石川に生まれました。鑑三翁は1977(明治10)年札幌農学校に第二期生として入学しました。同期生に新渡戸稲造、宮部金吾などがいました。そしてW.S.クラークの「イエスを信ずる者の誓約」に署名し、翌年メソジスト監督協会宣教師M.C.ハリスから受洗しました。ここからキリスト者としての鑑三翁の歩みが始まりました。札幌農学校を卒業後、農商務省水産課に勤務、ここでは魚類や漁業政策に関する本格的な論文も発表しています。 

1884(明治17)年には渡米し新島襄の勧めでアマースト大学(J.H.Seeley総長)に入学、1887(明治26)年には同大学を卒業し理学士の称号を受けました。その後コネチカット州のハートフォード神学校に入学しますが、4か月後病気(注:慢性不眠症)のため退学し帰国しました。なおアメリカでは到着直後の一時期、障がい児施設の看護人の仕事を経験しています。 

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