鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅴ277] 泣きべそ聖書(37) / イエスの母の涙       

2023-12-19 14:12:43 | 生涯教育

◎さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリアとが、たたずんでいた。イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母に云われた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。(ヨハネによる福音書: 19:25-30)

キリスト・イエスの最期の時の情景である。イエスは数年間の布教生活で多くの奇跡を示し、病気を癒し、邪悪な悪魔を祓った。そして往時世の中を支配していたユダヤ教の思想や律法、これに盲従する職業的宗教家を批判した。そして神への絶対愛と神の前での平等を説いて多くの支持者を得てきた。すると当然のことながらユダヤ教の体制を支配していた者たちによって革命的な危険分子として指弾され捕われた。そして当時のユダヤ国を支配していたローマ帝国式の極刑である十字架刑に処せられた。ヨハネによればそのイエスの最期に立ち会っていたのはイエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリアたちであった。その最期にイエスは母と愛弟子ヨハネがそばにいるのを見て、母マリアに向かってヨハネはあなたの子だと言い、ヨハネにはマリアはあなたの母だと言い残した。ヨハネはこの時以来マリアを家に引き取り実の母のように遇したと伝わっている。

十字架にかけられた息子のそばでマリアは滂沱(ぼうだ)の涙を流したことだろう。だが「ヨハネによる福音書」では泣き崩れるマリアは描かれてはおらず、十字架のそばに顔をあげてすっくと立っていた。

『その様子は、「STABAT MATER(スターバト・マーテル:母は立っていた)」という言葉に象徴される。「STABAT MATER」で始まる受難曲や聖歌は宗派をこえて広く作曲され歌われた。数百にものぼると言われている。悲しみに耐えて、数奇な運命で得た息子が使命をまっとうするのを見とどけようとする母の覚悟の深さに、人々は感動してきたのである。‥イエスの死と復活のドラマの間、マリアがどこにいたとしても、息子の死に諦念と共に胸が張り裂けるような苦しみを味わい、息子の復活と昇天の知らせに喜びと希望と神への感謝の気持ちを味わったことは間違いないだろう。』(竹下節子:聖母マリア. p.33-34、講談社、1998)

「STABAT MATER(スターバト・マーテル)」では、息を引き取ったイエスの傍らですっくと母は立っていた、ということになる。だが人間としてのキリスト・イエスの母として、エレミヤのように涙の泉から溢れ出てくる涙をおさえ切れなかった‥という姿が私には馴染む。ペルゴレージの「スターバト・マーテル:悲しみに沈める聖母は涙にくれて」の美しい旋律は胸を打つ。私の最も好きな楽曲の一つだ。「STABAT MATER」の歌詞にはいくつものバージョンがあるらしいが、その一つは次のようなものだ。

『悲しみの母は立っていた 十字架の傍らに、涙にくれ 御子が架けられているその間/呻き、悲しみ 歎くその魂を 剣が貫いた/ああ、なんと悲しく、打ちのめされたことか あれほどまでに祝福された 神のひとり子の母が/そして歎き、悲しんでいた 慈悲深い御母は、その子が 罰[苦しみ]を受けるのを目にしながら/涙をこぼさないものがあるだろうか キリストの母が、これほどまでの 責め苦の中にあるのを見て/悲しみを抱かないものがあるだろうか キリストの母が御子とともに 歎いているのを見つめて/その民の罪のために イエスが拷問を受け 鞭打たれるのを(御母は)見た/愛しい御子が 打ち捨てられて孤独に死に 魂を手放すのを見たか(以下略)』

(「なきべそ聖書」の項おわり)

※「スターバト マーテル」

悲しみの母は立っていた
十字架の傍らに、涙にくれ
御子が架けられているその間 
呻き、悲しみ
歎くその魂を
剣が貫いた 
ああ、なんと悲しく、打ちのめされたことか
あれほどまでに祝福された
神のひとり子の母が 
そして歎き、悲しんでいた
慈悲深い御母は、その子が
罰[苦しみ]を受けるのを目にしながら
涙をこぼさないものがあるだろうか
キリストの母が、これほどまでの
責め苦の中にあるのを見て悲しみを抱かないものがあるだろうか
キリストの母が御子とともに
歎いているのを見つめて 
その民の罪のために
イエスが拷問を受け
鞭打たれるのを(御母は)見た
愛しい御子が
打ち捨てられて孤独に死に
魂へ帰っていくのを見た 
さあ、御母よ、愛の泉よ
私にもあなたの強い悲しみを感じさせ
あなたと共に悲しませてください
私の心を燃やしてください
神なるキリストへの愛で、
その御心にかなうように

聖なる母よ、どうかお願いします
十字架に架けられた(御子の)傷を
私の心に深く刻みつけてください 
あなたの子が傷つけられ
ありがたくも私のために苦しんでくださった
その罰[苦しみ]を私に分けてください 
あなたと共にまことに涙を流し
十字架の苦しみを感じさせてください、
私の生のある限り
十字架の傍らにあなたと共に立ち
そして打ちのめされる苦しみを
あなたとともにすることを私は願います 
いと清き乙女のなかの乙女よ
どうか私を退けずに
あなたとともに歎かせてください

どうかキリストの死を私に負わせ、
どうかその受難を共にさせ、
そしてその傷に思いを馳せさせてください 
どうかその傷を私に負わせてください
どうか私に十字架を深く味わわせてください
そして御子の血を
怒りの火に燃やされることなきよう
あなたによって、乙女よ、守られますように
裁きの日には 
キリストよ、私がこの世を去る時には
御母によって私を勝利の栄誉へ
至らしめてください
肉体が滅びる時には
どうか魂に、栄光の天国を
与えてください。アーメン

※スターバト・マーテル(ラテン語: Stabat Mater、「悲しみの聖母」「聖母哀傷」)は、13世紀に生まれたカトリック教会の聖歌の1つである。ヤーコポーネ・ダ・トーディ (Jacopone da Todi) の作とされる。題名は、最初の1行(Stabat mater dolorosa、悲しみの聖母は立ちぬ)を省略したものである。中世の詩の中でも極めて心を打つものの1つであり、わが子イエス・キリストが磔刑となった際、母マリアが受けた悲しみを思う内容となっている。中世以来、西洋音楽の多くの作曲家がこの詩に曲を付けている。


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