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「自殺の可否」
大正元年10月10日 『聖書之研究』147号
署名 内村鑑三
聖書では自殺は禁じてはいません。ゆえにある場合には自殺を行うことも許されると言う者がいます。確かに聖書は自殺は禁じていません。「汝、殺すなかれ」とはありますが、「汝自ら殺すなかれ」とは書いてはありません。ただしイスカリオテのユダが自殺したことを伝えて、自殺が美しいものではないことを示しています(マタイによる福音書27:5、ならびに使徒行伝1:18参照)。
聖書は自殺を禁じてはいません。同じように戦争も禁じていません。多妻も禁じていません。(このように)聖書が文字で禁じていないもので、今の我々が”悪しき事”とみなすものは決して少なくはありません。
自殺にも幾つかの種類があります。人生を儚んでの自殺があります。死をもって生に勝る義務と見なしての自殺があります。故に自殺は全て不徳であるということはできません。ある種の自殺は高潔なものです。武士道の立場より見て自殺を絶対的に批難することはできません(注:鑑三翁は武士道精神を高く評価していた)。
しかしながらキリスト者の立場から見て、私は自殺が必要である場合を見出すことはできないのです。これは聖書に自殺が訓戒として禁じている/いないの問題ではありません。キリスト者が何者であるかを知って、私は人間は自殺をすべきではないことを知るのです。
ある意味ではキリスト者は既に自殺した者なのです。
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ人への手紙2:20) また
「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。」(コロサイ人への手紙3:3) とあります。
キリスト者は、すでに肉に死に、欲に死に、この世に死んだ者です。彼は今は「からだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげ」ようとする者です(ローマ人への手紙12:1)。彼の身は今は自分のものではありません。ゆえに自分が自由にこれを処分することはできないのです。パウロは次の言葉によって死と生に対するキリスト者の態度を明らかにしました。
「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」(ローマ人への手紙14:7-8)
キリスト者は主の所有です。キリストに属する者です。ゆえに彼は自ら生きようと欲しても生きることはできません。また自ら死のうと欲しても死ぬことはできないのです。したがって彼にとっては、自殺は禁じられているのです。同じく他人を殺すことも禁じられています。「殺すなかれ」という誡めは自他の区別はないのです。その理由は、他人も私自身も神と同じ形(注:原文は「像(かたち)」に象(かたど)られて造られ、私の所有するものではなく、神の所有するものだからです。自殺は自分を殺して勝手に神の所有するものを損なうことなのです。