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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅱ114]  『死ぬなかれ ! 』(2)  

2022-01-30 13:18:02 | 生涯教育

 

 ◇◇◇◇◇

「自殺の可否」

大正元年10月10日 『聖書之研究』147号   

署名 内村鑑三

聖書では自殺は禁じてはいません。ゆえにある場合には自殺を行うことも許されると言う者がいます。確かに聖書は自殺は禁じていません。「汝、殺すなかれ」とはありますが、「汝自ら殺すなかれ」とは書いてはありません。ただしイスカリオテのユダが自殺したことを伝えて、自殺が美しいものではないことを示しています(マタイによる福音書27:5、ならびに使徒行伝1:18参照)。

聖書は自殺を禁じてはいません。同じように戦争も禁じていません。多妻も禁じていません。(このように)聖書が文字で禁じていないもので、今の我々が”悪しき事”とみなすものは決して少なくはありません。

自殺にも幾つかの種類があります。人生を儚んでの自殺があります。死をもって生に勝る義務と見なしての自殺があります。故に自殺は全て不徳であるということはできません。ある種の自殺は高潔なものです。武士道の立場より見て自殺を絶対的に批難することはできません(注:鑑三翁は武士道精神を高く評価していた)。

しかしながらキリスト者の立場から見て、私は自殺が必要である場合を見出すことはできないのです。これは聖書に自殺が訓戒として禁じている/いないの問題ではありません。キリスト者が何者であるかを知って、私は人間は自殺をすべきではないことを知るのです。

ある意味ではキリスト者は既に自殺した者なのです。

「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ人への手紙2:20) また

「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。」(コロサイ人への手紙3:3) とあります。

キリスト者は、すでに肉に死に、欲に死に、この世に死んだ者です。彼は今は「からだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげ」ようとする者です(ローマ人への手紙12:1)。彼の身は今は自分のものではありません。ゆえに自分が自由にこれを処分することはできないのです。パウロは次の言葉によって死と生に対するキリスト者の態度を明らかにしました。

「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」(ローマ人への手紙14:7-8)

キリスト者は主の所有です。キリストに属する者です。ゆえに彼は自ら生きようと欲しても生きることはできません。また自ら死のうと欲しても死ぬことはできないのです。したがって彼にとっては、自殺は禁じられているのです。同じく他人を殺すことも禁じられています。「殺すなかれ」という誡めは自他の区別はないのです。その理由は、他人も私自身も神と同じ形(注:原文は「像(かたち)」に象(かたど)られて造られ、私の所有するものではなく、神の所有するものだからです。自殺は自分を殺して勝手に神の所有するものを損なうことなのです。

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[Ⅱ113]  『死ぬなかれ ! 』(1)

2022-01-26 08:56:55 | 生涯教育

鑑三翁の厖大な論稿のなかで自死(自殺)に関するものは多くはありません。大正元(1912)年10月『聖書の研究』147号に掲載された「自殺の可否」(全集19巻収載、選集8収載)はその数少ない論稿の一つです。これは明治天皇が崩御してその葬儀の日に乃木希典夫妻が自死した後に、乃木夫妻の自死の後に後追いで自死する者が続いたことに心を痛めた鑑三翁が執筆したものです。

私は本稿を初めとしてこれら何本かの論稿を現代語訳するに際してかなり躊躇しました。その理由の一つは、これらの論稿は鑑三翁の生きた時代背景を当然のことながら色濃く反映していて、今私たちの生活する時代とは「自死(自殺)」に関する見方・考え方がやや異なることがあげられます。ただし今回現代語訳した論稿は、鑑三翁の聖書観や死生観を強く反映しており、やはり現代語訳をしておくべきだと考えました。

ところで厚労省『自殺対策白書』の最新版(2021年11月)によれば、日本の自殺者数は近年全体として減少してきてはいるものの、依然として年間2万人を超えていて深刻な状況です。とりわけ若年層の自殺についてみると、日本における10~39歳の死因順位の1位は何と「自殺」です。国際的に見ても、15~34歳の死因順位の1位が自殺となっているのはG7の中でも日本のみです。日本における自死の特異性が際立ちます。また20-30歳代の女性においては、自殺未遂歴のある自殺者が4割を超えているという統計もあります。自殺の手段についてみると、特に19歳以下においては、飛び降りや飛び込みといった、突発的に行われる手段による自殺が多くなっています。

特に若年層の人たちの自死、若い女性たちのそれが際立っていることには胸が痛みます。自死の原因に関しては、白書を見る限りでは、学校問題、健康問題、家庭問題、男女問題、経済問題等々に原因が求められるようですが、自死を選んだ人たちの個々の自死の理由は容易に判断しがたいのが現実です。

そして意外に強調されていないのが「うつ病」です。精神科医は、本人が心療内科や精神科クリニックを受診する/周囲の者がこれに気づいて受診を勧める等の行動を起こす必要性を強調しています。そのためにも小中高の学校やテキストで「うつ病」に関する知識を習得しておくことも重要だと私は考えます。

鑑三翁と共に私自身も「聖書」の声に耳を傾けてほしかったな‥と自死をした人たちに語りかけたいとは思います。ただし人間が個々に抱える問題とその解決への道筋は、困難で難しいことと想像します。でも自死を決意する前に/実行する前に、孤独や孤立を感じていれば一旦呼吸を整えて自分の立ち位置を振り返ってみること、精神科クリニックの受診、第三者でもいいから周囲の信頼できる人間に心の中を打ち開いて話を聞いてもらうことを私は強く願っています。そして「聖書」の声掛けにも耳を傾けてほしいと祈りつつ鑑三翁の論稿を現代語訳しました。

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[Ⅱ112]  『聖書の語る死』(5)

2022-01-22 12:34:15 | 生涯教育

 

◉死とは生命を喪失することです。生命を限りなく戴く永生、すなわち窮まりなき生命があります。神は生命の源であり、生命の無限の供給者です。ゆえに神に繋がれてこそ永生があるのです。聖書の説くところは簡単明瞭です。電線が故障すると電球と発電所との繋がりが断たれ電球は消えます。故障が取り除かれればすぐに電球は点燈します。蓄電池というものがあり発電所に繋がれないで光を発するものもありますが、これは短時間だけ点燈するだけです。長くて24時間、蓄えられた電気が消えれば光は消えます。

人間の生命もまたその通りです。神を離れてすぐに死に至らないのは、彼にわずかな生命の貯蓄があるからなのです。しかしながらどんなに長くても百年、蓄えられた生命が絶えれば死が臨みます。これに引き替え何らかの方法により生命の源である神との繋がりを永久に保つことができれば、人は永久に生きることができるのです。「そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。」(テモテへの第二の手紙1:10) と記されているのは、この明らかな道理を示しているのです。

霊魂不滅といっても、霊魂は神を離れて独り・不滅であるというのではありません。神ご自身が霊であるがゆえに、神が人間に接近してその生命を賜わるときに、人間の霊魂にこれを注がれるというのです。霊魂は神が生命を授かれる際の容器です。霊魂は窮まりない生命の保有者ではありません。「もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるでだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。」(ヨハネによる福音書14:19) とキリスト・イエスは言われました。活けるキリスト・イエスに繋がれて私たちもまた生きることができるのです。

◉そうであるならば、神の最初の目的に叶い、死のない人間となって生きるためには、神がご自身に叛いて死を招き入れた人間のために備えていただいたイエスキリストを信じて、生命の源である神に再び帰るより他に途はありません。そしてキリストに在って神は人間に会い、ここに父と子の間で破れた平和は癒されて、生命の水は再び死んだ子どもに注がれ、子どもは復活して再び神の子として生きるに至るのです。

このように肉体の死は一度はその子に臨みますが、復活の希望が鮮やかにその子に与えられて、死は生命に入る門として恐怖なくここを通り過ぎることができるのです。

このようにして聖書は理由のない復活と永生を説いているのではありません。生命の源としての神に繋がれて、新たに生命を注がれて死に勝利して生に入ると説くのです。

『「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。』(コリント人への第一の手紙15:55-56)  これを読んで私たちは心静かに死に対峙し、勝利を叫んで墓を迎えることができるのです。

信仰によって再び永生を授かったにもかかわらず、死を免れることができないのは、罪のゆえに肉体は既に死んだからです。しかしながら生命は既に霊に臨み、肉の復興は既に始まったのです。あたかも秋の末に木の葉はあえなく地に落ちますが、復興の春には、それが木の芽に宿るのと同じです。キリスト教の目的は、死そのものを無きものとするところにあります。十月十七日

(「聖書の語る死」/終わり)

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[Ⅱ111]  『聖書の語る死』(4)  

2022-01-18 18:39:47 | 生涯教育

 

◉そして聖書が、そうです聖書のみが人間の死の逆説(パラドックス)を説明できるのです。

詩人テニソン(既出)は、聖書のこの教えを詩にしています。「私は知ります。私は死ぬために造られたのではないことを。」と。

ここで神の目的に叶う人間の完全なる生涯とは何かについて考える必要があります。もしアダムとイブが神の戒めに背くことがなかったならば、一体どうなっただろうかという問題が起こります。そして聖書が示すところによれば、その場合には彼らは死を経験することなく限りなき生命に入ったであろうというのです。そのことは彼らが肉体を有したまま永久にエデンの園に住んだということではありません。死に伴う恐ろしい苦痛を経ることなく霊的生涯に入ったであろうということです。

そして神はこのような生涯というものは、どのようなものであるかをエノクの生涯で示されました。創世記五章二十四節に次のようにあります。「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」と。

ここに死を経過しないで地上の生命を終えた生涯の実例が示されたのです。火の車に乗って天に昇ったという預言者エリヤの生涯もまた、おおよそこのようなものだったろうと思います。

すなわち罪が死を持ち来ったのであって、罪がなければ人間の死はなかったのだということです。神が罪を犯した後のアダムとイブとに言われた言葉がこの事を説明しています。

『つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。』(創世記3:16-19)

ここに人間が死に定められた理由が明らかに示されます。そしてこれは怪しげな作り話ではなく、真正の事実なのです。人間は獣とは違って死ぬために造られたものではありません。エノクのように神と共に歩いて、死を味わうことなく地からいなくなって天に移されるように造られたのです。

ところがこのように貴い運命を与えられたにもかかわらず、神を離れ、その神の命令(注:原文は「誡命(かいめい)」) に背くならば、彼は獣と運命を共にする者となり、獣同様に死に至るのだと聖書は明らかにしています。それゆえに死は人間にとって不自然であり、耐えがたい苦痛であり、癒しがたい悲嘆であると聖書は言うのです。

◉以上のように人間の死を解釈することで、死の意味とこれに伴う苦悩の理由が理解できます。それは若い人が死ぬような年齢に達してもいないのに死ぬようなもので、その苦悩は一種特別のものがあります。ここで死というものを解釈するにあたって、死を招来する罪の何たるかを理解する必要があります。

アダムにとっては、神の命令に背いたことが死に定められた直接の原因でした。しかしながら神の命令に背く前に、彼は既に神を疑い神を離れたのでした。アダムがサタンの言に耳を傾けて神を疑い始めたときに、罪は生まれ(注:原文は「萌(きざ)し」)、死が始まったのです。すなわち罪は他でもない神に背くことであり、死は他でもない生命の源である神より離れることなのです。人間は死ぬためには造られませんでしたが、神を離れて独りで生きていくようには造られなかったのです。

人間が永久に生きるためには、人間は神と共に在らねばならないのです。その意味では人間は独立した動物ではなく、依存的動物と言えます。人間は実は神を離れては寸刻も生存できないのです。その人間が神に対して独立を宣言したのです。それが人間の堕落の始まりであり、罪の源でした。

人間は罪のゆえに死に定められたと言うよりも、むしろ生命の源なる神を離れたがゆえに、死は当然の結果として人間に臨んだというのが真理でしょう。すなわち罪は死の兆候に過ぎないのであって、人間が神を離れた時に死が始まり、その兆候として罪が現れたのです。

このようにして人間の生命と死と罪との関係が明らかになり、死を無きものとする途がどこにあるのかを知ることができるのです。

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[Ⅱ110]  『聖書の語る死』(3)  

2022-01-13 12:40:52 | 生涯教育

   

◇◇◇◇◇◇◇

「死に関する聖書の教示」

昭和3年11月10日『聖書之研究』340号   

署名 内村鑑三

《創世記三章、詩篇第十六篇等》

◉私は最近しばしば知人や友人の死に遭遇しますので、またまた「死」について深く考えさせられます。

◉平清盛は死に臨んで次のように語ったそうです。「生者必ず死あり、我れ独り死なからざらんや(注:私だけが死なないということはない)」と。本当にそうなのでしょうか。その通りだと全ての人は言います。大方のキリスト信者も言います。聖書にもそのように書いてある所があります。「伝道の書」第三章に次のようにあります。

「人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。」(3:19-21)

すなわち「だれも知らない」、「知る者はいない」との意味です。すなわち死については、人と獣と何ら異なるところはない、同じように生まれて同じように死ぬということです。そして生物学は明らかにこの事を示し、常識のある人は誰もこの事を疑う者はありません。

◉ところが不思議な事には、聖書は(この箇所のような)僅かの箇所を除いて、全体としてはこれとは反対の事を教えています。そしてこれらの箇所と言えども、後にそれが誤りであることを記してあります。

聖書が死について教える所は明らかです。すなわち”死は獣にとっては自然であるとは言え、人間にとってはそうではありません。獣は死ぬように造られたのですが、人間は死なないように造られたのです”。

人間にとっては死は災禍です。刑罰です。「罪の価(あたい)は死である」とされて、人間は罪のゆえに死を余儀なくされたのだと、聖書はこれを明らかにしています。すなわち聖書は死を罪のゆえに人間に加えられた呪詛(のろい)として見るのです。それゆえに死は忌むべきもの、恐るべきもの、いかにして取り除くべきかを教えています。すなわち死は始祖アダムとエバの罪をもって人類に臨み、人類は始祖の罪を繰り返して、同じく死刑に処せられつつあると教えています。

実に驚くべき教えであり、聖書を除いて他にこのように明瞭に大胆にこの事を教える者はありません。そして一見してまことに不合理な教えのように見えますが、しかし人生の深い実験に照らし合わせてみて、人間がいい加減にして放っておくことはできない教えであることを知ります。

◉実を言うと、死に関する人間の考え方のように不思議なものはありません。死は最も普通のものであるにもかかわらず、人間ははなはだしく死を恐れます。

近親者や知人の死の知らせを聞いて驚嘆します。これはどうしてなのでしょうか。私たちは朝に太陽が出て夕べには沈むことに少しも驚きませんが、人間が生まれ死ぬことを見て、何か在ってはならないものが在ったかのように驚くのです。

これは実に不思議なことです。人間はなぜ死の恐怖を放り投げることができないのか。なぜ人間の存在が消滅する死を哀しむのか。人生でこれほど不思議なことはありません。人生には矛盾が多いと言いますが、死に関する人間の考え方こそ最大の矛盾です。この大いなる矛盾をどのように説明したらいいのでしょうか。

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