宗教思想家で音楽家の竹下節子さん(フランス在住)のブログを私はいつも読んでいる。ある日の投稿が目に止まった(230623)。ベルギーでの安楽死の事例だ。その一部を紹介させていただく。
『「自殺幇助の先進国」のベルギーの例で、3人の子供を持つ49歳の男性が、事故で手足の機能をすべて失ったことを知った後、48時間後には「自殺」幇助を受けたというのがあるそうだ。はやい。素人目にもはやすぎる。もちろん今まで健康だった人が意識不明状態から目覚めて突然、両手両足を失くしたのと同じ状態を知って、これでは生きている意味もないし家族のためにもならないなどと考えることは、想像はできる。
でも、同じ状態でもいろいろな過程を経て、新しい生き方や命の意味を自分も見つけて、周りの人にも伝えていく人の例も事欠かない。試練や希望について、体の不自由さや痛みなどを超えたところで、新しいアプローチをするのは容易ではないけれど、それができることがある、ということ自体が、希望のメッセージでもある。
痛みや自由さや先の見通しのなさなどに負けて鬱状態で自殺する人がいるのは事実だし、それに対して第三者が意見するのは解決にならない。‥
ゴマス医師(フランスの緩和ケア医師)は、死生観について自問すること、即答を求めないで自問し続けることを受け入れる必要があるという。”すぐに自殺を選択してそれにすぐに応える制度があるというのは、「死」への誘惑であり、死ぬまでにどう生きるか、とは別の問題だ。”
ゴマス医師は、延命医療によって極端に縛られている場合でなければ、死を前にして、いつ「生きるのをやめる」のかを自分で決めることができることを見てきたという。
会いたかった家族に別れを告げて、最後の家族が病室を去った直後にろうそくの灯が消えるように亡くなるケースはよくあるという。‥
「死に方」ではなくて、「死ぬまでの生き方」を選択できることの方を支援すべき時代なのかもしれない。』
いつも感心するが竹下さんの文章やバランス感覚は卓越している。ある人が自死を願った時これを医師ら専門家が助けることができる法律があるのはジレンマだ、当の本人にとっては幸いかもしれないが、わが身にふりかかった同様の災忌を乗り越えて生きて生の喜びを共に味わう人たちもいるからだ、でもこうした事柄に対して今健常者として生活している人たちの言葉はどうしても軽くなってしまうのはやむを得ない、一人ひとりの実存に関わることなので‥竹下さんらの指摘は言い方を変えればこのように言えるだろう。
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“安楽死先進国”オランダは2002年4月、治癒の可能性がない病に苦しむ患者に医師が致死量の薬物を投与する「積極的安楽死」を世界で初めて認めた国だ。自殺ほう助も合法とされており、患者は自発的な意思で命を絶つ場合支援を受けられるようになった。但し患者が「改善の見込みがない耐え難い苦痛」を抱え、「自発的に熟慮し、完全に確信して」死を望んでいることが条件付けられている。
オランダでは政府統計によると、2022年に「安楽死」を選んだ人は約8700人で、大半は末期がん患者だったという。「安楽死」を選ぶ人が多いか少ないかに私は関心がない。オランダでは「安楽死」に関する社会的議論が公の場で長期にわたって尽されてきた。そして法律が整備された社会の中で、心身の苦しみを伴う一人ひとりの患者が、それぞれ自分の意思で現世に”さらば”と言って人生の決裁をしている人が日々確実に存在する。そしてその意思を尊び苦しみのない死へのプロセスを誠実に援助している医師たちがいる。法律が彼らのすぐそばに手の届く所に坐しており何時でもアクセスできるという安心感が彼らを守っている‥数多の問題もあるにせよオランダという国はそんな環境の整った国なのだろう。
私はこう書いたが、オランダ同様”安楽死先進国”ベルギーの実情に詳しい人によれば、必ずしも理想的に物事が進んでいるわけでもないこともわかる。「この本で著者らが語るベルギーの医療現場の実態は恐ろしい。安楽死が緩和ケアとしてのルーティン的医療サービスと化した現場では、患者の「死にたい」という言葉は即座に額面通りに受け止められ、医療職はその「意志決定」を「誤った義務感」から実行する。「患者が安楽死を希望するなら、すぐに申請機関に紹介しますよ。それが私の責務ですからね」「安楽死は法律で容認されているんだから私に拒む理由はないでしょう?患者には寛容でなければ」と平然と言う医師らは、著者のひとりの表現を借りればまるで「道具と化している」かのようだ。」(児玉真美、ダイヤモンドオンライン、240315) 私はハタと立ち止まってしまう。人間の生に纏綿する死の桎梏も軽くひょいと超えることを容易にしてしまう法律とは何者なのだろうか。法律は制定されればそれで終わりというものではない。
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2022年初冬神奈川県で79歳の妻を海に突き落とし殺害した罪に問われている81歳の夫が、初公判で起訴内容を認めたという報道があった。彼が”殺した”のは、40年前に脳梗塞で倒れて身体が不自由であった妻、40年間も彼は妻の介護に懸命だった。昨年2023年春には、障がいをもつ寝たきりの妻と話し合って「天国でまた夫婦になろう」と妻の首を締めて殺した老人が逮捕された。この二つの事例では、共に夫は”殺人”犯罪者として逮捕されて刑事被告人となるしかないのが哀れで悲しい。
「律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。」(マタイによる福音書23)のが日本の現実である。