鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅷ313] 世の変革者(13) / 人をつくれよ、と

2024-09-27 10:46:55 | 生涯教育

2023年10月28日、パレスチナ自治区ガザを2007年以来実効支配してきたイスラム過激テロ組織「ハマス」がイスラエル領に侵入し、奇襲テロを実行した直後、イスラエルのネタニヤフ首相は「アマレクが私たちに何をしたかを覚えなさい」と述べたという。アマレク人とは古代パレスチナの民を指す。BC15世紀モーセとイスラエルの民がエジプトから出てきた時、アマレク人はイスラエルの民を攻め撃った。これを理由に聖書記録では「あなたはアマレクの名を天の下から消し去らなければならない。」(申命記25:19)と記されている。ネタニヤフ首相はこの記録をガザ地区侵攻の根拠にあげる。しかしアマレク人は古代パレスチナの民だがとっくの昔に血族としては絶えている。こんなことが21世紀の今日日あっていいのだろうか。

ネタニヤフ首相の背後には岩盤のユダヤ教信者とラビたちがいる。彼らはエルサレムのモスクを爆破してユダヤ神殿を再建しパレスチナ人を追放するか皆殺しにし、来るべきハルマゲドン(※黙示録16:16)で勝利することを望んでいる。これは私には狂信と思える。(240821)

ここまで記して鑑三翁が明治35年1月に『万朝報』に掲載した「困った国」の記事を思い出した。鑑三翁はこの記事の主題をつけるのに困惑しているような表情が浮かぶ。鑑三翁41歳の時の記事だ。全文を現代語訳した(全集10、p.9)。

【〇正義を唱える者は居る。しかし正義を行う者はいない。今やこの日本で正義を行う者がいたら、彼は逆臣とか国賊とか言われて終いには殺されてしまう。かつての東洋の君子国は、今や正義も行われないような国になった。 〇不義で成り立ち、不義が持続しているこの政府と社会は正義の大敵だ。もし正義を実行しようと望むのであれば、この政府と社会は斃さざるを得ない。しかしこれは「忠君愛国」の主義に反することであって、今の日本人はあえて行おうとはしない。正義を圧殺しても「忠臣」たろうとし「義士」たろうとするのが今の日本人だ。故に日本国家の改善は今の日本人には望むべくもない。 

〇社会問題の解決はたやすい。即ちその法律的/倫理学的解釈は至ってたやすい。しかしながらその実行ということになると極めて困難だ(※原文は「難中の難」)。法も道も人によって行われるものである(注:ここで言う「法」は掟とか定めと考え、「道」はモラルや信仰上の教え、と考えたらいいと思う)。これを実行する人間がいなければ、法を正し明らかにすること(※原文は「明法」)、人として守るべきこと(※原文は「明倫」)は無いも同然だ。日本の法律は立派である、その道徳も立派である。しかしながら日本の裁判官は、学者は、教育家は、宗教家はどうだろうか、立派と言えるだろうか。 

〇人をつくろうではないか(※原文は「人を作らんかな」)、人をつくろうではないか。人をつくって、その後に社会を改良しようではないか。これが私の唯一の社会改良の方法である。この事をさしおいて社会問題をあれこれ言う者(※原文は「喋々する者」これらは)たちは、兵隊を鍛錬せずに軍隊を語るような者たちだ。炭を燃やさないで汽車を走らせようと願う者たちだ。これらは不可能というものだ。それ故に他の者たちが社会問題に熱中している間に、私はキリスト教坊主(※原文は「耶蘇坊主」)となり、理想団団員(注:鑑三翁は1901〈明治34〉年「万朝報」社員であった黒岩涙香や幸徳秋水らとともに「理想団」を結成した。この団体は社会改良を通して正義の実現をめざし特に労働問題や女性問題に取り組んだ)として新人をつくりたいと願っている。】

鑑三翁がこのように記してから120年余も経過した令和の今でも、日本は「困った国」である。世界に冠たる優れた日本国憲法は立派で、宗教聖典でもなく完全無欠ではないが、制定以来75年間平和主義/国民主権/基本的人権の理念に立ち風雪に耐え立派に機能してきた百戦錬磨の尊い憲法だ。日本古来の仏教を下地とした伝統的な道徳も立派だ。日本の国民皆保険制度も世界に誇るべき優れた制度として、戦後の荒廃から立ち直りつつあった日本の市民国民の健康を守る砦として機能してきた。日本人の健康と長寿がこの制度によって維持されてきたことは誰もが認めるところだ。しかし高齢社会を迎えてこの制度も徐々に改変を加えていく必要性もある。

ところがこの国民皆保険制度を根幹から変更して、事もあろうに国民皆保険さえ達成できていないアメリカの利益最優先の民間保険事業者を制度に参入させようとしている政治家がいる。そしてマイナカードと健康保険証を統合して健康情報の一元化を図り、便宜さと低コストを優先させた無思想なドラスティックな医療制度の改変をリードさせようとしている。このような”アメリカ教信者”が政権政党国会議員の中に数多居る。汚い言葉だがまさに無思想な「売国の輩」だが、恐ろしいことに彼らに金魚糞のように連なる党派もある。彼らは安直で無思想な経済的生産性の視点からの「安楽死」「優生政策」の法制化を急ごうとしている。そして高額医療の制限を声高に叫び、国民を富める者と持たざる者とに分断した医療政策を掲げて、日本の市民国民を欺こうとしている。同時に彼らは闇雲で身勝手な論理と圧政的強権的な動機で崇高な「日本国憲法」を破壊しようとしている。その魂胆はアメリカ合衆国を構造的に動かしている宿痾「軍産国家」の如く、日本社会に構造的に巣食い始めた邪悪に満ちたものだ。

日本の政治経済社会は今日日歴史的変換点に置かれている事は衆目の一致する所である。だがこのような重要な局面にあって、亡国日本の政治家は、行政官は、裁判官は、学者は、大企業経済人・経済団体の長は、大企業正規社員のために存在する労働団体の長は、教育家は、メディアマスコミ人、宗教家はどこを向きながら変革を成し遂げようとしているのだろうか。彼らは自らの目先の"我欲"しか考えていない。全てをゼニカネ最優先の価値観で動かそうとしている。

「人をつくろうではないか、人をつくろうではないか。人をつくって、その後に社会を改良しようではないか。これが私の唯一の社会改良の方法である。」この鑑三翁のメッセージは、今でこそ耳を傾ける必要があるのではないかと私は思う。

(「世の変革者」終わり)

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[Ⅷ312] 世の変革者(12) / 亡国に民ありて

2024-09-26 19:43:27 | 生涯教育

2022年2月24日にプーチンロシアがウクライナの首都キーウをはじめとする主要都市に侵略を始めてから2年6か月、ウクライナ軍はロシア西部クルスク州で越境攻撃を開始して数週間が経過した。ゼレンスキー大統領は掌握地域を拡大していると強調した。その上でロシア領内への攻撃に欧米が供与した射程が長い兵器を使うことを認めるよう訴えた。

一方ウクライナ東部ドネツク州ではロシア軍が攻勢を強め要衝に迫っているが、この折にプーチン大統領は「核」をちらつかせ始めた。だがこれを使えばロシアという国家が消滅することはプーチンも知っている。核をちらつかせて恫喝し扇動するプーチンを一人のCIA幹部は”チンピラ(bully)”と呼び精一杯の蔑称で牽制した。

他方トルコのエルドアン大統領は2024年9月13日、クリミア半島はウクライナに返還すべきであり、それが欧州の常識であると公式の場で述べた。プーチン大統領は盟友と信じていたエルドアンの発言に驚愕し、それは容認できないと返答した。両の手を血だらけにしてクリミアを分捕った侵略者なのに、ICCから逮捕状が発出されているプーチンは恥知らずで邪悪である。

私はこの連載で「[Ⅳ229] 日本人とか日本社会とか(9) / 精神滅びて亡国の民なり」と題して鑑三翁の日本人観を記した(230330)。鑑三翁の論考の要旨は次のようなものである(現代語訳を抜粋した)。

【国民の精神が失せた時にその国は既に滅びたのである。 国民に相愛の心がなく、人々が互いに猜疑心を持ち、同胞の成功を見ると(妬みの故に)怒り、その失敗と堕落とを聞いて喜び、自分一人だけの幸福を考えて他人の安否を慮ることなく、金持ちは貧しい者たちを救おうとはせず、官僚と企業は相結託して富を寡占して無辜の民、農業や職人等から税を搾り取るようになった。その国の憲法がいかに立派でも、その軍備がいかに完全であり、大臣職の者がいかに賢い人たちであっても、その教育はいかに高尚でも、このような国の民は既に亡国の民であり、辛うじて国家の形骸を残しているだけである。】

まるで令和の今日の日本の政治/経済/社会生活の有り様を前にして、鑑三翁が私の目の前でそれを歎じて記しているかのようだ。人々の間でお互いに謙虚さをもち敬意を払いながら社会を生きるという通念は、まさにこの令和の時代に破綻している。誰あろう国を運営する自民党政府も邪教政党と野合を組み、この国の道徳的/倫理的観念を自らが率先して破壊している。聖書の言葉を借りるならば「もし治める者が偽りの言葉に聞くならば、その役人らはみな悪くなる。」(箴言29:12)という世界が私の眼前に広がる。

自民党の国会議員が率先して法律違反の裏金作りに勤しみ、邪教A及びBと手を組んで選挙協力させて野合政権となし政界の利権を都合よく引き込み日本の政治を動かしている。検察機関の女性幹部は政権政党の法令違反を見逃すことで自民党政府から論功行賞の検事総長のポストを手に入れた。大手不動産業/大手ゼネコン/大手商社/大手広告代理店を強引に重用し、大企業優遇税制を実行し、中間層以下を切り捨て、富者と貧困層の二極分化でこの国を統治しようとしている。この有り様について私はこんな投稿をXにしたことがある。「資本家や企業を金満にすればゼニはそこから滴り落ちてくる‥という古典的trikle -down学説に酔い、小泉安倍竹中らは政策に取り込み、大企業優遇税制・法人税減免を行い、他方で消費増税を実行した。その結果日本はどうなったか‥ゼニは内部留保と配当に回り成金/金満家が急増した。ゼニは市民国民中小零細企業には滴り落ちず、非正規雇用/賞与非対象者は激増し、貯蓄が0円という二人以上世帯の割合は22.0%、単身世帯では33.2%(2021年統計)という悲惨な現実をもたらし貧困世帯は激増した」これが今日日我々日本人の生活の実像である。

検察機関や司法が国の権力に隷従している。したがって「悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために、人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている。」(伝道の書8:11) このような政治経済司法界の道徳的破綻が子どもを含めた社会の構成員の道徳的破綻に大きく影響を及ぼしている‥これが現今令和の日本の政治/経済/社会の虚飾を剥いだ裸の姿である。

「このような国の民は既に亡国の民であり、辛うじて国家の形骸を残しているだけである」と鑑三翁が今私の目の前で嘆息している。考えてみれば今から二千数百年も前の預言者たちが異口同音に鑑三翁と同様の事を歎じていたわけで、誠に人間の政治経済社会というものは厄介極まりないものではある。困ったものだ。

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[Ⅷ311] 世の変革者(11) / 欲心に満ちた民よ

2024-09-19 17:18:27 | 生涯教育

2024年初秋、自民党総裁選挙報道で突如としてメディアジャックが起きた。自民党から各メディアトップに話が通じこの国のメディアはこれで「死に体」となっていることが判明した。戦前の国威発揚大政翼賛報道/独裁国家の報道管制と同質である。政権批判の立場を崩さない日刊紙もあるが、ここまであからさまに他のTV大新聞がメディアジャックされると記事として扱わざるを得ない。その紙面は股裂きにあっているようで苦しい紙面作りが透けて見える。私は今の自民党政権を支持していない。サル山のボスを誰にするか‥自民党の長老が仕掛けた腑抜け候補者やその当て馬、その当て馬の当て馬が手を挙げて、味噌も糞も同じ壺に混ぜられて異臭を放つ。ボス争いの裏取引はかつての花街料亭でも繰り広げられ賭場の騒乱は目も当てられぬ有り様。政治資金規正法違反の犯罪を犯した安倍派等議員が数十名、政権に飼いならされた検察により不起訴と相成った。勢いづいた総裁選候補者たちは、サル山のボスの座を狙い血走った目でオレがオレがの記者会見。TVを見てみた。どのチャンネルに合わせても「自民党総裁選‥」一色である。大相撲でもあるまいし投票権もなき一般市民国民むけに地方興行をしてTV中継の愚。中味なき空無丸出しの地方興行に何の意味ありや。大手広告代理店と自民党が仕組んだ戦略である。日本の政治の将来に対する知恵は働かぬのに斯様な悪知恵だけは働く。このようにして総裁選までの長期間情報が洗濯されると、自民党の汚点はきれいさっぱり洗濯されて禊を済ませることができる‥愚民は裏金も統一教会も忘れる‥という具合だ。総裁選候補者たちは日本の未来社会を安っぽい小説のように語って恥じない。一体この国はどこへ向かっているのだろうか。

鑑三翁37歳当時(1898、明治31年)の日本の政府を構成していたのは薩摩長州の出身者であり、その役人たちは無能なくせに官職を独占して淫欲にふけっている。薩長政府の横暴と非道徳は社会の腐敗を許し、富国強兵を国是となして軍需産業界との裏取引で蓄財をなしている。国民の福利の為に働こうとする者は見当たらず、社会的に弱い者は放置されたままだ。このような薩長政府を存続させておいて良いものだろうか。こんな政府ならば壊れたほうがいい、このような国家は徹底的に破壊した方がいい。自分に対して「君は破壊ばかりを言うが、たまには建設する事を言うべきだ」と命じる者がいるが、このような腐敗した国にあってはそれは欺瞞でしかない。破壊の後に神は然るべく創造してくれると信ずる‥‥これが若き内村鑑三の本心であった。その背景にはゆるぎなきキリスト・イエスへの信仰が確立していた。

鑑三翁は自由であった。このような大胆な言論の背景に「聖書」の言葉(logos)があったのは言うまでもない。「神は破壊し後に建てる」例は聖書に数多存在する。鑑三翁がこの一文でこれに触れなかったのは、鑑三翁を攻撃する者たちが聴く耳を持たない者たちであることを十分に知悉していたからだ。「愚かな者の耳に語ってはならない。彼はあなたの言葉が示す知恵をいやしめるからだ。」(箴言23:9) とあるではないか。

このように国の破壊を期す鑑三翁には以下のような聖書に記録された歴史が胸を去来していたに違いない。‥‥モーセと共にエジプトを脱出しようやくたどり着いたユダヤの民の都エルサレムは、その後ダビデが宮殿の建設を始め子ソロモンが宮殿を完成させた。しかしながら神の預言通り、ソロモンの死後南王国ユダと北王国イスラエルとに分裂し、子孫の王たちは主への信仰に従わず異教徒のバアル神に仕え、子を生贄として捧げるなどした王までおり、神の怒りがイスラエルに臨んだ。ソロモンが完成させた神殿はBC586年バビロン帝国のネブカデネザル王によって跡形もなく破壊され、神殿の備品や器具はバビロンに運ばれ、 そしてユダの人々や預言者や王はバビロンに捕え移されて行った(列王記下25:7~21)。 そして神殿が破壊されてから70年ほど経ったとき、神はペルシャ王クロスにエルサレムの神殿を再建することを命じた。ユダとイスラエルの民は捕囚の身から解放されて故郷に帰還する事ができた。

聖書記者が記録した史実は、神に背いたがゆえに神の怒りに触れ国家が破壊され民は捕囚となって異国に移されたが、民の悔改めの故をもって神は怒りを解き国家再建を許したことを示している。

モーセがエジプトを出て新たなカナンの地を目ざして進んでいる途上には、砂漠と荒地ゆえ水が不足し食料も乏しい日々が続き、民は災難にあっている人のように神に文句を言い続けた。エジプトに帰った方がいいとも声をあげた。

「主は民にむかって怒りを発し、主は非常に激しい疫病をもって民を撃たれた。これによって、その所の名はキブロテ・ハッタワと呼ばれた。欲心を起こした民を、そこに埋めたからである。」(民数記11:33)

神のこのような恐怖の破壊の例も聖書には記されている。この場合の神が恵みとした建設とは、神が約束した豊かな地イスラエルへ民を導き到着させたことである。

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[Ⅷ310] 世の変革者(10) / 義のために憤る           

2024-09-12 11:22:16 | 生涯教育

【人間で建設を好まない者はいない。誰でも苦さよりも甘さ(※原文「甘露」)を求めるものだ。特に日本人のごときは苦味や苦言を嫌うことは私もよく知るところだ。だから建設的な意見だと称して、実は虚言を供する者は喜んで歓迎される。一方真情を吐露する者は破壊の言だとして嫌われるのだ。これは日本(※原文「君子国」)の特徴である。だから見てください、わが国今日の社会に「建設者」がはなはだ多いことを。どこの政党も、どこの学派も、みんな処女のごとき声を発して、国家の秩序を整え治めるのだ(※原文「経綸」)と称して甘い水(※原文「甘露水」)を売っている。

このようにして甘い水の好きな蟻のような連中は、競ってこれに集まるのである。南陽の菊水を汲んで延命しようと願ったように(注:「菊水」とは、中国河南省南部を流れる白河の支流の川の崖上にある菊の露がしたたり落ち、これを飲んだ者は皆長生きしたといういわれる。『太平記』〈注:南北朝時代を背景にした軍記物語。室町時代に成立したとされる。全40巻〉に出てくるという。未確認。)、今日この甘露水を飲んで、勅使により参事官となり、あるいは大臣にまでよじ登る者も多い。しかしながらこの甘露水には菊水のような薬効の元素がないためか、これを汲んで政治的に社交的に両方ともだめになって生涯を終えた者のなんと多いことか。したがって甘い水によって国家の秩序を整え治めようとする事は、国家建設の道理ではないことを知るべきだ。

私は無知な者であるが、甘言によって国家を滅ぼした例は知っているが、苦言をもって国家を破壊した例を知らない。苦言というものは役立たないものでもない。私は敢えて問いたい。世の中に建設者なる者は実在するのだろうか。人間が為し得ることは、邪(よこしま)なものを排除し正しいものを迎えるという消極的で受動的な事柄に止まるものにすぎないのではないだろうか。私は草の葉一枚を作る能力はなく、ただ実のなるのを待つにすぎない人間ではないか。(だから)国家を建設しようと声を大にして言う者(※原文「揚言」)は、私は最も高慢な人間だと思う。なぜならば彼は「私は神である」と吹聴するようなものだからだ。

したがってクロムウェル(注:Oliver Cromwell〈1599-1658〉、イギリスのピューリタン革命〈1642-49〉の指導者。下院議員として議会派に加わり教会の独立と共和政を主張する独立派を率いて革命を達成した。王政を廃止し共和政を実現した。)にしても、ワシントン(注:George Washington〈1732-99〉、アメリカ独立戦争の指導者。1787年に憲法制定会議議長となり、混迷する各派をまとめあげアメリカ合衆国憲法の成立にこぎつけた。憲法の規定に従って最初の大統領選挙が行われた1789年初代アメリカ合衆国大統領に就任した。)にしても、壊すものを壊してその後に、それが天の命であることを心にとどめて忘れず(※原文「服膺〈ふくよう〉」)、《天》の建設した恩恵に浴しているだけなのだ。

このような謙遜の心がなくして、国家を建設しようとした者で一人として成功した者はいない。(だから)私のできることは破壊だけである。《天に祈りつつ従事する破壊だけである。私は涙を呑んで斧鉞(ふえつ、おの/まさかり)をふるいたいと願う》。(注:「斧鉞をふるう」とは「悪を征伐する」ような意味か)

私は「義」のためには憤りたいと願う。その結果は・・これは天の司るところであり私が関与するところではない。これらの要諦は心の裡に「愛心」を蓄えることである。そしてこれを何時発表し決行するかといった方法については大した問題ではない。(以下略)】

国家の政体とは何だろう、国家運営の任にあたる政府の存在理由とは何だろう、愛国とは何だろう、国と民の為に働こうとする者は排除されるという非情‥37歳の鑑三翁には様々な葛藤や憤りが渦巻いていた。

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[Ⅷ309] 世の変革者(9) / 国家建設という浮薄を笑え

2024-09-05 20:04:17 | 生涯教育

鑑三翁は上記の「反駁」とは別に、鑑三翁の主宰する「東京独立雑誌」に読者向けに「破壊と建設」を執筆している。井上との論争からしばらく経過した時点で執筆されたもので、鑑三翁の義憤のような感情を表して秀逸の一文だ。要点を要約した(「東京独立雑誌」14号、明治31〈1898〉年11月25日)  (全集6、p.219)。

【親切なる(※原文は「深切なる」)哲学者某(注:東京帝国大学哲学教授井上哲次郎のこと)という者がいた。彼が私に向かって年寄りが注意するかのように言った。「君の行為は全て破壊的なものだよ、どうして破壊を少しでも止めて建設的にならないのかね」と。私は彼に次のように答えた。‥ああそうですか。でも私のようなか弱い者の打撃で破壊されるようなものは、私がやる前に破壊されていますよ。そのようなものに対する私の打撃は破壊される直前のものを破壊するにすぎません。私は破壊のための破壊を好んでいるとでも言うのですか。あなたはこの破壊は建設のためのまず第一次の手段であることを見るでしょう。儒教とキリスト教が合体した上に建てられた同志社を見てください注1)

既に滅びた藩閥の子孫(※原文は「余孼(よげつ)」)を掃討することさえできない薩長政党内閣を見てみなさい。国家の目的とする所を見失っているだけではなく、彼らの存在さえ失っているではないですか。棘の多いいばら(※原文は「荊棘〈けいきょく〉」)などの雑木を焼き払わないまま種をまく農夫は愚かである。建物の基礎を地下深く石盤まで掘り下げる建築家は愚かである。私は貴殿にあえて問いたい‥このような偽善、虚飾、浮薄、砂のごとき社会の地盤の上に強固な国家を建設しようとなさるのですか、と。私はこのような無駄な仕事に従事することを望みません。ゆえに今日のところはもっぱら破壊の荒っぽい仕事に従事するだけです。

もちろん世間には面白半分に破壊する者もいる。だから私もあまりに真面目に過ぎて、憤慨に耐えられずに私が破裂してしまうことを怖れて、時には社会の戯れ事を笑うような笑い声をあげざるを得ない。しかしながら表面を取り繕う笑顔の裏で胸に熱い涙をこらえる時もある。憤怒の時には大笑い(※原文「哄笑」)することもあるが、雷電によってもたらされた恵みの雨のようなもので、殴り殺そうと思っても時には笑い殺してしまえと考えを変えることもある。‥真の怒りは真の愛が転化したものだ。私は浮わついた人間(※原文「浮虚の人」)を蛇蝎(だかつ)のごとく憎む。しかしながら人間は人間であって蛇蝎ではない。彼がそうとは気づかなくとも彼に神の明り(※原文「神明」)が宿ることもある。彼は私のきょうだいであって骨肉である。ゆえに私が彼を憎むのは愛のために憎むのである。そうだ、このように憎むのだ。このように私が言っても私は彼に媚びて彼の愛を買おうとするのではない。しかしながら私の悪口がますます激烈になっていくために、私の愛の心がますます深くなることを願っているのは事実だ。】

注1)  同志社大学は1875(明治8)年に「官許・同志社英学校」として新島襄によって設立された。儒教の「仁」や「礼」の概念は同志社の教育理念に影響を与えており、同志社大学のカリキュラムは、キリスト教の信仰と日本の伝統的な文化をバランスよく取り入れており、その中には儒教も入っていた。このことを鑑三翁が批難したとするならばやや偏狭とも私には思われる。

(この項つづく)

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