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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅳ235] 日本人とか日本社会とか(15) / 安っぽい”安楽死論”  

2023-04-27 21:13:10 | 生涯教育

人間の生死は自由な航海のようなものだ。停泊地は定まってはいない。にもかかわらず無理に停泊地を選択せよと強制するのが日本の「安楽死の法制化議論」だ。この議論は日本では数十年もの間極細に続いている。過去には臓器移植法議論の過程でもこの問題が出てきた。往時は国民の議論がかなり沸騰して健全な議論が展開されたと記憶している。

ところが最近大阪に根拠地を持つ維新なる政治集団の幹部が、発言の前後の事情は不詳なれども「安楽死法の制定を進めよう、皆が気づいていながら議論を進めないのはおかしいではないか、何なら私が議論をリードしたい」と言明し、彼の一部の取巻きと諂者、国会の議連の一部の者が「法制化」を急ぐべきだとこれに同調した。この大阪の団体幹部の言い分は一見もっともらしい。あたかも白馬の騎士のようだ。しかし事は「安楽死」の法制化の問題である。道路工事の問題ではない。

「安楽死」問題の議論は政治的利害、すなわち少子多死時代に国家財政に大きな負担となる高齢者の延命、いわゆる難治疾患及び高齢者医療に関わる高額医療費の国庫負担の増嵩、高齢者の激増に伴う医療費/介護費の国庫負担といった”経済財政視点”だけに強い重点が置かれて議論が進むおそれがある。「安楽死」問題は大阪の維新幹部の売名と功名狙いの痩せた頭脳だけで議論してはいけない。それはなぜか。

人間の人生には愉しみが限りなくあるし哀しみ苦しみも限りなくあるけれども、法律によってこれらがすべて規制され選択肢が決められるという人生は、限りなく詰まらない、と私は思う。物事には正邪を判定することが困難で不可能なこともある。法制化に馴染まない繊細極まりない生死の問題もある。繊細さはそのままにしておいた方がいい場合もある。法制化によって人間にとっての生死の繊細さが捨象されるため、問題が先鋭化され白黒に決着することを強制強要されることもある。なので「安楽死」の法制化がこの国で必要だとは私は全く考えない。それは人間の「自由の毀損」に傾斜するからである。今日日「安楽死法制化」を日本で叫ぶ者たちは、売名目的の酷薄で浮薄で愚かな人間たちが多い。生の終末を医療経済で決裁しようとする浅薄な愚者たちが多いと私は断定する。なぜならば「老者に早く死を」と声高に安楽死を叫んでいる者たちは、金持ち老人は除外しているからだ。難病に苦しむ患者/家族の声に真摯に耳を傾けようとしてはいないからだ。「安楽死法制化」議論で論功行賞を狡猾に狙っている政治集団の提起する浅薄でもっともらしい話を聞くと、私は日本人であることを恥ずかしいと感じる。

「安楽死問題」に疎遠であった者は、宮下洋一氏の渾身のルポ『安楽死を遂げるまで』(2017)『安楽死を遂げた日本人』(2019)などを読み、早川千絵監督/倍賞千恵子主演『PLAN 75』(2022)を観るなりしてほしい。そして胸に手を当てて「安楽死」にまつわる深遠な問題を考えてほしい。一人の人間が死に直面した時の恐怖、落胆、孤独、絶望、愛する者との別離への悲嘆と苦悩、愛する家族との感情の乖離‥このような事態に関して適切で愛にあふれた回答を出せるようになってから、愚者たちも「安楽死」に関して発言したらどうだろうか。”医療経済的な視点”からのみ「安楽死」を論ずることは、あまりにも幼稚で下劣で安っぽくて愚かである。

鑑三翁は「安楽死」問題には触れることはなかったのだが、私は「安楽死」法制化問題には熟慮が必要であると考えている。次回で鑑三翁の日本人論に耳を傾けながら考えてみたい。

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[Ⅳ234] 日本人とか日本社会とか(14) / 鑑三翁の気骨「不敬事件」  

2023-04-23 09:36:51 | 生涯教育

先述の君が代最高裁判決を読みながら、私は鑑三翁の不敬事件を思い起こしていた。鑑三翁は1891(明治24)年、当時勤務していた第一高等学校教育勅語奉読式典で、天皇真筆(のはずはないのだが)に奉拝(最敬礼)を為さなかった故に、同僚教師や生徒によって密告され批難された。この間マスコミは既に名の知られていた鑑三翁を指弾した論調を掲げ、自宅には汚物が撒かれ生徒が押しかけて暴言を続けるなどの暴力もあった。基督教会関係者も、ごく一部を除いて手のひらを返す如く鑑三翁と離反し政府寄りの主張を繰り返した。いずれも全ては明治政府及びこれに連なる”お上”への恭順を示す迎合だった。

こうしたこともあって鑑三翁の妻・かずは健康を崩し病いを得て同年死去した。この妻の死は、鑑三翁にとって人生最大ともいえる深刻な危機となった。このことは明治26年に発行された『基督信徒の慰』の中に「愛するものゝ失せし時」として記されており、「余は余の愛するものゝ失せしより数月間祈祷を廃したり」と信仰上の危機までもが表白されている。このことは私のこの連載で過去に扱っている(2021年5月5日「愛する者を喪ったとき」以後の記事など)。

後年、鑑三翁はこの不敬事件について次のように述懐している(明治42年10月)。鑑三翁48歳の時である。事件から18年の歳月が流れていた。現代語訳した。

【 私は第一高等学校の倫理講堂において、その頃に発布された「教育勅語」に向かって低頭し礼拝せよと、当時の校長代理の理学博士某に命じられた。しかしカーライル(注:Thomas Carlyle、1795-1881、イギリス〈大英帝国〉の歴史家・評論家。鑑三翁の愛読書『英雄崇拝論』などがある)、クロムウェル(注:Oliver  Cromwell、1599-1658、イギリスのピューリタン革命〈1642~49〉の指導者) とに魂を奪われていた当時の私は、どうしても私自身の良心がこの命令に服従することを許さなかった。私はこの二人の勧めによって断然この命令を拒んだ。その結果私の頭上に落ちてきた雷電とは‥国賊、不忠者と呼ばれ、それに続く恐喝と怒りの礫であった。その結果私に忠実に尽くしてくれた妻は病気となり死んだ。そしてそれから数年間、私の愛するこの国のどこにも枕する所さえ見つからなかった。私の身体の健康はそのために長い間損なわれてしまった。そして私の愛国心は大きく傷つけられてしまい、かつてのようにこの国を愛する事も出来なくなってしまった。‥しかしながら私は今に至って考えるに、当時の事を悲しんではいない。私は確かに信じている、私の神はその時に私に命じてトーマス・カーライルの『クロムウェル伝』を購入して読ませられたのである。もしこの伝記とこの伝記が私に起こさせたこの事件がなかったとしたら、私の生涯は平々凡々とした取るに足らないものであったことだろう。】(全集16、読書余禄(カーライル著「コロムウェル伝」、p.509)

たかが本であるが、されど一冊の本。たった一冊の本が人間の人生を大きく左右することがある。特に若い時代の一冊の本にそのことが言える。鑑三翁の場合『コロムウェル伝』の神髄が彼を打つことで、天皇真筆の奉拝といった今では愚にもつかぬ行為を強制されることへの反抗・反発となって表現されたのである。人間として誠実にして真摯、キリスト・イエスへの信仰を第一義とする鑑三翁の信仰と気骨、信仰深きが故の自由人の為せる真摯な行動だったのだろう。老年の鑑三翁であったなら、この不敬事件なるものは起こらなかったかもしれない‥老年になった鑑三翁はそのように記している。鑑三翁らしい。

私は鑑三翁のいわゆる不敬事件と今次の教員たちの君が代不起立事件とは同質の問題を孕むものと考えている。都立高校の教員たちの訴えは、最高裁では敗訴したとは言え、地裁・高裁では勝訴している。しかし私はそのような裁判所の判定などよりも、長年にわたる生活の苦難とも闘う結果となった教員たちの、「人間としての誠実、真摯、後世への最大遺物としての不起立を実践した」気骨に敬意を表している。鑑三翁は先述のように『後世への最大遺物』(岩波文庫)の中で、どんな人間でも後世に遺すことのできるものは「勇ましい高尚なる生涯である」と記している。私は彼ら教員たちの姿勢にこの言葉を重ねている。

私事、私は高等学校時代(1960-63)、一年生の時に社会科の教師であった小沢三郎先生から一冊の本をいただいた。『内村鑑三不敬事件』(小沢三郎:新教出版社、1961)である。小沢先生が授業の中で内村鑑三に触れた際、私が鑑三翁のことを何度も質問したことが契機となって、小沢先生からいただいた著書である。この本の読後感を求められて、数日後教員室で読後感を述べたことが記憶に残っている。私はそれまで小沢先生が内村鑑三翁やキリスト教思想のすぐれた研究者とは全く知らなかった。キリスト教の何たるかをも知らなかった。鑑三翁のことを、なぜ・どのような質問をしたのかも記憶は定かではない。最高裁判決を機に鑑三翁や小沢三郎先生など、様々のことを考えることになったことを感謝している。

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[Ⅳ233] 日本人とか日本社会とか(13) / ”愛国”を叫ぶ者たちの虚ろ

2023-04-19 08:37:11 | 生涯教育

新型コロナウイルス感染拡大中の20年3月、東京都立学校全ての卒業式で「君が代」が斉唱されていた。全国一斉休校となり飛沫感染を懸念する学校で、合唱歌や校歌も歌わず卒業証書を手渡す際にも生徒の名前を読み上げることもしない中で、何故「君が代」が歌われたのか。それは東京都教育委員会の指示によるものだった。誠に珍奇で居心地の悪い記憶として残っている。私はこの時に思い出した記事があった。

『卒業式などで「君が代」の斉唱時に起立しなかったため、再雇用を拒まれた東京都立高校の元教職員が、都に賠償を求めた訴訟の上告審判決が(2018年7月)19日、最高裁第一小法廷であった。一、二審判決は都に約5千万円の賠償を命じたが、山口厚裁判長は「都教委が裁量権を乱用したとはいえない」としてこれを破棄し、原告側の請求をすべて棄却した。君が代をめぐる訴訟で、最高裁は2011年に起立斉唱を命じた職務命令を合憲と判断。12年には職務命令に違反した教職員の懲戒処分で「戒告は裁量権の範囲内だが、減給・停職は慎重に考慮する必要がある」との基準を示した。』(朝日新聞デジタル20180720、記事要約)

この記事の扱いはさほど大きくはない。私もかつてはこの問題に強い関心を抱いていたが、時の経過とともに忘れかけていたので、あぁあの先生たちはまだ闘っていたのだとの感慨が先に立った。教員及び生徒の「君が代」斉唱に関しては長い歴史的な背景がある。

なぜ君が代を歌うか、なぜ日の丸国旗に敬礼跪拝するのか‥私もそうだが、多くの人たちは”皆がそうしているから””何となく””そうしない理由もないので”というのが本音である。ところが問題は、国や自治体が「脅迫観念に駆られて」このような行為を強制したり「愛国心」と結び付けたり、”お上にへつらって”その行為を為さなかった者を告発したり密告したりするので、事が迷走する。「愛国心」のように屁のような空気のような非実体のものを恰も実体の在るが如くに強弁し、踏み絵の如く迫る輩がいるのでかなわない。これらの輩は「愛国心」を唱えて”お上への恭順”を露わにして、指をくわえてお上からの論功行賞の誉め言葉を待っているから厄介な事になるわけだ。厄介なことをしやがって‥。

「愛国心」について鑑三翁は”愛国心は悪人の隠れ場所”だとして次のように記している。

【 彼らは我々には愛国心がないと言って攻撃してくる。しかしながら彼らは自分の利益のためには常に国家を利用し時には国家を欺(あざむ)くのだ。博士サ三ュエル・ジョンソン(Samuel Johnson、イギリスの詩人、文献学者、1709-1784。権威ある「英語辞典」を編纂〈1755〉) は「愛国を叫ぶ者は悪人の最後の隠れ場所である」と言っている。哲学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer、イギリスの哲学者、社会学者、倫理学者、1820-1903)  は「利己心を拡大した者これを愛国心と言う」と記している。彼らは我々に正直さを要求する。そして我々は喜んでその要求に応えようとする。しかしながら彼らは我々が彼らに対してのみ正直であることを望むが、彼らの相手に対しては正直ではない事を望む。‥彼らは正義を賞賛する、その他人に対して励行することを主張する。しかしその自分に対して正義を励行することを主張されると、お前たちは過激派だと絶叫してやまないのだ。彼らは他人に対しては厳格さを守れと言うが、自分に対しては寛大さを要求する。国家を利用し正義をも利用する彼らは、神を利用し仏をも利用する。彼らにとっては宗教もまた処世術の方便にすぎない。このようにして彼らと我々は根本的に異なるので、万事において衝突は免れないのだ。】(全集22、p.250)

S.ジョンソンの言もH.スペンサーの言といい、誠に私たちが生活している今でも生きている言葉である。愛国とは自身金を儲けて国益なりと世に風聴することなり、愛国とは悪人の最後の隠れ家とは、真実を突いている言葉だ。鑑三翁の個人的体験としても痛烈に彼らの言葉が響いたに違いない。今日日私は統一教会及び他の"宗教組織"としての新興宗教集団の偽善と暴力に満ちた活動を目の当たりにしている。彼らも強烈に"愛国"を叫び政権及び政権政党の走狗となっている。

誠に今日日でも「愛国」の旗を掲げてこれを喧伝している者たちは、出所不明なれども何処からか資金提供を受けて街頭で靖国神社前でスピーカーでがなり立てている者たちであり、国会議員でも1890年(明治23年)に発表された「教育勅語」の復活を叫び、第二次世界大戦前の教育の柱であった忠孝道徳教育を喧伝するグループがある。このような疑似”愛国”行為で権力に恭順を示すことによって、権力に纏わりつく”利得”(仕事と役職の獲得)を得ようとしている。先述のようにそもそも故安倍首相自身が明治150年に際して年頭所感で“明治の薩長政治"を礼賛し、あろうことか長州藩再興と大日本帝國憲法及び教育勅語の復活を喧伝していた。まさに鑑三翁の指摘する”自身金を儲けて国益なりと世に風聴すること”は、今も鑑三翁の生きた時代も変わらない。

また鑑三翁が「我国人の前に愛国心を語る必要はありません」と記すのは、日本人には気色鮮明にせずとも、日本国家や国土に対する”一体的な感覚”が醸成されているので、あえて愛国だ愛国だと声を大きくして喧伝する必要がない‥ということだ。西欧の国々や中国では、歴史的に幾つもの異民族及び国家との戦争があり戦争の度ごとに国が割譲されてきた。そのような国々の国民の意識と日本人とでは、国家に関する考え方が自ずから異なるところがある‥鑑三翁はそのように考えていたのだろう。

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[Ⅳ232] 日本人とか日本社会とか(12) / 畸形の司法社会

2023-04-14 08:22:36 | 生涯教育

ロシアがルハンスク及びドネツクにおいてジェノサイド行為が発生しているとの「虚偽」の主張を行いウクライナに対する軍事行動を行っているとして、2023年2月26日ウクライナ政府はロシアをICJ(国際司法裁判所)に提訴した。ウクライナの要請に基づき、ICJはロシアが2022年2月24日にウクライナの領域内で開始した軍事作戦を直ちに停止することを求める暫定措置命令を発出した。またウクライナで行われた戦争犯罪を捜査してきたICC(国際刑事裁判所)は3月17日、ロシアのプーチン大統領及び子どもの権利を担当する大統領全権代表に対して、戦争犯罪の疑いで逮捕状を発出した。ロシアが侵略したウクライナの地域からは多くの子どもたちがロシア側に拉致移送されているという確たる報告がある。聖書にも戦闘で敗走した国の子どもたちが占領国に移送される話があり、また第二次世界大戦終戦直前に連合国側に参戦したスターリンソ連には、60万人近くの日本の軍人が捕虜として極寒のシベリアに移送され苛酷な強制労働に従わされて多くの日本人が亡くなったが、これらは過去の話だけではなかった。今日日でも子どもたちを拉致して人口減少しているロシア極東地域に住まわせ洗脳教育を行い養子縁組を強要する国家があるのだ。20世紀に人権/自由/平等/博愛を学んだはずの人類と国家が、このような野蛮を平然と行うこと自体が信じ難い。巧妙なフェイク報道を繰り返しながら暴虐と殺戮を続けるプーチン大統領は立派な戦争犯罪人である。(写真はTV映像)

新聞切り抜き帳を何気なく見ていた。2020年9月21日の東京新聞では、大阪地検特捜部の検事による証拠改ざん発覚から10年が経過したことから、冤罪に巻き込まれた元厚生労働次官の村木敦子さんの取材記事を取り上げている。新聞のタイトルは村木さんの発言「検察は権力を抑制的に」として、その後も続いている冤罪を作りかねない検察権力の濫用に警告を発している。郵便不正事件にからんで村木さんは一連の不正に関与したとして逮捕されたが一貫して無罪を主張、その後共犯とされた部下らが自分たちの供述調書は検事のでっち上げだと証言したことから無罪になった。ところが一連の流れは検察の作ったストーリーに沿うように証拠を改ざんしたことが判明して、なんと担当検事が逮捕されたのである。つまり犯罪を断罪する側の検事が犯罪者となり逮捕されるという笑えない日本社会の現実。

村木さんの事案は「冤罪」そのものである。免田事件、袴田事件等々、真犯人に仕立て上げられ死刑判決を受けた事案がその後「冤罪」であったとされる事件も多い。「冤罪」に関する定期刊行物も発行されていたほど(現在は休刊)、警察・検察の姿勢が問題視される事案が多いことが伺える。

故安倍首相の”ヨイショ本”を書き安倍氏と親しかった元TBS山口某は、女性に対するレイプ犯として逮捕状が出されていたが、海外に出国する直前に逮捕状が握りつぶされた事案については先述した。当初の逮捕状の握りつぶしが、官邸から東京高検検事長を経由して警察庁長官、所轄警察署長へと命令が流れて実行されたのが事実だとされた。政権幹部の指示によって検察のトップが罪を逸失させるという司法検察の頽廃と堕落という”二権分立”となり果てた日本の民主主義の虚の姿である。しかしこの事件はその後裁判で被害女性の勝訴となる経過をたどった。

私の友人に弁護士など法曹関係者が何人かいる。数年前ある弁護士(都道府県弁護士会役職を歴任)と現今の法曹世界について議論を戦わしたことがある。彼が次のように話したことが忘れられない。

「多くの検察官の思念は人間《性悪説》以外の何物でもない。人間を《悪》として見れば、人間というものがほぼ理解できるというのが彼らの言い分だ」、また「裁判官の多くは世間の些事に驚くほど無知で無関心である」、そして彼らの判断基準は「万巻の判例集と厖大極まりない六法全書の中にしかない。人間の生命の息吹きや感情というものは限りなく排除されるのが”善”とされる世界である」、「法廷という場は、そこで正義か不正義かとか正か邪かを議論する場ではない、原告/被告にとっての相反する「利得」をいずれに得させるかを決定しようとする場である、だから検察官であろうが弁護士であろうが「勝利」にしか関心がない、だから「弁論」の立つ検察や弁護士が有利、どれほどの弁を弄し論破できるかが裁判勝利の分岐点となる」云々。

「正義」「不正義」に基づいた法廷弁論が展開されるわけではないという彼の言質が強く印象に残る。そして倫理感覚が麻痺していながら、風を送る機械のように騒がしく政治事案からタレントスキャンダルまで軽口をたたき、スラップ訴訟までしてゼニ亡者となり、世論に迎合し詭弁を弄する事に長けた弁護士出身のTVタレントや議員、自治体知事の顔を思い起こした。

友人の弁護士の話を聞いて「ホンマかいな」と感じたので、私はこれら検察官、裁判官諸氏の現実(彼らの仕事のプロセスや中身の詳細、彼らの生活観や生きざま)を何冊かの書籍を読んで追確認した。そして恐るべきことに友人の弁護士の言があながち間違ってはいない事を確認した。しかもこれらの書籍では、彼らのパーソナリティとしては「あまりに多くの犯罪に関わる判定を迫られているために機械的な判定マシンになり果てている」、「矛盾や二律背反、不条理、葛藤に懊悩することがなく、物事を哲理的に思考することがない」、「人生に飽き飽きして厭世的虚無的で倦んでいる」‥このような者が数多存在することを私は確信した。

黒の法衣をまとう裁判官もそれを剥げば「裸の王様」である。何のことはない、哲理的に見れば普通の人たちが有している道徳観念や倫理観が脆弱な「ただの人以下」で、特権意識だけは強烈で強欲でゼニ亡者が多いのが司法関係の者たちだ。いわば”畸形の社会”である。六法全書を食うほどして司法試験に合格、その後は只の人以下か強欲で世間常識を欠く”異様の者”なのではないか‥何とも哀しい現実である。元日本弁護士会会長で社会運動家でもある宇都宮健児氏が「弁護士というのは弱者のために仕事をする者」と記している。見識である。この言葉をゼニ亡者の司法関係者に聞かせたいものだ。

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。‥外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。」(マタイ福音書23章)この事は時代が下っても変わっていない。

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[Ⅳ231] 日本人とか日本社会とか(11) / 偽善/忖度/不法に満ちた日本の司法

2023-04-10 09:13:09 | 生涯教育

※プーチンロシア軍がウクライナへの侵略を始めてから1年が経過した。未だにプーチンロシア軍の侵略と暴虐が続いている。プーチン大統領は侵略当初にはウクライナ全土の占領は72時間で完了すると見ていたらしい。が、悪魔の奸計は失敗した。ウクライナゼレンスキー大統領及び政権幹部、何よりもウクライナ国民はプーチンロシアの侵略に反抗し抵抗を続けている。ウクライナの多くの女性や子ども、老者たちは隣国ポーランド等に避難したが街に残っている者も数多いる。女性兵士を含めたウクライナ兵士たちの士気は高い。プーチンロシア軍兵士の士気は低く未熟なためロシア兵の犠牲者は極端に多い。国連加盟国の大半はウクライナを支持している。EU及び米国等は多くの戦車や武器供与、支援物資の提供をウクライナに続けている。これに対しプーチンロシアは日々数百以上のフェイク情報を流し、傭兵部隊に囚人を大量に加え狂気の暴虐部隊として軍隊の先陣に配置した。ウクライナの主要都市例えばブチャでは人間の所業とは信じられないほどの暴虐行為によって数多の市民が惨殺された。その映像の悲惨は正視できないほどのものだ。ロシア正教会キリル大主教は侵略1年後のプロパガンダ映像で、プーチンロシア軍の侵略戦争の正当性と正義をローマ法王に訴えるなど、非道さをむき出しにして恥じていない。(写真はTV映像から)

「聖書」は(ユダヤ人の)律法(家)について様々な箇所で記しているが、次のような言説は二千年前も今も変わらない「真実」であると私は考えている。

「彼ら(律法学者など)は…広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。」「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。‥外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。」「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ、あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。」「法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実を見のがしている。」(いずれも「聖書」マタイによる福音書、23章)

裁判所の腐敗である、裁判官の堕落である、司法権の蹂躙である、国法の濫用である、と内村鑑三翁も書いている。

【「わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。」とある(伝道の書3:16)。裁判所の腐敗である。裁判官の堕落である。司法権の蹂躙である。国法の濫用である。伝道者(注:原文は「コーへレス」ソロモン王は「コヘレト」という異名で呼ばれていたという説がある)はこれを見て憤慨に耐えなかったのである。ゆえにこれらを矯正して正し、国家と社会とをその根底から潔めようとしたのである。しかしながら、この場合においても、他の場合と同様「曲がったものは、まっすぐにすることができない」のであった(同1:15)。裁判所の腐敗は依然として続いた。裁判官(注:原文は「司直」)として責任を負うべき者は、あらゆる言辞を弄して邪な事を邪ではないと弁明した。…伝道者(コーヘレス)は司法官たちの無能に失望して神に頼るに至ったのである。誠実な改革の努力に対しては常にこのような利益が伴うのである。人は社会と政府と教会に失望して神を信ずるに至るのである。】(全集21、p.62、裁判所の腐敗)

“正義の味方”であるはずの国家の司法機関である日本の検察も、今日日人事権を握る政権に忖度し媚び政権の利得のために尽すことが”伝統”となり果てた。”犯罪”を犯した国会議員を庇護して正邪も有耶無耶にした。性犯罪の現行犯として逮捕状の出ていたTBSの記者が、ヨイショ本を通して安倍首相と昵懇であったために警察庁長官が首相の指示で逮捕状を破棄した。政権の邪に迫ろうとする訴求を全て隠蔽している警察庁/検察庁‥何のことはない、政権の傷口をなめるように警察組織と検察組織は働き、指をくわえて論功行賞を待つ組織となり果ててしまった。誰が見たって警察/検察もウソの万華鏡である。

国会議論も空虚にして白け陰陰滅滅の様相、故安倍首相は訴求されるのが恐ろしく国会にも出席できない日々が続いた。それは政権を投げ出した安倍首相の後に謀略通り棚ボタ式に政権をついだ菅政権にも継承された。国会記者会見も予め作られた質問を予め決められたマスコミ企業の記者会記者が読み上げ、これに菅首相が回答書を読み上げるという前代未聞の無残な記者会見儀式が繰り返された。

国は議会制民主主義の柱を失いつつある。何が民主主義だ、何が三権分立だ、そんなもの日本国には既に存在していないではないか。しかしこれら日本国宰相以下の国会議員を”民主主義のルールに則って”選択したのは誰なのか‥結論は結局のところ此処にたどり着く。好き勝手に驕慢に横暴に振る舞う政権の独断と独走を許してきたのは、誰あろう日本の市民国民。

鑑三翁もこれと同質の憂いを絶望感とともに随所で吐露している。日本人は電気ウナギのようなもので、一度放電すればあとは何事もなかったかのように日々を暮らす、と。 .

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