人間の生死は自由な航海のようなものだ。停泊地は定まってはいない。にもかかわらず無理に停泊地を選択せよと強制するのが日本の「安楽死の法制化議論」だ。この議論は日本では数十年もの間極細に続いている。過去には臓器移植法議論の過程でもこの問題が出てきた。往時は国民の議論がかなり沸騰して健全な議論が展開されたと記憶している。
ところが最近大阪に根拠地を持つ維新なる政治集団の幹部が、発言の前後の事情は不詳なれども「安楽死法の制定を進めよう、皆が気づいていながら議論を進めないのはおかしいではないか、何なら私が議論をリードしたい」と言明し、彼の一部の取巻きと諂者、国会の議連の一部の者が「法制化」を急ぐべきだとこれに同調した。この大阪の団体幹部の言い分は一見もっともらしい。あたかも白馬の騎士のようだ。しかし事は「安楽死」の法制化の問題である。道路工事の問題ではない。
「安楽死」問題の議論は政治的利害、すなわち少子多死時代に国家財政に大きな負担となる高齢者の延命、いわゆる難治疾患及び高齢者医療に関わる高額医療費の国庫負担の増嵩、高齢者の激増に伴う医療費/介護費の国庫負担といった”経済財政視点”だけに強い重点が置かれて議論が進むおそれがある。「安楽死」問題は大阪の維新幹部の売名と功名狙いの痩せた頭脳だけで議論してはいけない。それはなぜか。
人間の人生には愉しみが限りなくあるし哀しみ苦しみも限りなくあるけれども、法律によってこれらがすべて規制され選択肢が決められるという人生は、限りなく詰まらない、と私は思う。物事には正邪を判定することが困難で不可能なこともある。法制化に馴染まない繊細極まりない生死の問題もある。繊細さはそのままにしておいた方がいい場合もある。法制化によって人間にとっての生死の繊細さが捨象されるため、問題が先鋭化され白黒に決着することを強制強要されることもある。なので「安楽死」の法制化がこの国で必要だとは私は全く考えない。それは人間の「自由の毀損」に傾斜するからである。今日日「安楽死法制化」を日本で叫ぶ者たちは、売名目的の酷薄で浮薄で愚かな人間たちが多い。生の終末を医療経済で決裁しようとする浅薄な愚者たちが多いと私は断定する。なぜならば「老者に早く死を」と声高に安楽死を叫んでいる者たちは、金持ち老人は除外しているからだ。難病に苦しむ患者/家族の声に真摯に耳を傾けようとしてはいないからだ。「安楽死法制化」議論で論功行賞を狡猾に狙っている政治集団の提起する浅薄でもっともらしい話を聞くと、私は日本人であることを恥ずかしいと感じる。
「安楽死問題」に疎遠であった者は、宮下洋一氏の渾身のルポ『安楽死を遂げるまで』(2017)『安楽死を遂げた日本人』(2019)などを読み、早川千絵監督/倍賞千恵子主演『PLAN 75』(2022)を観るなりしてほしい。そして胸に手を当てて「安楽死」にまつわる深遠な問題を考えてほしい。一人の人間が死に直面した時の恐怖、落胆、孤独、絶望、愛する者との別離への悲嘆と苦悩、愛する家族との感情の乖離‥このような事態に関して適切で愛にあふれた回答を出せるようになってから、愚者たちも「安楽死」に関して発言したらどうだろうか。”医療経済的な視点”からのみ「安楽死」を論ずることは、あまりにも幼稚で下劣で安っぽくて愚かである。
鑑三翁は「安楽死」問題には触れることはなかったのだが、私は「安楽死」法制化問題には熟慮が必要であると考えている。次回で鑑三翁の日本人論に耳を傾けながら考えてみたい。