
夜はいつ明けてくれるのだろう。ベッドの側のソファで浅い眠りから覚めて、ボクはベッドの若菜の様子をまずうかがった。寝息が聞こえてこない! はっとして起き上がりベッドに寄った。夜通しつけたままにしておくことにしていた床頭台の電気スタンドの傘をぐっと若菜の方に向けると、仰向けに寝ていた彼女の顔に、ボクの顔を近づけた。体温が伝わってくる。かすかな寝息が伝わってくる。ああ、よかった! 生きている!
若菜とボクの間には、一本の緑色の毛糸がお互いの手と手につながれていて、用があったらそれを引っ張って、寝ているボクを起こすことになっていたのだが、その糸をボクは確認するとソファに戻ろうとした。
おとうさん、と細い声がした。ぼんやりとした光の向こうに、こちらに顔を向けて毛糸をたぐっている若菜の白い顔があった。ボクと同じような浅い眠りから覚めてしまったのだろう。
「ひもはいいよ、こうして起きているから。どうしたの? 」
若菜は黙ったまま自分の体の下方を指差した。ボクは大きくうなずいて、部屋のトイレから白くて丸い便器をとってきた。個室に移ってからしばらくは自分でトイレに歩いて行けたのだが、5月下旬頃になると、それも困難になってきていた。
ボクはいつものように毛布を上げて準備をした。この頃の若菜は、ボクか叔母、姉の桜子に便器や尿器をあてがってもらって、自分で排泄することを望んでいた。看護師にやってもらうことは嫌がっていた。ボクはチリ紙を上にかけ、骨の出た腰にタオルを当てて便器を差し込み、反応を待った。
「ユウキ」と上のほうで若菜の声がした。
「うん? 」
「敬一は大きくなったら何になりたいのかしらね? まだ小さいから何も考えてはいないと思うけれど、どんな仕事をしたいと言うかしら。」
「そうだな、ボクは医者にしたいと思っているけれど、大きくなったら彼が何と考えるか、だな。」
「えっ、お医者さん? ふふっ、敬一がお医者さんかー。ちょっと私のイメージじゃないなー。」
「ちょっと待てよ、結局は彼が決めていくことだ。ただボクは、彼が医者になったとしたら、親の欲目かもしれないけれど良質のものを持っているから、患者のことを考えられるいい医者になれると思うよ。」
「そうね。でも医者はあまりいい仕事じゃないかもしれない。敬一らしい仕事ってあると思う。それができればいいわね。」
「うん。じゃあ静雄はどう思う? 」
「静ちゃんは、まだ赤ちゃんだからねー。わからない。でも敬一と同じよ。」
敬一と同じということは、きっと静雄にも彼らしい仕事があるという意味だろうな、とボクは考えていた。
空気の流れが止まり静かな時間が流れた。やがて暖かい空気がそこに漂い、ちろちろと少しの尿が流れ、僅かな水様便が便器に落ちた。もういい、と若菜は言い、ボクはそこをきれいに拭った。
ボクはいつものように、この七病棟の長い廊下の果てにあるトイレに行き、洗浄器で便器を洗って部屋に戻った。そのとき、なぜかこの部屋が妙に明るく感じた。若菜が笑顔でボクを迎えたからである。
「どうしたの? 何がおかしいの? 」
「だって思い出していたんだもの。ユウキ! 」
「なんだ、いきなり。何を思い出していたの? 」
「いつか、ずーっと前、まだ二人だけだったとき、ユウキがこんなこといつも言っていたでしょ・・オレはワカナよりきっと病気にでもなって先に行く。先に行きたい。そのとき入院したら、シモの世話はずーっとワカナにやって欲しい、って・・そのことを思い出していたの。でも逆になっちゃったからおかしかったの。」
「そうだぞ、約束が違うぞ!」
そう言って、ボクは若菜の額をチョンとこづいた。その途端、若菜の大きな目から、つぶになった涙があふれ落ちてきた。どう止めていいかと思われるほどのたくさんの涙だった。
「ごめんね! 」
と一言若菜は言った。ボクは若菜をしっかり抱きしめたまま、子どものように泣いた。ボクは若菜の涙におぼれていくのがわかった。