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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅱ98]  『平和なる死』(3)

2021-11-30 17:33:52 | 生涯教育

私は今夜は事実を話します。キリストを信じたために少しも死を恐れずに死んだ実例をお話しします。皆さんの中でキリストを信じることなく、死を喜んで感謝して一人で真っ暗な死の海に乗り出した人をご存じの方はおられますか。

私はキリストを信じない人で死を喜んだ人を知りません。私は今夜は、いかにして死を喜ぶことができるのかという理屈を話すのではありません。信仰というものは理屈ではありません。実例の幾つかをお話しします。

日本にキリストの教えが入ってからちょうど50年*ほどになりますが、私がキリスト教を信じ始めたのは明治6、7年のことだと思います。

*(注:明治22(1889)年の大日本帝国憲法の発布によって「信教の自由」が認められ、キリスト教が解禁されたとすれば、明治45年当時の話なので23年ということになるが、鑑三翁は明治6(1873)年に明治政府が全国のキリスト教禁制の高札を撤去したことを指していると思われる)。

青森県弘前出身の人で、某というアメリカに留学してアメリカの大学を優秀な成績で卒業した人がいました。そのころの海外留学した人などというものは、日本ではどこからも歓迎されていました。ですから帰国したらどのような地位でも望みのままという具合でした。ですからこの人は大きな希望をもってアメリカから横浜に着いたのでした。そしてその頃は青森までは汽車のない時代でしたから、横浜から出る船便を待つために旅館に滞在していました。ところが不幸にして肺病が出て急に悪化し、とうとう郷里に帰れないだけでなく命も助からないような状態になってしまいました。

彼の友人の珍田捨身君(注:1857-1929、メソジスト派牧師、外交官。侍従長・枢密顧問官・外務次官を歴任した)や、本多庸一君(注:1849-1912、日本メソジスト教会の初代監督、青山学院院長、世界宣教会議代表を歴任した)等が介抱したのですが、これはとうてい助からないだろうと彼らは考えましたが、本人が堅い希望を抱いて日本に帰ってきたのに、助からないなどと言おうものなら、ひどく落胆するかと考えて、介抱する者たちも辛かったそうです。

しかしながらその彼は幸いにしてアメリカ在住の間にキリスト教の信仰を持って帰国しましたので、少しも煩悶というものがありませんでした。彼はもはやこれまでと悟ったのでしょうか、三日間水も飲まないようになりました。そしていよいよ死が近づきましたが、友人たちが病床の傍らで泣いているのを彼は目にして、すっと立ち上がり手を打ち振って、そんなに悲しんではいけないという意思を示し、天を仰いで三つ手を叩いて亡くなりました。本多庸一君などは、なるほどこれがキリストを信ずる者の死なのかと知り、一層信仰を強めたそうです。

このような平和な死は、もし我々がキリストを知りキリストを信じれば、同じ人間としてできないことはないのです。

もう一つの例は、伊豆に花島という牛乳屋の老母がおりました。普段からキリスト教の篤い信仰をもっておりましたが、死の際に彼女に平和があっただけではなく、非常に感謝をしまして、自分はこれから天国に嫁入りするのだから、黒い着物などで葬式をしないでくれ、赤い着物を着せて、大いに祝ってくれと遺言して笑って亡くなったそうです。

もう一つの例として、先に亡くなった私の娘のことをお話しすることを許してください。私の娘は普段は宗教にはむしろ無頓着の様子でしたが、自然と信仰を得ました。病床にありましても、一言も不平を言わなかったのみならず、実に喜んでキリストにひかれて行きました。彼女の主治医も看護師も、「どうしてあなたの娘さんは心が平和なのでしょうか。あのくらいの病気の重さになれば、だれでもが苛立つものですのに」と言って、訝しんでいました。

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[Ⅱ97]  『平和なる死』(2)     

2021-11-24 11:38:12 | 生涯教育

◇◇◇◇◇◇◇

  明治45年4月13日

『家庭と宗教 如何にしたら平和に死ねるか』署名 内村鑑三先生 口述 加納久朗 筆記

 

明治四十五年三月十七日の夜、一宮町浅野金五郎氏宅に於ける先生の説教なり

私はキリスト教を信じてから三十五年になります。この宗教を信仰しましたために世間からたびたびいじめられました。また様々な苦労に遭遇しました。しかしながら私はこの信仰を捨てません。それは私が意地を張っているからではありません。キリスト教を信じないでは私は満足しきれなかったのです。

農業を習得しようとする人はキリストのところに来る必要はありません。商業について学ぼうとするにもキリストのところに来る必要はありません。その他の生業について学ぼうとするにはキリストのところに行く必要はありません。また人に見られて「忠臣」だの「孝子」だと言われようとするためにもキリストのところに行く必要はありません。けれども霊魂(たましい)のこと、罪のこと、私たちが犯した罪が、その後に裁かれるということについて知ろうとするのならばキリストのところしかありません。

私は今夜は、人間の一生の中で最大の事件としての「死」に関して、平和なる死を迎えるためにはキリストに頼る以外にはないことを述べたいと思います。

「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。」(へブル人への手紙2:14-15)

人間として死を恐れないという人はありません。誰でもが死を恐れています。カラ元気は誰にでもあり、下らない敵愾心は誰にでもあります。戦場で両軍相対し進軍ラッパが響き渡り、大砲の音が耳をつんざくようなときに夢中になって死を忘れてワーッと敵陣に突進することは、た易いことのように思われます。これは誰にでもできます。多くの戦争の勇者というものはこのようなものです。

私がここで言う真の勇者とは、今ここに死がやってきた時に、安心をもって死に赴くことのできる人のことです。世の中で私たちに死がやってくるほど明白なことはありません。キリスト教(注:原文は「耶蘇教」)の奴らは、いつでもすぐに「死、死」と言って人を驚かすのでイヤだという人がいます。また「シ」という音が縁起が悪いと言って、四(シ)と読むところを四(ヨン)と読ませるなどして、できるだけ「死」を考えないようにしたり、うち消そうとする人がいます。しかしながら「死」が縁起が悪かろうが悪くなかろうが、考えないようにしようがしまいが、打ち消そうとしようが、嫌がろうが、私たちが遭遇しなければならないものが「死」です。

皆さんの仕事がこれから成功するかどうか、皆さんが大金持ちになるかどうか、皆さんが立身出世するかどうかは、いずれも不確かなことです。しかしここにいる私たちが、今から百年経たないうちに死ぬということは、誰も否定することはできない確実なことです。遅かれ早かれ私たちは死に出会わなければなりません。そのときに真の勇者になれるかどうか、我々が死ぬ際にある者が来て我々を責めるに違いありません。

借りた物は必ず取りに来ることでしょう。私たちの犯した罪は必ず詰問されるに違いありません。これらは事実です。その時にその暗闇に行く私たちを誰が導いてくれるのでしょうか。妻子やきょうだいや友人たちは一緒に行ってはくれません。

今夜のような真っ暗闇の夜に、一宮川(注:千葉県の九十九里平野を流れる川、現在二級河川)を下って九十九里の浜から海へと小舟で乗り出す時に、河口まではついていってくれるかもしれません。しかし河口から先には誰がついていくものですか。実に心細くもあり怖ろしくもあります。この時に力強い船頭さんがいてくれたら、どんなにか心強いことでしょう。神様はこの時のために一人の船頭を与えてくれました。それがキリストです。

皆さん、皆さんの中で誰かが今夜中に亡くなるかもしれません。皆さんは死を恐れるでしょう。流行性の感染症の際などには、人々は大騒ぎでこれを防ごうとします。なぜ死が恐ろしいのですか。それは私たちの犯した罪について裁判をされるのが恐ろしいからなのです。この時に水先案内人になってくれるのがキリストなのです。なぜ、どうしてキリストが水先案内人であるかは今夜は申し上げませんが、いずれまた申し上げる機会があると思います。

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[Ⅱ96]  『平和なる死』(1)  

2021-11-22 13:13:30 | 生涯教育

※鑑三翁はいわゆる「無教会」を基本的な考え方として活動してきましたので、国内外から「教会」を否定した人と国内外から曲解されていますが、鑑三翁は「教会」そのものの存在や活動を否定しているわけではありません。鑑三翁は「教会」の組織としてのあり方や宣教師の資質に大いなる問題があることを指摘していたのです。言い方を帰れば「教会」という組織そのものに懐胎する問題点であり、組織としての限界を鑑三翁は見抜いていました。それがひいては「無教会主義」という考え方や行動となっていきました。

次の一文には鑑三翁の当時の「教会人」に対する鋭い批判が見られます(現代語訳)。

「私の無教会主義の理由を知りたいのですか。それは私に聞くことではないでしょう。現今の教会の姿を見てください。その教師たちの嫉妬と反目と排斥を見てください。またその信者の奪い合いを見てください。その教会員の不義と不正と不実と不信を見てください。そうすれば私に聞かずとも、無教会主義の理由が自ずから明らかになると思います。教会そのものが無教会主義の最も有力な証明者です。私が全力をもって力を注ぐよりも、今の教会こそが雄弁に無教会主義の実証者です。

宣教師と教会信者は言います。私が無教会主義を唱えたので、日本に無教会主義の信者が起こったのだ、と。そうではありません。日本に無教会信者が少しずつ起こってきたので、私の唱える無教会主義が聴きいれられるようになったのです。神は無教会信者を起こされたのです。‥路傍の石は起きて叫ぶでしょう。教会は今総がかりで無教会主義を抑圧しようとしますが、それはとうてい不可能なことです。」(『聖書之研究』119号、明治43年)

すなわち往時の「教会」そのものに無教会主義の起こってくる原因があり、頽廃した宣教師と教会幹部こそが、無教会主義の因ってくる原因だと述べています。

このような鑑三翁の思想や行動は、16世紀初頭、政治権力と結託して「贖宥状(しょくゆうじょう)」を発行して金銭を収奪し腐敗していた当時のローマ・カトリック教会に正面から論題を投げかけて、宗教改革へと繋げプロテスタント生誕の契機となったマルチン・ルターや、19世紀デンマークの教会の形骸化した儀式等に反抗して教会の改革へとつなげていったゼーレン・キェルケゴールなどの「宗教改革者」を彷彿とさせます。

そして鑑三翁は、「教会」という空間的時間的な存在を認めない代わりに、自宅や全国に赴いての家庭集会、宣教のための講演会活動を重要視していました。

今回現代語訳したものは、そうした家庭集会の講話記録の一つです。この原稿を筆記した加納久朗氏(1886-1963)は、学習院の学生時代に鑑三翁から薫陶を受けたキリスト者です。東京帝国大学在学中に基督教青年会を立ち上げています。卒業後は父親加納久宜の務めていた千葉県長生郡一宮町の町長の仕事を手伝っていました。

この筆記は鑑三翁の校閲を経て公表されています。なお加納久朗氏はその後、千葉県知事、住宅公団初代総裁を務めました。

 

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[Ⅱ95]  『希望の伴う死』(2)  

2021-11-17 12:33:18 | 生涯教育

繰り返すまでもなく、死は私たちにとって最大の苦痛です。我々はもちろん死を歓迎しません。しかしながら死は私たちに苦痛だけをもたらすものではありません。死は私たちにとっては真の暗黒だけではありません。その中に光明が混じっています。そして光明はやがて暗黒を駆逐し、比較的短期間の後に死の悲嘆的半面は失せて、希望的な歓喜の半面が残ります。

死は私たちにとっては癒すことのできない傷ではありません。いやむしろ私たちにとっては死の悲嘆は癒されて、その傷の痕から甘い希望の露がしたたりおちて、私たちの渇きを癒してくれるのです。

私たちの愛する者の死を思うと、私たちの涙は流れて止むことはありません。しかもこれは悲嘆と絶望と哀哭の涙ではありません。再会を楽しむ希望の涙なのです。私たちは希望を持たない者のようには泣きません。私たちが今流す涙は、後の日の再会の時に流す歓喜の涙の先駆けなのです。

ああ人は皆一度は死ななくてはなりません。

「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている。」(へブル人への手紙9:27) とあります。神も自然も公平です。死は貴賤貧富を問わず人間にやってきます。

人間はどんな人間でも裸で生まれ裸で去ります。人間は死んでも、土地も家屋も勲章も勢力も持って行くことはできません。彼の霊魂はただそれ自身の価値とともに神の前に出なければなりません。

この事を知って、この世間に在って、まず第一に求むべきものが何であるかがわかるのです。人間は死んでも持って行けるものを求めるべきです。

「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。」(マタイによる福音書16:26) です。

最も幸福な人はキリストの福音に接することができて、希望の讃美を唱えながら天使の翼に乗せられて、永遠の故郷へと昇って行くことのできる者です。

(「希望の伴う死」/終わり)

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[Ⅱ94]  『希望の伴う死』(1)  

2021-11-12 17:28:15 | 生涯教育

※斉藤宗次郎氏は、明治10(1877)年に岩手県東和賀郡笹間村(現・花巻市)で生まれました。この年は鑑三翁が札幌農学校第二期生として入学の許可がおりた年です。宗次郎氏の生家は曹洞宗の寺でした。彼は岩手師範学校を卒業して花巻の小学校の訓導(注:教諭)をしていました。その頃「新約聖書」や鑑三翁の文章に触れ、キリスト教に入信しました。しかし僧侶であった父や家族はこれに反対し、しかも宗次郎氏は当時鑑三翁が『万朝報』紙上で唱えていた日露戦争非戦論を生徒に教え、聖書の講義を行い、また納税拒否、徴兵忌避といった言動を行ったため、小学校訓導の辞職に追い込まれました。

その後宗次郎氏は新聞配達をして清貧の暮らしを送ったと言われています。そして新聞配達や集金の折に病人を見舞い、住民の悩みや相談を聞き、子どもたちに菓子を与えるなど、地域の人々に慕われていたのでした。鑑三翁のもとで伝道者となるべく上京する際には、花巻の駅に200人以上の人が宗次郎氏の見送りに来たと言われています。

鑑三翁の研究者・岩野祐介氏の論文(「内村鑑三における師弟関係-斎藤宗次郎『二荊自叙伝』*を手掛かりに」)によれば、鑑三翁と宗次郎氏の関係は次のように記されています(要約)。

「(鑑三翁と斉藤宗次郎氏との)交流の初期は手紙でのやりとりが中心であったが、札幌伝道の帰途盛岡に滞在していた内村を斉藤が訪ねた際に両者は初めて対面した。明治34(1901)年の ことである。以後は斎藤が折りを見て上京することもあれば、内村が伝道旅行の際に斉藤のもとに立ち寄ることもあり、両者は親密な交流をするようになった。そして大正15(1926)年斉藤は内村に近侍するために東京に移住し、以後は講演会や「聖書之研究」誌の運営等、内村の伝道活動を手伝った。さらに内村の死後には、岩波書店版『内村鑑三全集』(1932-33年刊行)の編集実務委員を鈴木俊郎とともに努めた。」

*(注:現代語訳者の私は未読ですが、斉藤宗次郎氏が執筆した日記『二荊自叙伝(上)(下)』(岩波書店、2005)には、宮澤賢治が最初の詩集『春と修羅』を出版する前のゲラ(校正刷り)を、宗次郎氏に見せている記述があるといいます。宮澤賢治は日蓮宗の信者でしたが、キリスト教信仰者としての宗次郎氏とは宗派を超えた交流があったそうです。また日記には、新聞配達の集金に行った際、賢治に招き入れられ一緒にレコードを聴いたという記述もあるそうです。また賢次の散文詩「冬のスケッチ」には宗次郎氏を模したらしい「加藤宗二郎」という人物が登場し、また賢治の「雨ニモマケズ」の詩の中に新聞配達をする宗次郎氏の姿を重ねる人も多いと言われています。このあたりの事情については宮沢賢治の研究者に任せます。)

斉藤宗次郎氏は、鑑三翁の方針として弟子はとらないとされていたにもかかわらず、鑑三翁の側に居って終生忠実に尽しその最期も看取っています。その点においては鑑三翁にとっては前回紹介した山岸壬五氏同様、深い信頼を寄せた格別の契りのあった人間だと思われます。

今回現代語訳したのは「希望の伴ふ死」(全集19、p.229-30・選集8、p.166-67収載)です。斉藤宗次郎氏夫人・スエ子さんの死に際して執筆された追悼の一文です。『聖書之研究』誌上に掲載されたものです。

◇◇◇◇◇◇◇

「希望の伴ふ死」

大正元年9月10日 『聖書之研究』146号/署名 なし)

私の信仰の友である花巻の斉藤宗次郎君は、この度夫人のスエ子さんを亡くされました。彼がこの事を私に知らせた電報は次のようなものでした。

「スエコイマイノリツツネムル」 (スエ子今祈りつつ眠る)

そこれに対する私の返電は次のようなものでした。

「ハレルヤ カミノミサカエイマヨリマタキミニヨリテアガラン ウゴクナ」

      (ハレルヤ。神のみ栄え今よりまた君によりて上がらん。動くな)

そして二日後彼よりまた電信がありました。

「ソウシキイマスム オンチヨウカギリナシ」

      (葬式今済む。恩寵限りなし)

そしてその後の彼からの手紙によって、彼女の死もまた希望のないこの世の人の死ではなくて、祈祷と賛美の中の旅立ちであったことを知りました。

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