私は今夜は事実を話します。キリストを信じたために少しも死を恐れずに死んだ実例をお話しします。皆さんの中でキリストを信じることなく、死を喜んで感謝して一人で真っ暗な死の海に乗り出した人をご存じの方はおられますか。
私はキリストを信じない人で死を喜んだ人を知りません。私は今夜は、いかにして死を喜ぶことができるのかという理屈を話すのではありません。信仰というものは理屈ではありません。実例の幾つかをお話しします。
日本にキリストの教えが入ってからちょうど50年*ほどになりますが、私がキリスト教を信じ始めたのは明治6、7年のことだと思います。
*(注:明治22(1889)年の大日本帝国憲法の発布によって「信教の自由」が認められ、キリスト教が解禁されたとすれば、明治45年当時の話なので23年ということになるが、鑑三翁は明治6(1873)年に明治政府が全国のキリスト教禁制の高札を撤去したことを指していると思われる)。
青森県弘前出身の人で、某というアメリカに留学してアメリカの大学を優秀な成績で卒業した人がいました。そのころの海外留学した人などというものは、日本ではどこからも歓迎されていました。ですから帰国したらどのような地位でも望みのままという具合でした。ですからこの人は大きな希望をもってアメリカから横浜に着いたのでした。そしてその頃は青森までは汽車のない時代でしたから、横浜から出る船便を待つために旅館に滞在していました。ところが不幸にして肺病が出て急に悪化し、とうとう郷里に帰れないだけでなく命も助からないような状態になってしまいました。
彼の友人の珍田捨身君(注:1857-1929、メソジスト派牧師、外交官。侍従長・枢密顧問官・外務次官を歴任した)や、本多庸一君(注:1849-1912、日本メソジスト教会の初代監督、青山学院院長、世界宣教会議代表を歴任した)等が介抱したのですが、これはとうてい助からないだろうと彼らは考えましたが、本人が堅い希望を抱いて日本に帰ってきたのに、助からないなどと言おうものなら、ひどく落胆するかと考えて、介抱する者たちも辛かったそうです。
しかしながらその彼は幸いにしてアメリカ在住の間にキリスト教の信仰を持って帰国しましたので、少しも煩悶というものがありませんでした。彼はもはやこれまでと悟ったのでしょうか、三日間水も飲まないようになりました。そしていよいよ死が近づきましたが、友人たちが病床の傍らで泣いているのを彼は目にして、すっと立ち上がり手を打ち振って、そんなに悲しんではいけないという意思を示し、天を仰いで三つ手を叩いて亡くなりました。本多庸一君などは、なるほどこれがキリストを信ずる者の死なのかと知り、一層信仰を強めたそうです。
このような平和な死は、もし我々がキリストを知りキリストを信じれば、同じ人間としてできないことはないのです。
もう一つの例は、伊豆に花島という牛乳屋の老母がおりました。普段からキリスト教の篤い信仰をもっておりましたが、死の際に彼女に平和があっただけではなく、非常に感謝をしまして、自分はこれから天国に嫁入りするのだから、黒い着物などで葬式をしないでくれ、赤い着物を着せて、大いに祝ってくれと遺言して笑って亡くなったそうです。
もう一つの例として、先に亡くなった私の娘のことをお話しすることを許してください。私の娘は普段は宗教にはむしろ無頓着の様子でしたが、自然と信仰を得ました。病床にありましても、一言も不平を言わなかったのみならず、実に喜んでキリストにひかれて行きました。彼女の主治医も看護師も、「どうしてあなたの娘さんは心が平和なのでしょうか。あのくらいの病気の重さになれば、だれでもが苛立つものですのに」と言って、訝しんでいました。