ある宗教法人の経営する病院の院長は、ここ数十年全ての癌患者に病名の告知をしていると得々と語っていた。ある医師は病名の告知をした患者とそうでない患者との比較を行い論文にしていた。最近では新聞のアンケート調査を見ても、この癌の告知は大方の医療機関での基本的な指針となっている。そして患者・家族の側でも癌の告知を望むという意見が一般的となってきた。
アメリカ医師会の調べでは、1960年代にはアメリカのほとんどの医師は癌の病名を患者に知らせていなかったという。その後癌の治療成績が向上して早期発見・早期治療が通念となり、知る権利という価値観が医療現場にも持ち込まれたことと、知らせなかったがための訴訟を恐れるがために、ほとんどの患者に病名が告知されるようになったという経緯は確かだろう。
しかしボクはこうした癌の告知を安易に是とする風潮を未だに理解できない。若菜の場合を考えれば考えるほどそう思う。先に触れた故アルフォンス・デーケン氏とは、『叢書:死への準備教育』を共同で編集したり、『死への準備教育のための120冊』を共同執筆したり、彼の主宰する「東京・生と死を考える会」の運営に参画してきた間柄である。氏は治癒困難な疾患の患者に対しても、告知をすべしという立場をとっていた。
その理由は、その人の人生の終末において、最後の区切りとしての遺される者たちへの別れのメッセージを発すること、やり遺した仕事や相続する遺産の事務処理等において、最後の時間を有意義に過ごすためにも「告知」は必須であるという理由による。氏の考え方については多くの部分で同意できたが、ボクには「全ての」患者に対してという点について同意できない部分があった。これらの点については、氏の講演会の際の往復の新幹線や飛行機の中で何度も議論をしたことが思い起こされる。
このようにボクは書いたが、ボク自身は癌の告知を是認する立場をとる。しかし告げて欲しくないという人間もいれば、曖昧なままでもいいという人間もいるだろう。問題はこの点であって、事はひとりひとりが決裁する事柄だし、それぞれの人間の人生に関わる内容を含んでいるからだ。医師だけの専権事項では決してないだろう。大切なのは、癌を告知されたことが意味をもつかぎりにおいて、という一点である。
治療の可能性がわずかでもあり、その後の手術なり治療方法を患者が積極的に受け入れることで、治癒の可能性が増す場合には、告知は大きな意味をもってくるだろう。患者には不安と相半ばして希望が生まれるからである。
問題とされるのは、治癒の可能性がほとんどない場合である。この場合でも、治癒の可能性が無くなったことを決然と受け入れて、残された人生の時間をやり残した仕事の仕上げに使おうとする意思と体力の残っている人には、告知の意味は大きい。では治癒の可能性がほとんど無い場合で、癌の告知が意味を持たないことはあるのだろうか。これが残された問題である。