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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅲ146]  我がメメントモリ(13) / 個室のはなし

2022-06-01 08:38:57 | 闘病記

 同室の患者同士が交わす情報には独特のものがある。例えばそれは、ベッドの上で楽に食事をする仕方であったり、お見舞いの果物を長持ちさせる方法だったり、患者の家族構成や看護師に関する噂だったりした。健康に生活している者とはいささか話題が違うのだ。若菜もその点では情報魔(!)であり、聞きつけた事柄を早く話したくて、ボクの来るのを待っていたかのようにして話し始めることもしばしばだった。

こうした関心を示すことは元気な証拠でもあり、他愛もないそんな話を聞くことはボクの楽しみでもあった。ところが家族にさえ決して話をしない患者同士だけの情報のあることをボクはある日知ることになった。

 若菜がいくら嫌がっていても病気の勢いには抗えず、次第にベッド上でのトイレッティングに馴染むようになってきていた。一旦そうなると諦めが先立ち慣れるのはきわめて早い。今度は歩いてトイレに行きたいとは言わなくなった。その代わり、しきりに匂いや音のことを気にするようになり、ボクは若菜から頼まれて匂い消しを幾種類も買っておいた。

 この頃からボクは、若菜を個室に入れてあげようと考えるようになっていた。そして時々話題に持ち出した。でもお金がかかるし・・というのがいつもの若菜の返事だった。実のところその通りで、ボクの貯えも残り少なくなってきていた。しかしボクは二人の父から借金をしてでも若菜を個室に入れようと心に決めており、室料の比較的安い病棟の個室を確保して欲しいと既に頼んであった。そして日も経たずして部屋がとれたという連絡が看護師から入った。

 ボクはそのことを早速若菜に告げた。すると驚いたことに、若菜は首を大きく左右に振り、イャッ!と言って、決然とした表情を見せたのである。

「お金の心配なら何も考えなくていい。大事なのはワカナなんだ。個室なら気兼ねもいらないし、いつでも誰でも面会は自由だし、ボクも夜は側に寝てあげられるよ。」

「そうじゃない!だってあそこは最後の場所になるんでしょ。だからイヤ。断わってきてちょうだい!」

 若菜の顔は真剣そのもので固かった。目が異様に光っていた。その頑なさに異様なものを感じた。どう返答するかにボクは窮していた。

「最後の場所だって? 冗談じゃない、ワカナを治す場所だ。このベッドの上で気兼ねしながら便器を使っているワカナを見ていられないんだ。個室に入れば、敬一や静雄だって大きな声も出せるし、いつでもワカナに会えるんだ。そうしなければいけないよ。そして思う存分のんきに病気を治すんだ!」

 若菜の顔はさっきの固い表情から、いぶかしそうな曖昧な表情に変わってきていた。

「個室って、ほらその向こうにある所でしょ?」

 ボクは一瞬その意味が理解できなかった。

「その向こうの個室って、まさか!そこのICUのことかい?」

 うん、と若菜はうなずいた。ボクはその瞬間、固い氷が一挙に融けていくような気持を味わっていた。ボクはゆっくり笑った。若菜の鼻先を指でちょこんとこづいた。

「ワカナ! そこは病棟所属のICUで、この病棟の患者が急変したときに緊急に入るところで、たしかにここで亡くなる人も多いかもしれない。でもボクがワカナに確保した部屋は全然違うよ。この病棟からは遠いけれど七病棟というところの個室さ。新しい建物じゃないけれど、静かで落ち着いた病室だよ。そこのICUじゃないよ。」

 若菜の表情がパッと明るくなった。ボクと同じように、冷たい固い氷が若菜の中でもすっかり融けたらしい。ボクたちはお互い肩を抱き合って笑った。

「だってそこの病室で亡くなった人を私は5人も知っているの。みんなこの部屋にいた人たちよ。あの病室に入った人で帰ってきた人はほとんどいないの。だからみんなであの病室には入らないようにしよう、って励ましあっていたのよ。

 ワカナ、またユウキに借りができちゃったね。ところでお金は大丈夫なの? 個室ってお金がかかるんでしょ?」

「だから心配するなって言っただろう、いよいよとなったら親父たちに借りるさ。ワカナが良くなってから、それは必ず返そうな。」

 若菜は、うん、と言ってボクの肩に両の手を置いた。

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[Ⅲ143]  我がメメントモリ(10) / 私はこの家の主婦

2022-05-22 13:34:47 | 闘病記

 玄関を入ると、顔をくしゃくしゃにして上気した表情の敬一が飛ぶようにして出迎えた。彼は全身でこの瞬間を待っていたのだ。敬!と言って、玄関で靴をはいたまま若菜はしっかりと敬一を抱きしめた。

すぐに好子叔母が静雄を抱いて母と一緒に出てきた。静!お母さんが帰ってきたのよ、と若菜は言い、玄関先に座って静雄を抱きかかえて、しばらく頬ずりをしていた。

若菜のこのやわらかな母親の表情も久しぶりのものだった。

毎日毎日涙に沈んでいたボクたちの家は、ふたたび光が差し込んだように明るくなった。若菜は部屋を懐かしそうに歩き回った。二階のベランダにもボクが支えて上った。若菜の歩いたあとは、光の粉が振りまかれたように輝いた。

『ここは私の家。私の家具。この家の匂い。天井のしみ。あの襖絵。旅行で買ってきた人形たち。子どもたちの沢山のおもちゃも生きている。庭の木々や花もあのまま。この家を囲む風景。懐かしいかすかな音たち。みんな私のもの。そして私の子どもたち、ユウキお父さん、母と好子叔母。みんなが私と一緒にいる。暖かな時間。』

 奥の居間で皆でお茶をすする。敬一はプリンを食べながら、これから過ごす母と一緒の楽しい時間を考えて落ち着かない。静雄も若菜にあやされながら、母の表情をみつめていて目が合うと、身体をふるわせて顔をくしゃっとさせて喜びの表情をし、両手を伸ばして抱っこを要求する。静雄を抱き上げる若菜。

 若菜は着替えを済ませると台所に立った。夕飯の支度をすると言っている。母も叔母も、無理しちゃダメよ、と言いながら一緒に台所に立っている。しばらくして台所からは、賑やかな女同士の会話が聞こえてきた。時には若菜が母を叱るような声・・そんなにしちゃ静ちゃんには食べられないでしょ!・・ハイハイ、と母の返事。何といっても、この家では若菜が主婦なのだ。クスクスと笑い合う三人の女たち。食器の触れ合う音、水の流れる音。

 ボクは、この前の静雄の誕生日に帰って来た日のことを思い起こしていた。その日は寒々しい雨が降っていた。若菜は静雄にお赤飯を作ってあげることを考えていたのだか、母は若菜の疲労を気遣って、買ってくればいいのに、と言った。しかし若菜は聞き入れなかった。どうしても自分で作ると言い張った。ボクもそうしてあげようと思い、小豆ともち米を買いに雨の中を走った。

 そしてとうとう若菜は母を手伝わせて、お赤飯を作ったのだった。上手に色づききれいにできたお赤飯だった。昼にはボクの父が鯛の尾頭付をもって誕生日のお祝いに来てくれた。父もお赤飯の出来栄えを誉めながら食べた。みんながおいしいと言って食べた。当の静雄もお赤飯を口に入れられるようになっていた。若菜は主婦の顔をして得意げだったことは言うまでもない。

 静雄の誕生日には、若菜はちょっと早いけれど鯉のぼりを立ててあげて、とボクに言っていたのだが、冷たい雨はやまず、とうとう立ててあげられなかった。だがこの日、お隣のSさんが若菜の外泊を知って、家族全員で折ってくれた千羽鶴を持ってきてくれた。鯉のぼりの代わりになった千羽鶴に、みんなの心が和んだ。

ボクは千羽鶴を背景に、若菜に静雄を抱かせて誕生日の写真を撮ろうとしたのだが、ファインダーが涙で曇ってしまって、なかなかシャッターを押すことができなかった。静雄の次の誕生日までおそらく若菜は生きていられないだろう・・。

居間で敬一と静雄の遊びの相手をしながら、ボクはそんな前回の帰宅を思い出していたのだが、若菜は夕食が出来上がる前に台所から引き上げてしまった。やはり久しぶりの立ち仕事が辛かったのだ。気持は満々にあふれていても、身体がそれに応えてはくれなかった。顔色も青白く先ほどの快活な表情も失せていた。

この日の夕食は若菜が食べられるものを中心に、敬一向けと静雄向けのもの、ボクのビールの肴まで、賑やかなものだった。若菜も静雄をあやしながらずいぶんと食べたようだったが、以前の三分の一の量も食べられなかったろう。そして食べ終わると、横になりたい、と言った。居間の奥にボクは座布団を並べて若菜をそこに横たえ、枕をあてがって毛布をかけてあげた。

「このままでいいの、こうしていれば、みんなが見られるから。片付け手伝えなくてごめんなさい、おばあちゃん、東京おばあちゃん。でもおいしかった! やっぱり病院じゃぜいたく言えないものね。やっぱりこの家で食べるのが一番! みんな一緒だし。敬、ちゃんと食べた? みんなで食べるのおいしいね。静ももうあんなに普通のものが食べられるようになったのね。わたしのおっぱいも、もういらないわねー。」

 そんなことを話しながら、ボクたちの傍らでみんなの動きを目で追っていた若菜は、いつの間にか静かに寝入ってしまっていた。

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[Ⅲ140]  我がメメントモリ(7) / パニック 

2022-05-12 20:38:33 | 闘病記

 桜の咲きそろった4月の日曜日のことだった。休みの日には必ず敬一と静雄を連れて、母と叔母とで若菜を訪ねていた。この日もその予定でいたのだが、ボクの兄からその前日に電話があり、母も疲れているだろうから少し休むつもりで車で花見に行かないか、という誘いがあった。ボクは迷ったが、若菜のところには午後遅くなってもいいからと考えて、公園に皆で出かけてしまった。

   ところがこんなときに限って何か起こるものだ。若菜は何か頼みたいことがあったらしく、ボクらが出かけた後、家に電話を入れたのだった。ところが誰も電話には出ない。携帯電話なぞない時代のことである。・・何度も何度も電話する、コールだけで誰も出ない、ふと敬一か静雄か誰かに何か起こったのではないか、いてもたってもいられない、しかもいつも来るお昼の時間にもやってこない、いったいどうしたのか? いずれにしても何かが起こったのだ!・・

 そして若菜はパニックに陥った。看護師はその様子に異様なものを感じ、電話の連絡を引き受け、鎮静剤を打ってもらって落ち着かせた。看護師も何分かおきに電話を入れるが、相変わらず誰も出ない。

 ボクたちが落ち着かない花見ですっかり疲れきって帰ってきて、看護師の電話を受けたのは、午後3時頃になっていた。ボクは看護師の突き刺すような報告の言葉に全くうろたえた。

 若菜を電話口に呼んでもらった。若菜はほとんど声も出ない様子だった。というよりあの懐かしい声とは打って変わって、男のような太い声を出していた。もう来なくていい、と電話の向こうで言う。ボクは、ごめんな、ごめんな、を繰り返した。急いで敬一を連れて病院に向かった。ボクは、何かとても恐ろしい取り返しのつかないことをしてしまったと感じていた。

 だが意外にも若菜はいつもの笑顔でボクたちを迎えた。ほっと胸をなでおろすと同時に、若菜に深く詫びた。敬一といつものように優しい声で話をしている姿は、パニックに陥った後とは感じさせなかったものの、ボクは若菜と一緒にいつも歩いてあげなければならないと、あらためて覚悟を決めていた。帰り際に若菜は、心配させてゴメン、と両の手で手刀をつくって言った。懐かしい彼女の仕草だった。ボクはベッドに横たわる若菜を抱き寄せると、心配させてゴメン、と同じように言い、その額に口づけをした。

 病院にひとり若菜を置いて帰ることがこの時ほど辛いことはなかった。

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[Ⅲ136]  我がメメントモリ(3) / 宣 告 

2022-04-30 09:20:31 | 闘病記

 

 1月30日にボクは検査で入院していた若菜の病理検査の結果を聞きに、T病院のN先生のところに伺った。午後4時30分の約束だった。

 N先生はボクを椅子に座らせると、しばらく黙ったまま一枚の書類を何度も確かめるように見入っていた。そしておもむろにボクに向き直って言った。

「あなたも仕事柄説明すればすぐ分かると思いますが、奥さんは胃癌です。しかもK大学のK教授の病理診断では、播種性の硬癌で最もタチのよくない奴です。残念です。」

 カッと頭が白くなった。これは夢の中のことだ、現実ではない、醜悪な癌がまさかあの若菜にとりつくなんて! 夢を見ているんだ、早く目覚めろ、早く! 

 どうしたらいいんだろう、何をしたらいいんだろう、なぜ目覚めないのだ! 

 しばらくは痴呆のようだった、何も考えてはいなかった。

 そうだ、手術だ、手立てのないはずはない。ボクは手術のことを聞かなければならなかったのだ。N医師に訊ねた。

「手術・・やってみないことにはわかりませんが、成功するのは難しいでしょう。はっきり申し上げて、この病院での私の判断では、手立ては無いと言えます。どうしても手術とおっしゃるならば、K大学のT教授を紹介しましょうか。でも今すぐに入院できるかどうかは分かりませんが・・。

 大変なことになってしまいました。でも奥さんと二人のお子さんのことを考えると、私は奥さんに残された時間を、ご自宅で子どもさんと一緒に過ごさせてあげるのが一番良いのじゃないかと思うのですが・・。もちろんこの病院はいつでもいいですよ。」

 N医師は60歳に近い年配のとても良質なものをもっている医師であることは、ボクにはよくわかっていた。若菜の死の後も、毎年年賀状が届きボクたち家族のことを気遣ってくれてもいた、そんな人だったが、その瞬間には、ボクにはN医師の言葉は“医療の放棄”のように聞こえた。ボクは即座にこう応えた。

「K大学病院に入院させたいと思います。手術の可能性に賭けてみたいのです。ご紹介状をお書きいただけませんか。」

 N医師はボクの目をじっと覗き込んでいたが、ボクの言葉に何かふっ切れたような表情を見せてうなずくと、机に向かい直って用箋に紹介状を書き始めた。

 N医師は紹介状の入った封筒をボクに手渡しながら、入院が先になるようだったらいつでもこの病院に戻っていらっしゃい、と言った。ボクは紹介状の礼を言って部屋を出た。N医師はドアの外までボクを見送ってくれた。

 ボクは実際のところ足の無い身体でさまよっていた。このことをどう若菜に話せばいいのだろう。意識は鮮明すぎるのに身体がどこにあるのかわからない。古いこの病院の廊下の外にある長椅子に座って、煙草を何本か吸ったのだろうと思う。病院の事務室近くの電話をかけようとして電話の受話器をとった。”でも‥どこへ?‥どこへかけるのか?” 何度か受話器を取り上げ、また置いた。ボクは混乱していた。そしていつの間にかボクは若菜の病室の前に突っ立っていた。これまでの若菜との明るい生活の日々がボクの中をぐるぐるめぐっていて、ボクはまるで幻影のようだった。

 意を決して病室に入ると、いつもの若菜の少女のような目と笑みがボクを迎えた。

 ベッドの傍の小さな椅子に座ってボクは病名の嘘を言い続けた。ボクはN医師も病院も非難した。胃潰瘍だけれど、もっと大きな病院で診てもらったほうがいいとは何事か、と。

 若菜とは目線を合わせないようにして話していたのだったが、やはり無理だった。若菜と目が合った途端、ボクは涙が止まらなくなった。ボクは懸命にこの涙の説明をし始めた。ちょうど1週間前に結婚式を挙げた弟の民男の晴れ姿を思い出してのものであると嘘を言った。この結婚式には若菜と一緒に出席することになっていた。家計が楽じゃないから礼服なぞいらないと言い張る彼女だったが、ボクがデパートに同道して礼服も準備し、若菜も楽しみにしていた結婚式だった。結局若菜は検査で入院しボクだけが出席したのだが、その結婚式を、弟が幼い時に亡くなった母親に見せてあげたかったことを思い出して涙が出るのだ、と説明していた。

 考えてみれば下手な役者の芸だった。若菜には怪訝な表情も伺えた。しかしまさか自分の病気が最悪のもので最悪の状態にあるとは、彼女自身信じられるものではなかったろう。若菜の病気は、こんな小さな古ぼけた病院ではなく、ボクの知っている人がたくさんいるK大学病院で治してやる、すぐ退院しよう、とボクは言った。若菜はニコッと微笑んでうなづくと、涙でぐしゃっとなったボクの目をのぞきこみ、掌で涙をぬぐってくれた。

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[Ⅱ133]  さらば、鑑三翁 (13)   

2022-04-21 18:22:14 | 闘病記

国連安全保障理事会では22年4月5日、ウクライナの人道状況について話し合う緊急会合が開かれました。会合では、ウクライナのゼレンスキー大統領が初めてオンラインで演説し、前日にみずから訪れたウクライナのキーフ近郊の都市ブチャの状況について「第2次世界大戦後、最も恐ろしい戦争犯罪だ」と述べプーチンロシア軍を強く非難しました。また「国連のシステムは直ちに改革されなければならない」とも述べ、ロシアが常任理事国として拒否権を持つ安保理を改革する必要があると訴えました。そして国際刑事裁判所(ICC)による調査を含めて「真実を明かし、説明責任を果たすことに国連の全加盟国が関心を持つべきだ」と訴えました。議場では、ブチャなどで撮影された市民の遺体も映ったおよそ1分間の映像がスクリーンに映し出されました。理事国の多くがウクライナを支持しプーチンロシアを批難する演説が続きました。写真は国連安全保障理事会臨時理事会でビデオ演説するウクライナ・ゼレンスキー大統領。

 

 

これまで「さらば、鑑三翁」として紹介させていただいたのは、鑑三翁が終末期を迎えていた日々の日記、及び主治医の藤本武平二氏と子息の内村祐之氏の告別の言葉です。これらの著作から、鑑三翁が死に直面し天に召されるまでのターミナルステージにおける日々の様子を知ることができます。

鑑三翁は自らの”死と格闘する”様子は微塵も見られません。鑑三翁にとっては、死とは単純に受容すべき事柄でした。それは主キリスト・イエスの懐に抱かれ永遠の平安と恵みの世界へと導かれる旅路の出発点であり、先に主の許に導かれた妻かずや娘ルツとの再会を果たすことのできる世界に踏み出す一歩でもありました。

死に伴う身体的な苦悶は当然存在しましたが、鑑三翁にとっては死は”喜び”でもあったのです。キリスト・イエスと共に歩み共に生きた稀有な日本の伝道師にして預言者であった鑑三翁らしい終末期の様子です。

◇◇◇◇◇

『内村鑑三全集(全40巻)』(岩波書店、1981-84)は2万頁を超える大著です。私はかねてからこの全集を全巻読破しようと計画していましたが、ようやく数年前に仕事を引退しましたので、これに挑戦することができました。そしてノートをとりながら2年数か月をかけて念願を果たすことができました。

この大著を読み進めながら私が思いついたことが一つありました。鑑三翁の文章は格調が高く硬質で私は好きな文章だけれども、これを現代語訳してみたらどうなるのだろうか、そう考えたのです。そして鑑三翁の明治の文語体の文章を何本か現代語訳してみました。「三省堂漢和辞典」と「諸橋中国古典名言事典」、及び「第五版広辞苑」は必須のアイテムでした。訳してみて気づいたのは、鑑三翁の論稿の趣旨が一層馴染み理解が進むことでした。

私たちが”文章を読む”という作業は、難解な漢字や文語体表現、今は用いられることのない表現などに突き当たると、私たちの”脳作業”は文章理解/解読を一旦停止します。そしてその意味を理解できる回路が出来ると、再び元に戻って文章理解/解読を進めるという具合に出来ているのだと思います。だから今の私たちにとって古文や文語体の文章理解は、直線的にスムーズには行かず、曲がりくねったり角を曲がったりする作業を繰り返すことになります。したがって鑑三翁の「全集」の読破は、私にとっては大変な”脳疲労”を伴い時間がかかりました。

このようなことから鑑三翁の死に関する著作の現代語訳を思い立ち作業を続けてきました。私自身のための作業でしたが、近年紹介されることも少なくなっている鑑三翁の思想世界を、若い人たちにも共有してほしいなと願いつつ、ブログでの公表を思い立ったのです。

さて私は[鑑三翁に学ぶ死への準備教育]としてこれまで下記のように、鑑三翁の死に関する論稿の現代語訳を見てきました(回数としてはⅡ31回~Ⅱ133回)。

『愛する者を喪ったとき』『不治の病気にかかったとき』『求安録』『病気は感謝すべきもの』『死の恩寵』『鑑三翁の告別の辞』(『幼な子の死』『再会の慰め』『終わりの日のよみがえりを待ちなさい』『高橋ツサ子を送る』『山岸壬五を送る』『希望の伴う死』)『平和なる死』『死後に生命はあるのか』『聖書の語る死』『死ぬなかれ ! 』『大なる友;内的生命』『さらば、鑑三翁』

鑑三翁の思想は、死の様々な諸相を俯瞰しながら、私を聖書信仰とその解釈の深みに誘ってくれました。それは数多の哲学書や宗教関係の著作には見られない珠玉の言葉の輝きに満ちています。それはどこから来るものだろうかと私は考え続けてきました。畢竟鑑三翁の言葉は、翁自身の実体験から完膚なきまで誠実に絞り出されてきていることに気づかされます。

言い方を変えれば、鑑三翁が死・生・生命・永遠・永生等に関して表現した言葉の底には、妻かずの死や娘ルツの死への思念が沈み込んでいるのです。そして読んでいる私をぐいと深みへと高みへと誘い続け、気づかぬうちに深い思想性の世界へと導いてくれていたのでした。

この鑑三翁の実体験に基づく記述内容に対する「誠実」は、次のような一文にも同様に示されていて私は共感を覚えます。

『劇作家の木下順二は(中略)次のように評している。「自己の体験として「ヨブ記」を読む内村の姿勢は、後世”学問的に”内村の読みかたを批判する人間たちのいわば《さかしら》 (注:原文は傍点)を圧倒する強い迫力を持っている。」』(『ヨブ記講演』(岩波文庫、2014、鈴木範久氏「解説」)』

(「さらば鑑三翁」/おわり)

 

※「鑑三翁に学ぶ死への準備教育」は次回から「我がメメントモリ」の連載を始める予定です。

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