鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅵ284] 安楽死/考 (7) / 人はみな神の宮殿  

2024-02-11 18:19:54 | 生涯教育

私が鑑三翁のこの一文で注目するのは「知的障がい者教育の必要性は経済的な打算で説明できるものではない、なぜならば彼らは神の子だからだ」という一点である。そして鑑三翁は続けて以下のように記す。

【「この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。」(コリント人への第一の手紙8:11) これが全ての弱き人、全ての苦しむ者、全ての貧しい者を救おうとする最高で最も深い動機である。路頭に迷う家のない子ども、警官に追い立てられる乞食(こつじき)の者、経済的には社会に何の価値も見出せない知的障がいの者、歩行障がいの者、目の見えない者、耳の聴こえない者、話せない者、四肢欠損の者、これらの者は皆「キリストが代わって死なれる弱い者たち」である。しかるがゆえに貴いのである。彼らでさえもし神の御心(原文「聖旨)にかなえば信仰によって神を見ることができ、また天使の如き者となることができる。彼らに危害を与えることは、金剛石を砕き名馬を屠殺する事に比較すべきもない罪悪である。神の像を冒瀆する者は神そのものを冒瀆したのと同じ罪に問われるのだ。人類は無意識のうちに人間の生命を尊重してその造り主を崇めている。神の像を人間の代表者として見て初めて人間の生命が貴い理由が分かるのだ。‥人間は神の宮殿として貴いのである。】

何ゆえ人間の生命が尊いのか、心身の障がいや不自由や弱さをもつ人間も等しく尊いのか、それは神が造り給うた像だからだ。だから心身の障がいがあるからと言って彼らを傷つけてはならない。心身の障がいや不自由をもつ人間も神の御心にかなえば神のもとで神を見ることができる。しかるがゆえに人間の生命はお互いが尊敬し会わなければならない‥これが鑑三翁の確信である。

私が「安楽死/考」で論を進めるにあたっては、「安楽死法」制定の声も強くなっている昨今、現今日本の政治/司法世界や法律家を取り巻く倫理的問題を避けて通ることはできない。だがこのような倫理観念は、法律世界の判断にシフトするや否や一旦棚上げにされることに気づかされる。先述の『いのちの法と倫理[新版]』の葛生氏らが「まえがき」で次のように記す意味を考えるべきだろう。「(本書は)多元的な視点から問題を扱っている点である。‥法「と」倫理を、慎重に区別しつつも分離せず、両者の関わりを視座に入れて論を展開している」と敢えて強調しなければならないほどに、ともすれば司法の場では「六法全書」と厖大極まりない「判例」の海で裁判官判事検事弁護士ら律法家は、暴力的な多忙さと己の安心立命と権力への慮り忖度によって「法と倫理」の関係を問わずに判断を下している実態が存在するのだ。

日本の司法関係者は「律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがし」(マタイ福音書23:23) ている。この聖句は、司法関係者に哲学的思念が欠落し、共感性に欠け、道徳的/倫理的判断を避けているために、社会の不安定さの一因ともなり倫理的/道徳的頽廃に加担してゆく運命をだどっていることを指弾していると私は解釈している。旧約聖書にも「悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために、人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている。」(伝道の書8:11)とある。司法関係者への警告と読むべきだろう。

日本の司法関係者の道徳的/倫理的判断における責任は重大である。とりわけ「安楽死」をめぐってはそのことが肝であることを強調しておきたい。


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