鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅵ282] 安楽死/考 (5) / その前に「告知」の周辺

2024-01-28 18:06:43 | 生涯教育

ここで「死ぬとわかっている病気」とは、医師の科学的な診断と判断に基づくもので(鑑三翁の時代にも私の生きている今の時代でも)、あらゆる治療手段を駆使しても治癒の可能性がない病気を指している。ここでの主役は診療を行う医師である。次に「必ず全治することが可能とみなして」とは、医師が患者本人及び家族に向けたメッセージである。ここでの主役は三者即ち医師・患者/家族である。医師は彼の知識(文献、知識と経験、複数の医師によるカンファレンス)によって治療の方法はなく治癒困難であると診断した。

さてここで最初に問題となるのは、診療現場での病名の「告知」である。近年でこそ患者本人に病名告知することが一般的となっているが、これをそのまま「ロボット告知機械」のように(訴訟や面倒を恐れて、あるいはがん保険のこともある)そのまま患者に告知する医師もいるだろう。だが「告知」の主体者は医師ではなく患者・家族であることを医師・医療者は十分に認識しなければならない。患者・家族とは社会学の教科書に書かれているような画一的な存在ではない。日々を生きている人間だ。

治癒が不可能な病気であることを何らかのメッセージでほとんどあるいは完全に認識していて、なお告知を望まない患者もいるだろう。また告知そのものにあまり重大な意義を認めていない患者もいるだろう。あるいは告知そのものを“放置される”とか“見捨てられる”と考えて絶望してしまい、そこから立ち直れなくなると予測される患者もいるだろう。もちろん「告知」を受けて余命を知り、残りの時間を仕事の完成や事業の継承、財産処分等に使う患者もいることだろう。こうした患者の諸相を考慮せずに、精神的な負荷も軽くなるので事務的機械的に告知をしようとする医療者がいるとすれば、それは医療者自身の未熟さと傲慢/不遜を証明するだけだ。

患者の内的な世界をどのように正鵠に判断できるかという問題、医療者の圧力で患者や家族が発言もできない関係になってはいないか、今日は病気の重篤な症状が患者を圧倒していないかどうか、患者の身体の力と生活行動能力、患者を取り巻く生活状況、そして家族関係、何よりも患者自身が今何を感じ何をしたいのか、告知をすることで患者が診療行為に参画することができより有効な診療が可能になる‥‥このように多方向から総合的に告知の問題は検討されるべきである。

医師の故河野友信さんは、病名告知のあり方として次のように述べている。(叢書・死への準備教育/第2巻第7章「「告知」の考え方」)(私の連載「Ⅲ173告知マニュアルの不実」でも触れた。)

①病名を告知する目的と意義を明確にすること。

②病名を告知する対象が病者であれその家族であれ、病名を告知した結果起きるかもしれない精神的な問題に対応できるようあらかじめ備えておくこと。

③病名を告知するに際しては、相手の年齢、自我の強さ、性格、知能、教養、社会・経済的状況などを考慮して、病名告知後の反応を予知しておくこと。

④病名を告知するかどうかの判断は、上記に加え病気の性質、病期、重篤度、予後、さらに病者の希望、必要度、宗教や信条などを考慮すること。

⑤病名を告知する場合は、あくまでも病気を告知することが病者にとって有用であることが必要条件であり、かつ家族にとっても社会にとっても、願わしい状態であればなお望ましい。

河野さんの「告知」の考え方には、医療者としての経験と哲学的思慮が伺える。こうした考え方を前提とせず、”闇雲に”百㌫告知するという方針の医療機関や医師たちが近年多くを占めている。もちろん民間がん保険の問題や訴訟の問題があるとはいえ、彼らはこの河野さんの言葉をどのように聞くのだろうか。医療者は多忙で入院期間も極めて短くなっている今日の医療現場で。


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« [Ⅵ281] 安楽死/考 (4) / 鑑三... | トップ | [Ⅵ283] 安楽死/考 (6) / 人間... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

生涯教育」カテゴリの最新記事