鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅵ281] 安楽死/考 (4) / 鑑三翁「安楽死」論‥試論   

2024-01-21 10:09:03 | 生涯教育

さて鑑三翁である。この森鴎外の小説等に関して鑑三翁が評論を加えた記録はないのだが、普段から購読していた雑誌の事なので鑑三翁がこれを読まなかったとは考えにくい。むしろしっかりと読み込んだことだろう。その時鑑三翁の胸に去来したものはどのような思いだっただろうか。

鑑三翁のキリスト教信仰は深く厳しく柔和で慈愛に富むものである。鑑三翁のこのキリスト教的信仰の堅い岩盤から「安楽死」を考えたとき、どのような論稿を執筆しただろうか‥この事に私は強い関心を抱いている。

鑑三翁のキリスト教信仰では、生と死は神の手に委ねられているので、死の瞬間も神の腕(かいな)が神の国に自分を誘ってくれるのだから、死の瞬間を「人」の手に委ねることはできない‥しかし森鴎外『高瀬舟』の場合には、死の瞬間を委ねたのは心を通い合わせてきた信頼する兄だ、弟の苦悶を兄は痛いほどわかっていたのだから、刃物を抜いた兄の行為は許されるのではないか‥だがこの行為を軽々に「諾」と明言することは望ましくはない、なぜならば浅薄に物事を考える輩やこれを都合よく「愛国」と結びつける輩が日本では多いからだ‥あくまで「安楽死」の問題は個々に判断すべきであって、この問題に関わる人間は自らの実存において判断すべきだ‥鑑三翁はこのように考えたのではないかと想像する。

事は一人の人間の生命に関する事柄である。死は「イエス・キリストを信じる者にとって、死ぬことは益であるとさえ言える。終りの時は運命ではなく、神の恵みとして与えられる」(新聖書辞典、1985) とは言え、これは死を賞賛しているのではないことは自明のことだ。生きることは尊い、神から与えられた人間の生命は尊いものだからである。では何ゆえ人間の生命は尊いものであるのか。鑑三翁は「安楽死」問題を考えるにあたってこの事をまず考えよ‥と言うだろう。ここで鑑三翁の「人命は何故に貴重なる乎」を読んでみる(全集14、p.372)。現代語訳した。

【 人命はなぜ貴重なものであるか‥これはあたかも自明の理のようであるが、実は大変難しい問題である。人命はなぜ貴重なものであるのか、なぜ赤子の生命は数十万円もするアラビヤ馬よりも貴重なのか、なぜ法律の前では乞食(こつじき)の生命は貴族と同様に貴重であるのか、なぜ死ぬとわかっている病気の人を必ず全治することが可能だとみなして看護すべきなのか(注:原文「何故に死ぬる病人とは知りつゝも全治し得べき者と見做(みな)して之を看護すべきである乎」)、なぜわが子だからと言ってもし殺せば他人を殺したと同じ罪に問われるのか、なぜ自分の生命なのだからとして自殺することは極悪の罪悪であるのか、これらは(以上の事柄は)明白な真理ではあるが、しかし全ての人がよく理解することのできる真理ではない。】

私はこの一文の「なぜ死ぬとわかっている病気の人を必ず全治することが可能だとみなして看護すべきなのか」に注目した。


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« [Ⅵ280] 安楽死/考 (3) / 懇願... | トップ | [Ⅵ282] 安楽死/考 (5) / その... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

生涯教育」カテゴリの最新記事