鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅳ226] 日本人とか日本社会とか(6) / 拝金宗宗祖・福澤諭吉 

2023-03-19 20:51:31 | 生涯教育

明治維新直後の明治政府の財政は、歳入を不安定な年貢や御用金、紙幣発行などに頼り財政基盤はぜい弱であった。そこで維新政府は1873(明治6)年には地租改正に着手して税源を確保、引き続きそれ以外の税制改革に着手し、安定した国家財政基盤を確保するようになって行った。その際には各国の収税法等財政制度を紹介していた福澤諭吉の『西洋事情』(1866~70年にかけて刊行)が明治政府の基本資料の一つとして重用されたと言われている。福澤も財政制度改革に顧問格で関与した。

福澤諭吉は今の我々日本人にとっては一万円札を飾ったりして馴染みのある人物だ。彼はどのような人物なのか。

「福沢諭吉:〈1835-1901〉、幕末-明治時代の思想家。豊前中津藩(大分県)藩士。大坂の適塾で学び江戸で蘭学塾(のちの慶応義塾)を開く。英語を独学して幕府の遣米使節に同行して咸臨丸で渡米。以後2回欧米を視察。その後幕臣となり外国奉行翻訳方をつとめる。維新後は官職を辞して在野にあり、1882(明治15)年「時事新報」を創刊。著作に『西洋事情』(1866-70)『学問のすゝめ』(1872)『文明論之概略』(1875)など。人間の独立自尊、実学の必要性を説き、脱亜論をとなえた。」(デジタル版日本人名大辞典+plus、講談社、2015)

鑑三翁はこの福澤諭吉を厳しく批難している。まずはその一文を現代語訳した。

【彼(福澤諭吉)も又九州人である。そして世間は彼の功績と影響力に幻惑させられており、彼がこの国に流布した悪影響を自覚していない。それは彼が言う所の”金銭は実際的な権力である”は福音のようになっている。彼によって「拝金宗」は恥ずかしい宗教となった。彼によって日本の”徳義”というものは利益を得る方便の意義しか持たなくなった。武士道精神は善であれ悪であれ、愚弄されて悉く排斥されてしまった。彼(福澤)は財産を作り、その弟子たちも財産を作り、彼は金銭財産の神に祭壇を築いた。そうすることで金銭財産の神は彼に恵みをもたらしたのである。

無遠慮に恥ずかしげもなくいたずらに金の利欲を好んだ者は薩摩人と長州人である。このような利欲を学問的に正当化しこれを伝播させたのは福澤翁である。日本人は福澤翁の学問的な立場からのお墨付きを根拠に、良心の呵責もなしに利欲に耽溺し落ちぶれるようになってしまった。薩長政府の害毒は一つの革命によって洗い流すことができるだろう。ところが福澤翁の流布した害毒は、精神的な大きな革命を施さなければ、到底日本人の心の底から排除することは出来ないであろう。】(全集第4巻、p.157。内村鑑三選集6、胆汁数滴三十/福沢諭吉翁、p.20、1897〈明治30〉年4月)

鑑三翁が福澤を批難するのには大きな理由があったに違いない。

福澤は英語を独学で学び話すこともできたので、薩長政府の通訳として、又政策立案の重鎮として招聘され訪米訪欧も果たしている。私は福澤の研究者ではないので十分な批評はできないが、福澤の欧米滞在では、当時経済的発展を急速に果たし世界経済をリードし始めていたアメリカやヨーロッパ諸国の経済優先の実利主義的な考え方と財政制度、税制、経済法体系に刮目し、その経済の発展ぶりに目を見張らされたことだろう。そして日本でも欧米の経験主義・実利主義・功利的な考え方に学び、経済的発展を遂げる必要性を痛感したに違いない。

福澤は薩長新政府からは距離を置いていたものの、新政府の顧問的役割は大きく政府との関係を断つことなく、明治政府に大きな発言権を保持し影響を与え続け、政財界及び言論界での存在をゆるぎないものにしていた。だが政府の「富国強兵」改革への要請は強大で、改革を急ぐあまり市民国民の福利的視点は福沢の視野から完全に脱落していたことは事実であろう。福澤には「仏つくって魂入れず」の制度改革であったことは否めなかった。したがってその改革の過程では、先述のように藩閥政府による専制政治を批判して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約の撤廃、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げていた板垣退助らの主導による自由民権運動とも対立した。

このようにして福澤が、政府と不即不離の関係で社会的にも目に見える形で活動していた姿を、少なくとも鑑三翁は軽侮の眼差して見ていた。新政府も日本の世情も少なくとも精神的には後退するばかりで、日本人も鑑三翁の言う「亡国の民」の如く堕落しているではないか、東北の寒冷地の冷害で困窮する民への支援もなく、鉱山開発で汚染された鉱毒地の被災者を支援することもなく、ひたすら「強国」を目ざし「経済的強者」に財政的恩恵を与える薩長政府何者ぞ、斯様な倫理破綻した政府を「実学」の強味だけで思想的背骨を支える福澤翁何者ぞ‥‥という気概が鑑三翁に満ちていたことは確かである。

アメリカやヨーロッパで経済的な発展の部分に着目して資料を入手して帰国した福澤翁と、その部分にこそ絶望して無教会主義を決意して帰国した鑑三翁との決定的な相違である。ほぼ同世代を生きた鑑三翁と福澤は、言ってみればお互いが「逆の方向」を見ていた。福澤は「社会開発・経済発展・軍備増強」、鑑三翁は「社会改良・社会変革・社会救済・人間教育」こそが日本の将来にとって「最重要課題」だと見なしていた。だからお互いの見解が共鳴することがなかったことは当然のことであった。

日本では2001年の小泉政権及びその政策を継承した安倍政権以降、苦し紛れに「新自由主義経済」ともっともらしい表題を付して竹中平蔵氏ら政商が並走するように跋扈してきた。そして大企業を優遇する法人税制や特定産業・特定企業を厚遇する新たな政策を創出する一方で、消費税増税や労働者雇用の不利益を無視した労働政策(非正規労働者の急増等)等々を推進してきた。ところがこれらの政策の数々は、世界的経済学者・宇沢弘文氏が往時いみじくも喝破していたように、特定の企業や投資家や企業経営者のみに過度な利益をもたらす"強欲経済政策"に過ぎなかったのである。この事はこの20年間の歴史的事実が証明したところだ。日本の技術開発力は減衰し国際競争力を喪い、畢竟日本の産業界全般も衰退し、GDPも減衰の一途を辿り、労働者賃金もOECD諸国の中で唯一低下してきた国となったのだ。

上記竹中某は福沢諭吉の伝統を継承する者であることを自負しているらしい。このことを鑑みると、邪悪な「拝金宗」宗祖が今悪魔の指令を抱いて再来していることに気づかされるのは私だけだろうか。鑑三翁の「社会改良・社会変革・社会救済」は未だ遠い主題なのだろうか。


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