どんぐりさんの日記に「夫のカーディガンが編みあがった」という記事を見た。そういえば最近は編み物なんていうのは流行らない、というか編んでいる人を見たこともない。といっても見る機会もないのだろうが、毛糸のセーターそのものを見なくなっている。昔なら彼のために、とか夫のためにと言った具合にセーターを編むのが女性のひとつの景色だったようにも思う。差別などと言われてしまうと何も言えないが、そういう景色がどこか落ち着きをも醸し出したものだ。年老いたからそういう世代の人たちの考え方というものも耳には入らないが、どんぐりさんの記事を見て少し安心した。
そういえばと思い出したのは、結婚して数年たったころ、妻がわたしにセーターを編んでくれた。当時はけっこうセーターというものを着ていたからセーターはいくつあっても困らないものだった。袖を通してみると、ちょっとぴったり。ようは小さくはないのだが、セーターとその下のシャツなどとの空間が窮屈。簡単に言えば少し小さめということになるのだろうが、せっかく編んでくれたものなので「小さい」などとは言えなかったのだが、正直者のわたしはすぐに顔に出てしまうタイプ。「小さいよね」と妻の方から切り出して、「弟の分も編もうと思っていたから弟にやるね」と言うことになった。わたしの分はまた編むというようなことを言ったように記憶する。ところがそれからもう20年近い。いまだにわたしのセーターが編まれる雰囲気などない。
思い出したように「昔セーター編んでくれたよね」と突然口にすると、「どうしたの」と不思議そうな顔で「今はセーター流行らないから」ときた。まったくその通りで先日も書いたようにセーターなるものはまず着用しなくなった。着用しないということはそれほど必要ではないということになる。「今はフリースがあるから」と妻が言うように、軽いし暖かいし洗濯もできる、ようは扱いやすいということになる。手づくりの良さなどという言葉があるが、そもそも暖かいという目的のためなら手作りなどというものは飛んでしまうほど、合理主義の時代である。
かつてなら冬といえばウールというほどに「暖かさ」の代名詞的存在だった。もちろんそれ以外の素材もいろいろあったわけで「編む」=ウールと限ったわけではないが。最近最も身近な編んだモノは、シンクに常に置かれているアクリルの布きれである。一応アクリルタワシということになるだろうか。
そういえばと思い出したのは、結婚して数年たったころ、妻がわたしにセーターを編んでくれた。当時はけっこうセーターというものを着ていたからセーターはいくつあっても困らないものだった。袖を通してみると、ちょっとぴったり。ようは小さくはないのだが、セーターとその下のシャツなどとの空間が窮屈。簡単に言えば少し小さめということになるのだろうが、せっかく編んでくれたものなので「小さい」などとは言えなかったのだが、正直者のわたしはすぐに顔に出てしまうタイプ。「小さいよね」と妻の方から切り出して、「弟の分も編もうと思っていたから弟にやるね」と言うことになった。わたしの分はまた編むというようなことを言ったように記憶する。ところがそれからもう20年近い。いまだにわたしのセーターが編まれる雰囲気などない。
思い出したように「昔セーター編んでくれたよね」と突然口にすると、「どうしたの」と不思議そうな顔で「今はセーター流行らないから」ときた。まったくその通りで先日も書いたようにセーターなるものはまず着用しなくなった。着用しないということはそれほど必要ではないということになる。「今はフリースがあるから」と妻が言うように、軽いし暖かいし洗濯もできる、ようは扱いやすいということになる。手づくりの良さなどという言葉があるが、そもそも暖かいという目的のためなら手作りなどというものは飛んでしまうほど、合理主義の時代である。
かつてなら冬といえばウールというほどに「暖かさ」の代名詞的存在だった。もちろんそれ以外の素材もいろいろあったわけで「編む」=ウールと限ったわけではないが。最近最も身近な編んだモノは、シンクに常に置かれているアクリルの布きれである。一応アクリルタワシということになるだろうか。