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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「井揚用水より頭首工用水へ-伊那市福島-」-『伊那路』を読み返して㊾

2022-08-21 23:03:21 | つぶやき

「大島の梨-下伊那郡松川町-」-『伊那路』を読み返して㊽より


 『伊那路』昭和38年9月号には、弾塚邦武氏の「井揚用水より頭首工用水へ-伊那市福島-」が掲載されている。冒頭に「伊那市福島の水田潅漑は数百年前から大井下井の井揚用水によって行われていたが、去る昭和三十七年から県営伊那農水頭首工用水に切り替えられることゝなった。」と記されている。現在の上伊那郡伊那土地改良区の三日町頭首工へ切り替えられたことを述べている。「井揚」とは用水を揚げるために河川内で作業をすることを述べているようだ。弾塚氏の文はなかなか理解しづらくはっきりしないところが多いが、この時代のものは、わたしのように読み解く力のない者にはとっつきにくいところがある。記事の内容が、ふだんのわたしの仕事に関わる部分なので、読みづらかったものの改めて読んでみたというわけだ。

 伊那市福島は天竜川左岸の川沿いの地域である。かつては支流の瀬沢川や棚沢川流域の上段山麓の手良地区と同じ行政区にあった地域。段丘崖に集落が南北に展開し、天竜川に沿って水田が開けていた。弾塚氏が「当区民に親しみの深かった」という「大井」は、おそらく集落に添って流れていたため、生活用水的に親しみがあったためだろう。おそらくその「大井」は、現在の同土地改良区の左岸幹線をいう。弾塚氏がいつごろからその井があったのか、と引用する寛文2年の絵図は、盛んに福島地区を語る際に利用されるもののよう。実は弾塚氏の記述がどうもわかりづらいため、『伊那市史』にその事実を求めたが、あまり詳しく書かれていない。弾塚氏の記述の方が情報は多い。『長野県土地改良史』も同じ絵図について引用しており、内容は乏しい。ようは詳述されたものは少なく、手元の資料では把握できなかった。大井のうち上井が現在の左岸幹線、下井は水田地帯を流下する主たる水路がそうだったのだろう。上井は瀬沢川下流の中途から同川の水を引いていたと弾塚氏はいうが、当初がそうだったものが、後に現在のように瀬沢川を下越しするようになったのか、そのあたりは明確に記されていない。また下井は天竜川へ瀬沢川が合流する地点より下流で天竜川の水を取水していたという。かつていくつもあった取水口は、昭和26年に改良区が設立されて以降、同31年までの間に一括されて三日町頭首工へ統合された。左岸側に引かれた用水は、同左岸側でふたつに分けられ、一つは天竜川を下越しして右岸側に渡り、現伊那市内まで導水された。もう一方はそのまま左岸側を下り、上述した福島を経て、伊那市中央区まで南流する。いずれの地域も下流域には住宅や工業団地といったものが開発され、水田は激減している。実は弾塚氏が著した「福島」の地も、現在は工業団地や商業地が天竜川沿いに開発されて、そのほとんどの水田が転用されてしまっている。弾塚氏は末尾に「天竜の護岸工事、土地改良、頭首工用水への転換 伊那バスの定期運転(昭和三十一年)と、当区の様相は全く一変して実に隔世の感がある。」と記しているが、現状は弾塚氏の記した時代と比較しても「隔世の感」だろう。

 さて、大井下井の思い出を次のように記している。

 毎年四月上旬井揚をやった。屈強の男達が裸であの木牛を入れるのも、その牛を沈坐させるための蛇籠へ玉石を手繰で送るのも、皆井揚作業の一つである。其後区民総出動の井浚行事があって、四月十日頃には両井を水が通るようになる。晩春の頃にはモロや小鮒が川草に戯れ鱗を光らせる。時にはカワセミが杭にとまって無心に遊
泳する小魚をじっとねらっている事もある。初夏となってガゴ(ハヤの雄)とハヤが連立って川を溯る様はまことに青春溌刺としたもので遂追わずにはおられない。農は仕付時が来て多忙、終日の代掻が終って馬もろともに夕暮の下井の清流に浸る。馬は両岸の草を食い自分は手足の泥を洗い落す。水を頭にかぶると一日の疲がとれる
ようで清々しい。馬にも全身水を浴びせて背から尻へと泥を拭ってやると、愛馬の毛並が艶々として終日の労苦をねぎらってやったような気がして嬉しい。魚捕! 水泳! 盛夏は全く子供の天地である。堰には水が深々と湛えられて子供等の遊び処であった。

現世では見られなくなった光景であるが、この光景を思い浮かべられる人も、もうそう多くはない。

 

「駒ヶ岳遭難五十年特集」-『伊那路』を読み返して㊿


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