Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

地域研究の進む道

2007-11-08 12:08:35 | 民俗学
 自らも関わり、そして今も関わっている長野県民俗の会。最近発行された「長野県民俗の会通信」201号を拝見して、思うところがたくさんある。同通信は隔月で発行される。このところのその誌面は、1人の投稿者による記事で成り立つことが多い。簡単にいえば原稿が不足しているのだろうが、それにしてもワンパターンの誌面が続き、多用な面が見えないわけだ。このことは会員みんなの責任でもあるのだろうが、それを会員層の高年齢化といって済ますわけにはいかない。

 事務局を担っている細井さんは、今号の一人記事の本人である。毎年行われている夏季調査のことについて触れている。今年は旧大岡村で行う予定であった。数年前、仕事で関わることの多かった大岡だけに、興味深い地域である。そんな地域での調査だから参加したいという気持ちがあったのだが、今年もまたこの季節は忙しさに追われていた。夏休みは結局1日しかとれず、少し余裕ができるとまた次の難題がやってきて、このごろの無駄働きは、とても不健康な暮らしを強いている。そんな状態だから関わりはあっても「また1年が過ぎてしまった」と毎年言い訳をしながら、10年も宿題をそのままにしているような状態だ。細井さん曰く、「日程などを変更したこともあり、参加者が1人ということで、当初の泊まりの調査を取りやめ・・・」という具合に参加者がいよいよ1人、2人というような状態にまで陥っているようだ。春先の南信例会もさほど変わらない参加者3人という状態であった。なかなか顔を合わす機会もなくなり、どれほど忙しさに追われているのか、などと時おり考えたりもする。自らを思い起こすと、かつて今以上に忙しかった時代でも、顔が見えたから「やらなくてはならない」という使命感のようなものもあった。ところが誰も何も言わなくなる、そして顔が見えないから怒っているとも笑っているともわからない。だからますます使命感はなくなり、できそうでもできないという具合に1年が経過してゆく。世の中は皆忙しさに追われ、とてもこんな「暇なことはできない」などという回答を導いてしまう。しかし、それは違うと思うのだが、それほど人々の関係は悪化し、若者(この場合の若者は現役世代すべてを言う)には余裕がなくなっているということになるだろう。世の中で自由な時間を楽しんでいるのは年配の人たちばかりで、では、これからそこへ足を踏み入れる人たちはどうかといえば、なかなか精神的にも金銭的にも余裕があるとは思えない。田舎ではとくにそういう傾向が見えてくるはずだ。

 子どもたちには多用な課題を提供するものの、歳を積み重ねるとともに、文系では食えない、という印象が強まって優秀な人たちはおおかた理系へと進む。地域のことへ目を向ける若者がいないのだから地域が低迷するのは当然の道筋ということになる。定年を迎え年金で暮らしている人たちが裕福だとは言わないが、若き時代に自由な時間を持てないでいる人たちをみるにつけ、なんとかならないものなのか、そして使命感ではないが役割をもっと分担すべくゆとりが持ち得ないのか、などと思うが簡単にはいかない時代である。どことなく若い顔が見えず、年老いた同で物事が進んでいると、ますます低迷感を覚える。

 近ごろ「寝不足で懸命に…20年で最短」という見出しを見た。日本人の睡眠時間がここ20年で最も短くなったという。最も短い世代は45~49歳で、7時間5分、次いで40~44歳と50~54歳が7時間9分だったという。統計上の平均だからなんともいえない数字であるが、統計上でいえば最も短い世代にいる自分の睡眠時間は、平均よりは短い。夜型社会といわれたのはもう昔のことであるが、睡眠を惜しんで何をしているのか、仕事を遅くまでやっていれば睡眠時間を削るしかなくなる。それでも自分の時間を持とうとすればカネのやり繰りより難しい課題である。ただしこの統計を安易に捉えてはいけない。岩手県では、平均睡眠時間で全国4位の長さ、仕事時間は全国平均よりも23分長いといい、最も短い京都府よりも46分も長いという。「働き者で健康的」という捉えかたができるのだろうが、職種内容にもよるところが大きく、仕事時間が長いのはいまだ主産業が農業というような説明を記事ではしている。この考え方が適性とも思えないが、仕事時間が長くね睡眠時間が長いということは、余暇時間がないということになる。いわゆる地方にあたる岩手県の現実は興味深い数字である。

 若い人々の進む道がかつてとは違う、という説明で成り立ってしまうこうした地域研究の底辺で低迷している団体は、このまま終息へ向かってしまうのだろうか。11/7「長野日報」朝刊において、「半世紀の活動集約」という見出しで、文集「石楠花」が最終号を迎えたという記事があった。本の読み聞かせを通じて子どもたちに読書の魅力を伝えてきた上伊那PTA親子文庫か年に一回発行していた文集は、半世紀にわたって続けられてきたが、上伊那図書館の閉館などを契機に自然消滅状態にあったという。けじめをつける意味での最終号となったのだろうが、継続的にこうしたものを発行してゆくには関係者の強い意志がないと難しいものだ。若い世代への継承というものがなければ自ずと低迷してゆく。同様の道をたどってとくに地方の文化活動はますます消えてゆくことだろう。残念であることに違いはないが、年配の人たちが元気なだけではいけないのだ。そういう意味で、低迷し続ける地方の将来は、そういうところにも影響が出ているのだ。

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