9年前のこと、6月の末に次のような日記を、別ブログに記載した。タイトルは「新聞を読まない時代」である。
今はどれほどの人々が新聞を読んでいるものなのか。しばらく前にわたしの名前が新聞に掲載された。悪事を働いたわけではないので、気に留まるような記事ではなかったかもしれないが、翌日の信濃毎日新聞ウェブ版の閲覧された記事のベスト10に入っていたから、ウェブ上では閲覧数がそこそこあったものと思うのだが・・・。「この間新聞に出ていたなー」なんて言葉をそれ以来掛けられたのは3人だけ。会っている人が少ないのかもしれないが、新聞を読んでいない人が多いんだなー、とつくづく感じる場面だ。写真入ならともかく、名前だけではなかなか気づかない人もいるのだろう。とはいえ居住地も記されていたのに、地元でそう言われたことはただの一度もない。よほど興味を引かない記事だったのかも知れないが・・・。
実はこれ、当時絶滅種とされていたコケリンドウを発見し、正式にコケリンドウだと確認されたことに関する新聞記事が掲載された際に、発見者としてわたしが紹介されたものだった。はっきりいってこんな記事、興味もない人は読むはずもなく、致し方ない現実だったのだろうが、それにしても居住地が記されていたのに、地元では誰一人このことについて後に触れられなかっのは、いかに新聞を「読んでいないか」と実感したわけである。とはいえ、同僚には頻繁に新聞に登場する方がいて、彼は盛んに職場内でも、あるいは知人からも「新聞出ていたね」と声を掛けられる。おおきな違いは、メジャーな案件か、マイナーな案件、かの違い。彼はスポーツ関連、わたしは自然系のもの。ただし、希少性あるいは重要性で捉えれば、わたしの記事の内容の方が「重い」とは思うのだが、だからこそ、新聞なんて「こんなもの」と思ったりする。
さて、かつて記したことがあると記憶するが、会社で毎日とっている新聞、読む人は限られている。とっているのは信濃毎日新聞と長野日報。なぜか信濃毎日新聞を手にする人は、ほぼ皆無。わたしもそうだが、自宅でとっている。したがって会社で手にする必要がないのは当たり前。とはいえ、自宅で新聞をとっていない若者が、それを手にすることはない。ようは若者のほとんどが新聞を読まない。ほかに情報を得る手段があるから当たり前だが、新聞に魅力がないのも事実。古い人間は新聞と言う容易に情報を得る手段が当たり前だと考えているから、自然と新聞に目が行く。しかし、若者とまで言わなくとも、30代、40代であっても新聞には興味はなさそう。もはや50代もそうかもしれない。新聞がこの後永続的にやっていけるかどうか、先行きは極めて難しそうである。
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