「遭難記念」
被弾した石仏
6月末に穂高を訪れた際に、烏川以北の有明新屋も訪れた。わたしも知らなかったことだが、穂高は戦時中に空襲を受けている。安曇野市の歴史文化遺産再発見事業実行委員会が令和3年に発行した『穂高の宝』には次のように書かれている。
昭和20年5月19日穂高 午前11時40分頃、1機のB29が、北アルプスを越えて来たから侵入し松本方面で旋回し安曇野市上空に現れた。空襲警報も鳴らず、人々は敵機とは思ってもみなかった。旧穂高小学校(現在の穂高交流学習センターみらい)の南150メートル付近に5発の爆弾が投下され、大きな穴があき、付近一帯の垣根や門柱、建物の屋根が吹き飛んだ。重傷者も出た。
有明地区 B29はさらに北上し、新屋神社北西100メートル付近に12発の爆弾を、道を挟んでさらに12発を投下し、旋回して南下して去って行った。そこには多くの人たちが苗代つくりや種まきの準備で働いていた。婦人会員たちは共同で供出用のサツマイモの耕作中であった。爆弾の破片が同区の女性二人に当り即死し、数名が重軽傷をおった。現在、その場所に遭難の碑が建っている。
ここでいう遭難の碑が冒頭の写真である。「遭難記念」とあり、「昭和廿年五月十九日」と刻まれている。このことは当時の新聞記事にもなく、また米軍の記録にもないという。したがってその目的は何だったのかはっきりしない。遭難記念碑の近くには石仏の破損したものが2体祀られている。壊れ方が廃仏毀釈の際のものとは違う。これらは被弾して壊れたものと言われている。国民学校を狙った空襲だったとも言われるが、任務を終えたB29爆撃機が、余った爆弾を廃棄するために投下したという説もあり、有力説とも言われている。
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