Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

思うこと

2024-05-10 23:59:59 | ひとから学ぶ

 平成14年11月30日にまだ上村だった下栗で長野県民俗の会総会シンポジウムが行われ、報告者の1人として発表の機会を持つことができた。その内容については、「下栗の自然と生業」と題して長野県民俗の会会報26号に発表した。そのシンポジウムの後、当日参加された大学生の女性から感想というか、意見をいただいた。わたしの報告はそれほど内容の濃いものではなかったものの、時を置かずに直接送っていただいたことに、ちょっと驚いたことがあった。そのことについて彼女に問うと、発表など聞いた際には、感謝の意味も込めて必ず感想を送っているとうかがった。「なるほど」と思ったし、それだけ速攻で意見としてまとめておけば役に立つんだろうな、などと感心したものだった。そんな経験があったから、「わたしも」とは思いもしたが、発表はもちろん、出版された本を贈っていただいても感想どころか返事もできないようなこともあった。この日記(ブログ)を始めた原点には、その際の出来事が少なからず影響している。平成17年の7月から始めているから、その数年後のこと。

 この3月末をもって退職して区切りとして自費出版本(内容は民俗関するもの)を印刷した。公開をしない予定のものだが、それらはお世話になった方々に配布した。多くは会社関係であるが、もちろん民俗の仲間にも配った。これまで出版されて贈っていただいた方々にもお送りしたのだが、その中には大学の先生で贈っていただいた際に何もお礼ができなかった方々もおられた。そうした方々から、お礼の手紙をいくつかいただいた。わたしは何もできなかったのに、励ましの手紙をいただき、あらためて感謝とこれまでの自らの対応のまずさなど、自己内省しているところである。とりわけ書評用にと長文をお送りいただいた先生は、開封後すぐに読んでいただき、すぐに書評形式でまとめていただいた。発送して1週間もしないうちのこと。これにはもう感謝しきれない思いだ。わたしもそうだが、「後で」と思っているとずるずると日が過ぎていき、思っていたことが無しえないのが常だ。ふつうの人はそんなものなのかもしれないが、繰り返すが冒頭の女性のような心持で、必ず感想を記す心がけは大事だと、つくづく思うところだ。日々の積み重ねが大きなものになる、そう思う。だからこそのこの日記なのだ。わずかずつでも1年には膨大な分量となる。もちろん内容は薄いが、後に資料となり得るものがたくさんある。

 そうした感想なり、言葉が欲しくて配布したわけではないが、受け取ったことへのなんの反応も示してくれない人も多い。とりわけ会社関係の方たちは、ほとんどが無音である。配布する必要があったのか、と自らに問う事にもなるが、これが現実だと、今は残念に思っている。退職時に慰労会を、という声をいくつも聞いたが、仕事が忙しいこともあってほぼ全て断った。それが間違いだったとも思わないが、意外に定年の日を境に、何ごともなかったように、再雇用の日々が始まり、1か月が過ぎた。もう何年もこんな感じだったのか、と思わせるほど、もはやよその人となっている。自らの鏡を見ているのだと、今は悔やみはしないが、もっと自由に生きてくれば良かったと思っている。ずいぶん人のために「やりすぎた」のかもしれない。その上でこの程度なのだから人間として何もなし得なかったのかもしれない。そういう意味では、あらためて過去の自分に戻れば良い、と今は思っている。


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