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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「せいの神」という違和感から その1

2023-05-05 23:16:22 | 民俗学

 「伊那市 セイノカミ」と検索するとYAHOOでは3番目にわたしの日記の2018年11月9日の記事「風邪を何に託して送ったか」が登場する(この日記をアップしたら登場しなくなったのであしからず)。そこには、

 風邪の神を送るといってワラウマを作りセイノカミの所へおいてきた。『長野県史』民俗編第二巻(二)南信地方 仕事と行事 昭和63年 847頁

という事例が報告されている。ここでいうセイノカミとは道祖神のことを指していると考えられる。とすると伊那市天竜川右岸では、道祖神のことをセイノカミと称している地域があるのだろう、とは推察される。

 実は同じ検索のトップには伊那市にあるみはらしファームの「せいの神」という記事が登場する。最新記事が掲載されることから2024年のせいの神という記事が開く。そもそも2023年なのに「もう2024年」?と思う。ようは来年のイベント行事を告知するページで今のところ「詳細は決まり次第更新いたします」と表示されている。みはらしファームは農業公園として知られ、温泉施設とともに直売施設などが公園内に設置されている。伊那市内では代表的な観光スポットともいえる。その施設の正月イベントとして毎年「せいの神」が行われている。この「せいの神」とはいわゆるどんど焼きのことである。今年1月16日の中日新聞ウェブ版にも「燃えるやぐらに1年の健康祈る 伊那で「せいの神」」という記事が掲載されており、そこには「伊那市西箕輪の農業公園「みはらしファーム」で十五日、小正月の伝統行事「せいの神」があった。地元の羽広地区の住民たちが正月飾りなどを焼いて無病息災を願った。...」とある。

 市民にとって認識度の高いみはらしファームのイベントということもあって、伊那市内での小正月の火祭りの呼称について「せいの神」という表現をされることがあり、以前から違和感のあった呼称である。しかしながら前述したわたしの日記にも触れているように、確かに道祖神のことを「セイノカミ」と称していた節もうかがえ、このあたりをあらためて検証してみることとしよう。

 まず『長野県史』での調査結果を紐解いてみよう。前述した『長野県史』民俗編第二巻(二)南信地方 仕事と行事の「火祭り」の項にその事例をうかがってみる。伊那市内で調査地点となっているのは羽広、小沢、野底、手良中坪、美篶青島、富県北福地、東春近下殿島、西春近山本のほか、平成の合併で伊那市となった旧高遠町と旧長谷村がある。これら地域の事例をあげてみる。

1.野底 ドンドヤキは、男女の子供たちが1月7日に各戸から門松を集めて川で焼く。戦後始まった行事である。

2.小沢、青島 子供たちが注連縄、松飾りを集めてドンドヤキをする。

3.羽広 ドンドヤキは何人かが適当な場所に注連飾りを持ち寄ってやった。

4.山本 セイノカミといい、子供たちが松飾りをムラじゅうからもらい集めて、1月14日の夕方道祖神碑の前で焼いた。「セイノカミサマワ」と歌いながら餅を焼いて食べた。(大正時代まで)

以上4例のみであり、旧高遠町、旧長谷村の事例は皆無である。近隣地域を見ても宮田村北割の「昔は1月20日、今は1月7日にドンドヤキをする」ぐらいであとは辰野町まで行かないと事例が掲載されていない。ここからうかがえることは、「火祭り」が実は希薄な地帯とも受け取られる。『長野県史』の調査地点では粗いということになるだろうから、事項では別の既刊資料を紐解くこととする。

続く


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