Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「ゴミ」は消えず

2009-04-12 22:49:21 | 農村環境
 「大金をつぎ込んでハードをつくる日本とは対照的に、制度や仕組みなどのソフト面て動かしています」とは環境に対して意識の異なる国々の潮流と日本の姿を見比べて語った環境総合研究所の池田こみち氏の言葉である。『生活と自治』(生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)の3月号の特集「「ゼロ」からの発想」において、池田氏へのインタビューが掲載されている。「どこかおかしくない?」と思うことは今までにも触れてきた。かなり分別回収がされるようになったゴミであるが、焼却ゴミにはさまざまなものが混じっている。排出量のもっとも大きな焼却ゴミなのだろうが、水分が多ければおのずと重くなって焼却負担を多くする。そんな焼却ゴミに剪定枝や雑草だって入る。農村地帯は今でも本来なら焼却してはいけないようなものを焼く人はけっこう多い。なにより焼かずにゴミ袋に詰めるなどといったらゴミ袋代はすごいことになる。とはいえ、好ましくないものを燃やすのはいただけないが、その気持ちは十二分に解る。農業も一事業者となれば、「農業だけに許される」というものでもないのだろうが、いずれにしても土に還すことのできるものはゴミではなく身近で循環させてほしい。しかし、いずれどう農業が方向転換するかにもよるが、農村地帯でもゴミ収集の場にそうした還元できるものがゴミ袋に詰められて出されるなどというのは珍しいことではなくなった。もちろんそれだけ非農家の人たちも多くなっているという事実があるが、農家の減少はこうしたところにも影響が出る。

 池田氏が指摘しているように日本では自治体がゴミの問題を抱え込んでいる。言われるもののいまだにモノを作っている企業側が直接回収したりするシステムは進んでいない。電化製品の大型なもの、あるいは高額なものに対してはシステム化されているものの、安価で小型のものに対しての対応は進まない。大きな、そして高額なものはそこに回収費用を加算してもそれを上回る実入りが期待できるのだろう。ところが安いもの、たとえば飲み物の容器にデポジットをかけることはできない。もちろんその方法が経済的とか合理的という判断が働いているのだろうが、結局買い換えた方が安いという意識に近いものがある。ハード優先という原点にも、ソフトよりはハードの方が日本人には向いているというものがあるのではないだろうか。それをいわゆる「箱物が好きな日本人」と形容してしまうと簡単なのだが、そこへ群がる企業がいることも事実である。それを映すような事実が『生活と自治』に掲載されている。「分別だけでは済まない現実」でとりあげられているのは、埼玉県寄居町に造られた県の最終処分場である。約98ヘクタールという広さの一角に彩の国資源循環工場が設置され2005年から稼動しているという。環境基準値の約27倍にのぼる鉛を流出させたことが発覚したり、基準の6倍というダイオキシンが検出されたことが明るみになったりと問題が相次いでいる。住民の心配をよそに県は循環工場の2期事業を進めるという。当初の施設が県の説明と異なる事情を見せたということで住民は事業に対して凍結を求めた。しかしながら「処分場は必要で、計画の見直しや凍結は難しい」というのが請願に対しての県会各派の反応だったという。ハード優先の政治の破綻は常にこういうスタイルに進んでいく。つまるところ弱者への対応はしだいにおざなりにされていく。強いてはどこでもこうした施設の建設に対して否定感を持つことになる。「へたくそな行政」の常道といえないだろうか。

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