Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

廃村をゆく人④

2008-03-08 19:21:55 | 農村環境
廃村を行く人③

 前回旧高遠町芝平のことについて触れた。あらためてそこから気がつくことについて少し触れてみる。

 時限立法の過疎法の期限内の助成を受けて集団移住をと始まった移住計画。同じようにこの時限立法内に移転をと考えた集落が、日本中にあったのだろう。現実的にそれを利用して移転した集落がどれほどあったかは知らないが、このごろなら期限内に合併を、と動いた平成の大合併も似たようなものである。役人が餌を垂らして飛びつく魚を待っているようでいけないが、現実的に助成でもしてもらわなければ簡単に全員が賛成というわけにはいかない。そういう意味で、昭和50年代という環境は、まだまだそうした時限立法で餌を垂らしても通用する時代だったのかもしれない。そして移転先の条件として同一行政区内という原則があったというから、好きなところへ移転できるというものではなかった。だから移住しようとする人たちが総意で決めるというのだから、いかに難しいことかということが解る。

 そして移転したあとのムラは、基本的には行政上存在しないムラとなる。そこに人は住んでいないことを宣言するわけで、これら廃村はだらだらとそこへ向かっていって無住になったわけではなく、明確にある日を境にそこに住む人はいなくなったわけである。触れているように芝平は、廃村になってからの経緯も注目できる。住民票を置くことはできないのに、その廃村に住み始める人がいる。ここ最近訪れたことはないが、平成9年ころに訪れた際には、下芝は明らかに廃村ではなく生きているようなムラのようであった。人影が外に見られなくとも、どことなく建物の中に人の気配を感じたりした。行政上成立しない集落なのに、現実的に人の気配を感じるという、ムラとしては成り立っていないから廃村に違いはないのだが、全くの廃村イメージはない。ようはこのあたりが廃村との境が曖昧なものだったといえる。ダムの湖底に沈んでしまった場合は、二度とそのムラに帰ることはできないが、こうした集団移住をしたムラは、どこかに息遣いを感じるわけである。

 この1月、芝平の手前半対川を遡ったところにある半対という集落を訪れた。ここもまた、集団移住で移転した集落で、廃村の一つである。しかし、芝平同様、まだ息遣いを感じるムラでもある。芝平ほど大きいムラではないが、そこに残る家々から人が出てきても不思議ではない。集落中ほどにある観音堂は、まさにそんな生きている存在で、ガラス張りの堂内は、絶えず人が訪れて整備されている様子がうかがえた。芝平でも移転後に諏訪神社が整備されているように、信仰にかかわる遺構はそう簡単には廃れないのである。この半対の人々は、芝平の人々が集団移住した旧高遠町の上山田地籍内に同じように移転した。移転後は同じように集団移住した三つの集落の人々とともに「三栄」というムラを作った。1月、雪が積もったかつての水田の脇で作業している人の姿を捉えた。農閑期であってもこうして管理にやってくる人がいる。廃村ではあるが、管理しようと、かつての住人にとっては大事なムラなのである。ムラという以上、集団の社会生活が営まれなければならないのだろうが、一軒でもそこに住人が残れば廃村とはいえないだろう。したがって、だからこそ廃村とそうではない住人の少ないムラとの境はそれほど明確ではないということなのだ。大平がとても廃村とは思えないという印象も、人の息遣いがある以上、まったくの廃村とは趣が違うということになる。

 続く

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