ずいぶん昔のことで既に過去に葬り去られたことであるが、今になってわたしには身近に考える問題になっている。それはかつて長野県知事であった田中康夫の住民票移転事件である。実際に長野市から泰阜村に住民票を移し、両市村の選挙人名簿に二重登録されていることに対して裁判になったわけで「事件」と表現して理解できる問題だった。結局居住実態のない泰阜村の選挙人名簿から取り消すように言い渡されたわけであるが、「事件」としての報道はともかくとして、こり時代にあって住民票と居住実態という考え方が、それほど重視しなければならないことなのか、と疑問を抱くわけである。田中康夫は、「好きな自治体に住民税を納めたい」として長野市にマンションを残したまま泰阜村に住民票を移した。もともと居住地と住民票の所在地が一致しない事例はたくさんある。近いところでは単身赴任がそうであるし、さまざまな意図があって同じくしない人の背景には、田中康夫が指摘されるよりももっと指摘されなくてはならないようなものもあるだろう。たまたま「好きな自治体に住民税を納めたい」という得意な発言が物議を呼んだわけであって、では移された側は「嫌いな自治体」ということになってしまい、そこに対立を生む図式であったことは言うまでもない。しかし、この考え方は後にふるさと納税が始まったように、必ずしもいかがわしいものではない。もちろんふるさと納税と「好きな」という考えは同一ではないだろうが、ではふるさとだけ保護されれば良いのか、と質問したくなる。それほどふるさととは偉大なものなのかと。もちろんこの時代にあって、すでに地方農村の人口が極限に至ってから「ふるさと」などと唱えても「遅い」という印象が強かった。
さてわたしは何が言いたいか、である。このごろこの日記でもときおり利用している意識であるが、わたしは妻の実家で休日に働いていることが多い。そこでの居住実態はゼロである。税金は一切払っていないかもしれないが、もしわたしがそこで働かなければ空間維持は限られてくるだろう。もっといえばほとんどの空間維持は妻が担っている。このごろは父母の介護という名目で居住実態が妻にはあるが、ふつうならそれはゼロに等しい。にもかかわらず空間維持に努めているのは妻なのである。たしかに住民票もなく、あくまでも父母の代理的立場であるものの、それが故に公には架空の顔として捉えられがちだ。ところが先日こんなことがあった。実家の周辺の土地に関して質問をしたところ「そんなことを言うのはあなたが始めて」と役場の担当に言われ、おそらく俗に言うクレーマー的リスト入りを果たしたのだろう。先日役場から結果の報告が電話されてきたのだが、本来隣接者に断る必要もないことだし、村の方針として今後もその件について進めさせていただくと念押しされ、加えて「クレームをつけるのは辞めていただきたい」と言われたという。このときクレーマー的リスト入りを実感したわけであるが、これに加えてこんなことを言われたというのである。そもそも「あなたは○○町に住んでいるわけで、○○家の人ではないですよね。わたしは○○家の人から直接今回のことをうかがったことは一度もない」と。いわゆる行政のシステムは地域のことは地域の代表が、団体のことは団体の代表が、という図式がある。ようは個人が好き勝手に自治体に要望を出さないように、という考えだ。これもごく理解できることではある。それを「家」に置き換えれば家の代表が、ということになるのだろう。役場の言うように、「よそに嫁に行った者が言っている」、それに対応しているようでは本来の行政サービスでは無いという判断が浮かぶ。
妻の実家の父母は高齢な上に、若干痴呆が始まっている。高齢であって障害を抱えている状況で、他人との折衝など無理からぬこと。妻には弟がいて事実上○○家のあと取りではあるが、それこそ居住実態というファクターを与えれば、妻と同様である。むしろ日中のほとんどを実家に身を置いている妻は○○家の事実上の代表者である。そもそも居住実態をわたしは「寝泊りをしている」と捉えていたが、その考えが正しいのか、などと疑問を抱く。こうした現代の多様な事情を鑑みれば、妻が役場に質問したことは筋の通らないことではまったくない。にも関わらずこの役場の担当者の発言は、農村社会の空間維持という実態をまったく解っていないことを露呈したことになる。繰り返すがこの時代の農村、とりわけ中山間の維持を担っている人たちは、よそからやってきて維持しているケースが多いはずだ。このあたりを冒頭の住民票問題に照らせば、田中康夫のアプローチはパフォーマンスだと言い切れない問題提議だったといえる。ただただ田中康夫という人間に嫌悪感を抱いた人々の対立だけでこの事件が終息してしまったことが、今思うと残念に思うわけである。繰り返すが、いまだにこのような自治体の職員がいるわけで、このような職員がいるかぎり、地方農村の将来は終焉あるのみなのではないだろうか。そんな人たちに監視されながら、この地で空間維持に励むことの情けなさを、また新たに実感したわけである。
なるほどねぇ。
あまり関係ないけど最近市議に当選したのに居住実態がないので無効だなんて話がありました。それの是非はともかく今までの物差しでは測れないことが多くなってきたのは確かですね。
>空間維持に努めているのは妻なのである。たしかに住民票もなく、あくまでも父母の代理的立場であるものの、
>妻には弟がいて事実上○○家のあと取りではあるが
>むしろ日中のほとんどを実家に身を置いている妻は○○家の事実上の代表者である。
>「あなたは○○町に住んでいるわけで、○○家の人ではないですよね。
★質問「信州信濃・長野県」の民俗(学)では、現在の「イエ」と「ムラ」と「その(イエとムラ)構成員」を、どのように捉え、どのように論じているのですか?