「五伍の法則」より
故松村義也氏は「凶作と村-飯島陣屋支配の村における実態-」(『長野県民俗の会会報』18)の中で五石以下の者が凶作の際にしわ寄せがくると述べている。そして「石」について「一石というのは一反歩の所有者」と説明している。「昔からいわゆる五反百姓ということを言いますように、五反歩以下の所有者、しかも五反歩の中には田と畑とありますね、田と畑の比率はだいたい田圃六に対して畑四と見ていいのではないかと思いますが、五反歩持っているというと、田圃が三反歩で畑が二反歩と、しかも石高の貧乏の小百姓は田圃にしても上等の田圃はないわけです」と五反百姓のことを片桐村之内七久保(現上伊那郡飯島町七久保)の例を示して説明している。そしてここからである、五伍の法則でどう近代の農村が仕組まれていったのかという疑問が沸いてくるのは。
七久保村の寛政9年の資料によると、「今までは高が五石以上あると百姓株を許した、新百姓に取り立てたと。ところがだんだん普通の小前百姓が最近多くなったと。増えてきたので始末が悪いと。「始末悪しき候うにつき」という言葉を使っている。だんだんこう小前百姓が増えてきたので、とにかく村としても始末が悪いので、これから古株、元からの百姓株をもっている者はいいとして、新規に百姓株を取り立てるという場合には、五石以上になってもこれから新規の百姓株というのは一切取り立てない」というのである。ここで百姓株の目安が五石から十石に引き上げられていくわけであるが、松村氏は七久保村の当時の石高十石以上の家数と五人組の構成員の数がほぼ同数だと指摘する。ようは五人組に入れるのは百姓株を持っていた人たちというのである。文化4年の七久保村南割における「五人組連印連下残らず書付の事」という五人組の資料には、組頭のほか組員が列記され、その下に連下といわれる無高あるいは高の少ない零細な者が記載されているのである。五人組はきっちり五人ずつ、連下はゼロの組もあれば10人以上いる組もある。この南割の場合5組×5人の25人の五人組と、連下23人がいたという。ほぼ50人となる。この後明治維新になるころに構成がどう変化していたのかは明確ではないが、前回触れた五伍の法則にあるように、「隣の五軒と隣の五軒を合わせてこれを十戸とする、十戸をもって一組とする」という場合に従来の五人組が引き継がれたのは予測される。そうするといわゆる連下に入っていた人たちがどう振り分けられたのか。例えば元の五人組とその配下に記されていた連下のみで隣の五人組が構成されたのか否か。五戸十戸が現在にも引き継がれているとしたら、そうした背景も係っているのかもしれない。とくに家の出入の少ない古くからムラには当時の枠組みが生きているのかもしれない。そしてここにいわゆる別家がどう構成されてきたのか、そんな疑問も浮かんでくるのである。
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