Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「ここで遊ばない」

2018-06-09 23:45:04 | 農村環境

 「ここで遊ばない」と検索すれば「看板」が連携する。「看板」といえば「ここで遊ばない」とイメージされるほど、遊びと看板と危険が連携している。先日も社内で看板の話題になった。関わるのはため池のような、まさに「ここで遊ばない」を注意喚起するもの。「でも今どき子どもがいなよね」、とはそんな看板を見ての同僚の言葉。確かに地方では子ども数そのものが減ったし、外で遊ぶ子どもの姿を本当に見なくなった。

 2016年9月に、東京都内から飯島町を訪れていた女性が、御座松キャンプ場近くのつり橋を歩行中、橋桁に営巣したスズメバチに全身30カ所を刺され、町に医療費や慰謝料など計140万円の損害賠償を求めた訴訟で、5月8日に武蔵野簡易裁判所(東京都)は町に約51万円の支払いを命じる判決を下した。この7日この判決が確定したと飯島町は記者会見を行った。スズメバチが歩行者を急襲する恐れがあることを「町は予見することが可能だった」と指摘。事故以前からハチの危険を知らせる目的で町が橋の近くに設置していた看板に不備があったとするもので、自己後町は看板を同様の危険がある場所10箇所に「看板」を設置したという。ハチに刺されて自治体が損害賠償を命じられた判例はないという。この例が今後の見本事例になっていくのだろう。地方でも「訴訟」という文字が当たり前のように踊るようになった。とりわけ大都市圏の人から地方自治体が訴訟をちらつかされる例も多くなったのだろう、もちろん住民からの訴訟珍しくなく、自治体の苦悶が浮かぶ。

 「遊ぶ子ども」がいなくても、訴訟を前にすれば事前の準備は必要だということ。滑稽に映っても、これが現代の光景なのだ。

 だいぶ前に記した記憶があるが、ここでよく触れる「西天竜」については、文献上に「西天竜」とのかかわりを記したものはとても少ない。回顧録を記載した『西天竜史』(上伊那郡西天竜土地改良区)や『西天龍』(上伊那郡北部教育会)に個人と「西天竜」の想いが若干綴られているが、一般の人々に目が留まるようなところで「西天竜」とのかかわりを記したものはほとんどみない。それほど無縁なものかというと、もちろん水田の耕作者にとっては縁があるものだし、集落を形成しているところでは少なからず「西天竜」との縁があるはず。そうしたなか、わたしからすると唯一とも言える想いを記されたものが、かつて『伊那路』(上伊那郷土研究会)に掲載されたことがある。昭和52年11月に発行されたもので、副題には「天竜川特集」とある。そう言えばと思うのは、そもそも郷土史誌であるにもかかわらず、『伊那路』に天竜川の想いを綴ったものもそう多くはない。もちろん「天竜川」を特集したものだから、「西天竜」は間接的なもの。書かれたのは竹入弘元氏。その中で竹入氏は、幹線水路で水泳をしたことについて触れている。「私はろくに泳げもしないのに幹線から支線に分水する所の鉄棒に縄を結び付け、それを頼りに泳いだ」という。また「神戸の沢をまたがる幹線の長さ数十メートル、目のくらむような高さのコンクリートの縁を歩いて渡った冒険もあった」という。ようは水路橋の縁を歩いたということで、今の鳥居沢の旧水路橋のことなのだろう。そのいっぽうで「悲しい出来事」と記しているのが幹線水路での死亡事故である。昭和5年ころのこと、伊那中学校(現伊那北高校)の生徒が自転車の練習中に幹線水路に落ち水死した。翌年その弟の小学生がやはり幹線水路で水死した。弟に紐を持ってもらっていて、それにつかまって試しに水につかったという。入水自殺や心中という例もあったようで、「この西天竜では僅か北大出辺での記憶だけでも十数人の死者をだしている」と記している。「防護施設が殆どない。平地にいきなり2メートル以上もある深い溝を掘って、コンクリートの壁は落ちたが最後、手の掛かるところがない。流れ流れて大概は箕輪町深沢のサイホン手前でひっかかるが、どうかすると小沢川まで持って行かれる。」と竹入氏は記し、バラ線程度では転落を防ぎきれるものではなく、万全の策を望まれている。昭和52年に掲載されたもので、この後の幹線水路更新工事で全線防護柵が設置された。

 さすがに「西天竜」で水死したという話を近年聞かない。対策と注意喚起、いまどき当たり前のことなのだが、想定外の訴訟も起きる時代である。


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