Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

かつての水路橋

2010-06-23 12:23:32 | 歴史から学ぶ
 「前計画にしても当時の金にして僅か百萬円を計上すれば現に掘りつつある川岸より辰野に抜ける隧道工事も当時併せて完成されたともいわれている如く眼前の小利に捉われることなく遠大な視野のもとに計画すること」と言われたのは西天竜幹線水路の川岸から上辰野までの区間のこと。建設当初は岡谷市川岸駒沢の天竜川を水路橋で渡ると、山の麓を等高線に沿って蛇行しながら上辰野まで導水されていた。横川川を渡るまでの距離は6キロメートルほどになる。完成した当時は「百年もつ」と言われていたコンクリート水路も、10年もたたないうちに問題が発生したりした。当時はまだ発電所はなかったものの、冬期に灌漑期の半分程度の水が流されていたようで、漏水箇所から氷柱ができたりして、いわゆる凍害による劣化が進んだようだ。昭和17年6月10日の信濃毎日新聞には「西天龍の幹線決壊」とある。辰野町長瀞地籍、東天竜取水口から天竜川下流百間ほどのところで起きた崩落である。天竜川に沿って蛇行する区間はこうした劣化に伴って災害を受ける要因にもなっていた。当時隧道新設に向け申請中だったという。この後10年余り、川岸から横川川までの区間はほとんど隧道になる。完成後20年ほどで6キロメートル近い水路が新たに隧道として掘られることになったわけであり、どうせなら最初から隧道にしていれば良かったのに、というのがおおかたの印象だっただろう。

 駒沢の水路橋があったあたりの川幅は40メートル程度と天竜川にしては狭い。最上流部にあたるから当たり前のことなのだが、往時の水路橋の姿は昭和15年に発行された『事業ノ概要』でその写真を見ることができる。現在はサイホンになっているが、サイホンの入口は天竜川から160メートルほど離れた位置にある。古い写真を見ていると、天竜川渡河地点より上流に向けてかなり長い水路橋が続いている。記録を紐解くと川岸の水路橋は507メートルあったと言うが、天竜川からこの距離遡ると現在の駒沢の水田地帯はほとんど水路橋で飛んでいることになる。当時26キロメートルほどあった西天竜幹線水路の水路橋の中では飛びぬけて長いものだったわけである。この駒沢の水路橋から下流の旧水路は、今もその形をとどめている。JR飯田線の窓からも天竜川の対岸にコンクリートの壁が連なっている姿を確認することができるわけで、遠目に見ても明らかに用水路であろうことは解る。この対岸には川岸の弁天橋を渡って堤防沿いに下って行くとたどり着くことができる。天竜川に山が接近しているがわずかながら数枚の水田が今も耕作されていて、その水は山からの湧水を利用していたのだろうが、この幹線水路ができてからは西天竜の水を補償的に貰っていたようだ。旧水路の傍らに分水の枡が設けられている姿を今も見ることができる。隧道化されたことで本川は山の中に追われてしまったが、現在耕作されている水田は旧水路内に僅かな水が流されて、そこから水をとっている様子。水路内は堆積した土に草が生えて水路という姿は内側には見られないが、その底にパイプを敷いて導水していることが、その水路をのぞくと解る。西天竜の分水工の最上流は新町からというのが認識なのだが、実際は取水後間もなく水田用水として利用される。川岸駅南の天竜川左岸に広がる水田地帯は、西天竜の水を利用している。これも補償的なもので、いわゆる受益というものにはカウントされない水田である。25キロメートルほどある幹線水路の上流から3分の1は地区外を流れるということで、周辺との約束がたくさんあったことだろう。



 写真は旧水路にその姿を残す水路橋の一つ。この水路橋も対岸からよく見えるもので、飯田線でも県道でも目にすることができる。

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