「文献から読む歴史②」より
新規に開田された地域に集落ができるということが、どういう地域現象を起こすか、そのあたりについて西川治氏は模索している。「長野県の町村別に1930ー1935年の間の人口増減を調べると、一般に水田地帯の農村の方が、他の地方に較べて人口支持率において強い」と言う(浜英彦「人口移動序説」を引用)。その上で1925年から1935年における上伊那郡内人口増減状態をみると、増加傾向を辿っている町村は「西天地区を容れる3町村と、赤穂扇状地にある二つの町村である」と指摘していて、いっぽう増加地帯の周辺、とくに天竜川以東においては高い比率で人口減少が起きているというのだ。「水田の多いものは桑畑の多いものに較べて1930―1935年間における人口減少が小さいことは興味深い」と指摘する。これは戦後のことではなく戦前のことである。ちょうど満州移民が始まる。「移民をたくさん送り出した町村が果たして養蚕に主として頼っていた所であったかどうか。そして移民への志向が恐慌によって拍車を掛けられたか否かを追及する必要がある」としている。ここに西天竜の開田がこの一帯での人口減少を食い止めたという考えが持ち上がるわけだが、西川氏はこうも指摘する。「1030ー1935年において人口が増加した町村が減少した町村とに分かれるが、増加した町村にしても自然増加による増加敷に達していない。すなわち人口の移出が行われていることになる。従って、たとえ森林原野や畑地の水田化が人口支持力を増したとしても、この期間には、最早自然増加による人口を凡て包容する余力が尽きていたと解される」と。
西川氏は中箕輪町にできた原集落と春日集落についてその出身地をまとめている。天竜川以東から移住したものもいるが、ほとんどは開田地帯の周辺からの移住者である。小作などをして生計を立てていた人たちが、自作できる土地を求めて移住してきたということが言えるのだろうが、このことからもこの地域にとっての新たな集落は、この地に関わるそもそも自作地を持たない人たちへの提供の場であった程度だったのだろう。本来であるならば山林原野を開き、住人の食い扶持を確保するところだったのだろうが、それをできない要因は、やはり水だったということなのだ。
まだ水道が普及されるには早い時代のこと(まったくなかったわけではないが)。原や春日といった集落のある場所は、周囲に水気はない。古くよりある大泉あたりとは条件が違う。住処を求めたとしても飲み水をどうしたのか、ということになるが、「大正末までは大体10戸で1つの井戸を共同使用していたが、開田以後逐次井戸が増えて、現在では150戸の中100戸余りが井戸を持つようになった。これらの新しい井戸は古い井戸が10間以上の深さを有するのに較べて、5~7間位の比較的浅いものである」と西川氏は述べており、これは西天竜へ導水したことによる地下水上昇ということが言えるわけだ。しかし冬季間になれば水は減る。導水が止められたりすると水不足になるわけである。いずれにしても水気のなかった段丘上に導水したことは、大きな環境変化の要因となっていったのは事実である。
続く
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