Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「分水工を探る」余話⑤

2010-04-05 12:18:51 | 分水工を探る

 「分水工を探る」余話④において尺貫法について触れた。メートル法で表示しているわたしの円筒分水工の図は、造られた年代から想定すると尺貫法で設計されていたと思われ、その主旨からいけばもっと端数が出ても不思議ではない。あくまでもメートル法の近似値で示しているまでで、尺貫法ならもっとすっきりした数字なのかもしれない。例えば古いコンクリート水路を計測すると水路の幅が30センチのものがけっこう目立つ。しかしそれを尺貫法で示せばきっと1尺となり、メートル法に換算すれば30.3センチということになるだろうか。3ミリ程度は誤差のうちといえるから近似値で30センチといっても間違いではないが、設計という観点から言えば明らかに違う。ようは30センチのものを造るとしたのではなく、1尺のものを造ろうとした。あくまでも出来あがったときの誤差でしかない。

  先ごろ深沢川の水路橋のことについて触れた。水路橋としての役目を終えて道路として利用を始めてからも70年ほど経っている構造物である。かつてなら水路の幅になるが、現在では欄干となっている車道の幅を測ると、約140メートルある橋のどこで計測しても3.6メートルプラスとなる。実はこの水路幅は尺貫法でいくところの12尺(3.636メートル)で造られている。そして水路側壁の天端の幅は1.7尺(0.515メートル)で設計されているもので、側壁の外側の全体を計測すると4.65メートル程度、まさに15.4尺で造られているのである。当時の施工技術がどの程度のものだったかわたしは詳しくないが、現代のメートル法で計測して「あの時代だから誤差があったんだ」とは簡単には片付けられないほど、実は精度が高かったのかもしれない。

 図はその深沢川水路橋である。画面の構成から縦長に回転させてもらったため見難いかもしれないが勘弁。橋の長さは470間ぴったし。平面図の下側が上流側の北方、上側が下流側の南方である。南側の山裾に深沢川が流れている。これほど立派な水路橋を架けたのに昭和13年にはサイフォンに変更している。橋の手前に重量規制の標識がたたっていて、制限は「6t」とある。西天竜幹線水路の水量が毎秒5.6トンと言われていて、その水量がそのまま制限となっているわけだ。

  県の出先機関の情報コーナーに「坂戸橋資料集」というものが置いてあった。平成20年3月にまとめられた資料で、ホームページなどで検索すると県の建設事務所、中川村役場、県立図書館、土木学会図書館に置かれている資料だという。坂戸橋は上伊那郡中川村の天竜川に架かっている橋で、昭和8年に完成したもの。今も利用されている橋でわたしにとっても身近な橋だったのは、分校時代に初めての遠足で行った場所だったことに起因する。西天竜の深沢川橋よりは遅れて完成した橋であるが、危険な印象もある深沢橋にくらべるとみごとな現役橋である。資料集には当時の図面と設計計算書が添付されているが、さすがに尺ではなくメートルで表示されている。


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