またプロレスの話・・・・。
学生の時って、体育館にマットとか敷いてあったら、
思わずプロレスごっことかやりませんでした?
その時って、どのレスラーになりきって遊んでいま
した?猪木?藤波?長州?タイガーマスク?小林?
鶴田?天龍?ドリーファンク.jr?スタン・ハンセン?
ブルーザー・ブロディー?・・・
30代以上の人なら、ゴールデンタイムにプロレスの
中継が放映されていたり、ゲーム番組とか、クイズ番組、
芸能人運動大会などでは必ずプロレスラー枠があったので、
彼らを身近に感じる事ができたのではないでしょうか?
昔はプロレスって市民権を持っていて、逆に今は市民権を
剥奪されてしまった感じがします。今でもバラエティー
番組にプロレスラーが稀に出演しますけど、視聴者から
「誰この人?」っていう反応が多いですもんね。あと、
空気が合わないのか、または元々みんなシャイなのか、
バラエティーに出てもちょっと浮いている感じがします。
ただ単にテレビ慣れしていないだけなのかな・・・。
さて自分がなりきるプロレスラーは変わっていました。
自分の場合、国際プロレスの選手が多かったです。
マイティー井上とか、ラッシャー木村とかグレート草津
とか・・・・。
・・・・知らないですよね・・・・。
国際プロレスは昭和41年(1966年)にアメリカで活躍
していたヒロ・マツダと当時日本プロレスの営業部長
吉原功が創設した新興団体です。国際プロレスには
ストロング小林(タレントのストロング金剛)や
サンダー杉山などエース級のスター選手を何人か抱え
ますが、後に猪木のいる新日本プロレスや馬場のいる
全日本プロレスなどの全国区団体へ移籍してしまい、
スター選手不足にいつも悩まされていました。当時
TBSで毎週試合をレギュラーで放映していましたが、
視聴率低迷の為、番組が打ち切り。放映権料を失った
団体はピンチを迎えます。そして、日本初、金網デス
マッチやチェーンデスマッチなどの過激なプロレスを
展開するアイディアを考案。その話に乗った東京テレビ
(テレビ東京)が放映を開始します。また社長の
吉原氏の厚い信頼がプロレス業界にあったため、
経営の危機を危惧したジャイアント馬場やアントニオ
猪木が選手の国際プロレスへの貸し出しを許可。
当時としては異例の新日本や全日本との交流試合
なども行っていました。しかし昭和55年ごろから
経営の悪化が深刻化。翌昭和56年に活動停止をして
しまいます。最後のシリーズとなった北海道遠征の時、
レスラーのスネーク奄美が脳腫瘍の為急死。その際、
エースのラッシャー木村は団体の危機にも関わらず、
数試合欠場して、スネーク奄美の枕元から離れなかった、
というちょっとホロっとするエピソードがあります。
そして国際プロレスのメンバーはバラバラになります。
引退する選手や、他団体へ移籍などそれぞれの道を
歩みます。
当時エースのラッシャー木村は昨年まで、以前
「イケる人」で紹介したKENTAが所属するノアの
リングに上がっていました。病気の為、本人が
ビデオで引退を発表したのですが、まだ体に麻痺が
残っているようで、リング上などでのセレモニーが
なかったのが残念です。
当時国際プロレスに所属していた選手の鶴見五郎は
国際プロレスの名前を引き継いで、市場の駐車場などの
スペースを使って細々とプロレス興行をしています。
彼が国際プロレス出身で唯一現役としてリングに
上がっているレスラーです。試合はかなりショッパイ
らしいですが、お客さんが来てくれる限りは続けて
欲しいものです。
またお金欲しさにゲイビデオに出演したり、ひったくりを
して逮捕された剛竜馬も国際プロレスに所属していました。
さて最近「気合だー」と叫びながら登場する“京子の父親”
アニマル浜口も国際プロレス出身です。マイティ井上と
タッグを組んでプロレス賞を数多く受賞しました。
彼を見ると嬉しくもあり、悲しくもあります。
*またデザイン変えてみました。
シンプルすぎるかなぁ~。
学生の時って、体育館にマットとか敷いてあったら、
思わずプロレスごっことかやりませんでした?
その時って、どのレスラーになりきって遊んでいま
した?猪木?藤波?長州?タイガーマスク?小林?
鶴田?天龍?ドリーファンク.jr?スタン・ハンセン?
ブルーザー・ブロディー?・・・
30代以上の人なら、ゴールデンタイムにプロレスの
中継が放映されていたり、ゲーム番組とか、クイズ番組、
芸能人運動大会などでは必ずプロレスラー枠があったので、
彼らを身近に感じる事ができたのではないでしょうか?
昔はプロレスって市民権を持っていて、逆に今は市民権を
剥奪されてしまった感じがします。今でもバラエティー
番組にプロレスラーが稀に出演しますけど、視聴者から
「誰この人?」っていう反応が多いですもんね。あと、
空気が合わないのか、または元々みんなシャイなのか、
バラエティーに出てもちょっと浮いている感じがします。
ただ単にテレビ慣れしていないだけなのかな・・・。
さて自分がなりきるプロレスラーは変わっていました。
自分の場合、国際プロレスの選手が多かったです。
マイティー井上とか、ラッシャー木村とかグレート草津
とか・・・・。
・・・・知らないですよね・・・・。
国際プロレスは昭和41年(1966年)にアメリカで活躍
していたヒロ・マツダと当時日本プロレスの営業部長
吉原功が創設した新興団体です。国際プロレスには
ストロング小林(タレントのストロング金剛)や
サンダー杉山などエース級のスター選手を何人か抱え
ますが、後に猪木のいる新日本プロレスや馬場のいる
全日本プロレスなどの全国区団体へ移籍してしまい、
スター選手不足にいつも悩まされていました。当時
TBSで毎週試合をレギュラーで放映していましたが、
視聴率低迷の為、番組が打ち切り。放映権料を失った
団体はピンチを迎えます。そして、日本初、金網デス
マッチやチェーンデスマッチなどの過激なプロレスを
展開するアイディアを考案。その話に乗った東京テレビ
(テレビ東京)が放映を開始します。また社長の
吉原氏の厚い信頼がプロレス業界にあったため、
経営の危機を危惧したジャイアント馬場やアントニオ
猪木が選手の国際プロレスへの貸し出しを許可。
当時としては異例の新日本や全日本との交流試合
なども行っていました。しかし昭和55年ごろから
経営の悪化が深刻化。翌昭和56年に活動停止をして
しまいます。最後のシリーズとなった北海道遠征の時、
レスラーのスネーク奄美が脳腫瘍の為急死。その際、
エースのラッシャー木村は団体の危機にも関わらず、
数試合欠場して、スネーク奄美の枕元から離れなかった、
というちょっとホロっとするエピソードがあります。
そして国際プロレスのメンバーはバラバラになります。
引退する選手や、他団体へ移籍などそれぞれの道を
歩みます。
当時エースのラッシャー木村は昨年まで、以前
「イケる人」で紹介したKENTAが所属するノアの
リングに上がっていました。病気の為、本人が
ビデオで引退を発表したのですが、まだ体に麻痺が
残っているようで、リング上などでのセレモニーが
なかったのが残念です。
当時国際プロレスに所属していた選手の鶴見五郎は
国際プロレスの名前を引き継いで、市場の駐車場などの
スペースを使って細々とプロレス興行をしています。
彼が国際プロレス出身で唯一現役としてリングに
上がっているレスラーです。試合はかなりショッパイ
らしいですが、お客さんが来てくれる限りは続けて
欲しいものです。
またお金欲しさにゲイビデオに出演したり、ひったくりを
して逮捕された剛竜馬も国際プロレスに所属していました。
さて最近「気合だー」と叫びながら登場する“京子の父親”
アニマル浜口も国際プロレス出身です。マイティ井上と
タッグを組んでプロレス賞を数多く受賞しました。
彼を見ると嬉しくもあり、悲しくもあります。
*またデザイン変えてみました。
シンプルすぎるかなぁ~。