Trips with my RV.

RVでの小旅行。

人が死んだら、どこに行くのか?

2012-02-12 20:30:56 | 独り言
私は仏教徒です。それほど熱心ではないけど、一応は仏教徒だと思っています。

宗教としての仏教に於ける死生観とは、「個としての人間が、死に依って、全体としての仏になる事」とされています。仏とは、生きていた1人の人間の総てが含まれた物では無く、生きていた1人の人間の魂の一部(阿頼耶識・あらやしき)のみが多数集まった集合体とされています。宗派によって考え方は少し違いますが、私の信じる考えでは阿頼耶識には煩悩を持たずあらゆる精神活動の根底に在る・・・魂の核になる部分です。その自分が誰かも知らず、今何をしているかも知らず、何も考えない魂の中心核のみが輪廻転生を続けていくとされています。そして、仏教の目的は・・・その輪廻転生する阿頼耶識を再び仏に戻さない事・・・再び輪廻転生しない事・・・で、それを解脱と云います。

解脱の意味は「縛るものから離れて自由になる」ですが、原始仏教では「避けられない輪廻転生の運命」と云う「縛るものから離れて自由になる」を目指していましたが、宗教としての仏教は「悩みや迷い等の煩悩の束縛」と云う「縛るものから離れて自由になる」と置き換えました。

過去記事にも書いた筈ですが、釈迦自身が輪廻転生を心底信じていたか否かは不明です。何故なら、身近にいた弟子に「人が死んだら、どうなるのですか?」と聞かれた釈迦は「知る能わず=知っても仕方がない」と答えたのだそうです。但し、釈迦が生きていた時代の地域では、生き物の魂は輪廻転生すると誰もが信じていたので、その根本的な部分で争うことを避けたのだと思うのです。

だから、釈迦は方便として、魂の輪廻転生は生きとし生けるもの総てに起こる事として説法をしたのカモ知れません。但し、釈迦は人格を有した魂の輪廻を否定しています。釈迦の説いた輪廻するモノの正体は、輪廻転生しようがしまいが、現世を生きている人々には何の影響を及ぼさない「阿頼耶識」としたのです。阿頼耶識には故人の生前の記憶は全く無く、魂の核として単に輪廻するだけの存在です。だから、その魂の一部が永遠に存在し続けるとしても何の慰めにも成らないのカモ知れません。そのガッカリ感を減じる為に、人々の「阿頼耶識」・・・生きている人の「阿頼耶識」も死んだ人の「阿頼耶識」も総てが時空を越えて集まった存在を「仏」とした(仮定した)のです。

原始仏教では、この穢れた娑婆(世界)に生まれて苦しみを受けるのは煩悩によるものであると捉え、煩悩を断ち切り輪廻転生の渦から脱出する解脱を目標としていました。釈迦の大悟の逸話・・・出家して厳しい戒律を保つことによって煩悩を断ち切り阿羅漢となろうとしていた釈迦だったが、限界を感じ、修行を諦めて人里に降りて木の根元で休んでいた時に、村の女性から貰った乳酸飲料を飲んだ時に悟りに至った・・・の通り、厳しい戒律や修行は悟りには不要だと説いたのです。「誰でも解脱を願って死ねば、解脱できます。」と云う非常にお手軽なモノとしたのです。

これでは哲学・宗教としてはOKでも、ビジネスとしては大失敗です。釈迦の没後、早い時期に「望めば、誰でもが解脱できる」と「望んでも、限られた人しか悟れない」の教義を巡る大論争が勃発し、上座部仏教(小乗仏教)と大乗仏教に分裂します。

上座部仏教(小乗仏教)も、釈迦の説いた「お手軽解脱法」を教義に据えると、厳しい戒律や辛い修行を人に強いる必要が無くなり宗教ビジネスとして破綻してしまうので、釈迦がチャレンジして諦めた筈の従来型の「出家して厳しい戒律を保つことによって煩悩を断ち切り阿羅漢となる」を教義に据えたのです。

又、大乗仏教は、上座部仏教では解脱できないとされていた(出家して厳しい戒律を保つことによって煩悩を断ち切っていない)一般人も解脱の途を創造し、誰の魂の中にもある「阿頼耶識」を「一切衆生悉有仏性(総ての衆生の中に仏性がある」として、商業的に大乗仏教を支えれば一般人も功徳を得て解脱できるとしたのです。

釈迦の入滅後、僅か300年も経たぬ内に釈迦の教えは180度ねじ曲げられてしまったのです。

現在の商業宗教とも云える仏教での儀式・・・例えば中有を超える49日というモノは・・・簡単に解釈して次の生を受ける迄の準備期間と云う事にしています。仏教的解釈では魂の核である阿頼耶識の直ぐ回りに在る末那識(まなしき)が総て剥がれ落ちる期間とされています。尚、末那識とは、諸感覚や意識を統括して、自己という意識を生み出す心の働きを司る部分で、現代心理学では無意識(又は、潜在意識)と云われる部分です。この部分にも生前の記憶は存在しないと云われています。人の生命の灯火が消え、脳が働きを失うと、化学的物理的な結合で形成されていた記憶を失い、只、裸の潜在意識のみが取り残されると考えられます。そして、その潜在意識が総て失われて、誰でもない阿頼耶識だけに戻る期間が約49日間だろうと云う事です。

但し、輪廻転生を経た「産まれ変わり」と云う現象は古今東西でも数多く語られている事から、これを単なる勘違いや嘘とするのも無理があり、末那識と云われる潜在意識にも或る程度の記憶が存在するのではとも思えます。が、しかし、故人の全人格・総ての体験の記憶は無いと思われます。生まれ変わりとされる人々の語る事は、確かに過去に存在した或る人物しか知り得ない事を知っているそうですが、その人の総てを新しい生に持ち込んでいる訳でも無いようです。これが、人の魂の限界では無いかと思うのです。因みに、釈迦は例の身近にいる弟子(般若心経にも名前が出てくる弟子)に「輪廻転生って本当にあるんですか?」と聞かれ「有ると思えばあるし、無いと思えば無い。」と答えていますし、釈迦自身は弟子を伴って産まれ変わりだと評判が立った人に会いに何度も出掛けています。

TV等に出て来る霊能者と云われる人は、死んだ人の霊魂に人格を見出しているかに見えます。果たして本当なのでしょうか?

それこそ古今東西で地獄と天国とかの、死後の世界観が語られる事もあります。そして昨今は医学の進歩から多くの臨死体験者が登場し、死後の世界を語る機会も増えています。臨死体験者の語る死後の世界は、宗教や国籍や性別に依って多少のバリエーションが在るモノの似た展開で、生から死後の世界への移動が行われ、そして死後の世界に行き着きます。そして、そこから生還した人の言葉に依って、死後の世界は存在すると結論する人もいる様です。脳外科の進歩で、最近では死後の世界には大脳旧皮質の一部に在るセンサーの信号で、自動的に死後体験をスタートするプログラムが組まれているという説が有力で、誰しも同じ部位を刺激すると生命の危険を伴わず臨死体験を文字通り体験できると判っています。又、脳に電極を付けて刺激をしなくても、瞑想と云う手段でも臨死体験を体験し、自分の死後の世界を覗き見する事も可能で在ることが判り始めています。

生前の行いが善で在れば天国に、生前の行いが悪で在れば地獄に・・・、それほど個々人の死後の世界は単純なモノでは無く、人1人1人にそれぞれ違う、その人専用の死後の世界が脳内に用意されているのです。悪い行いをすると地獄に堕ちると洗脳を受けていれば、自らの想像の産物である地獄の死後の世界を体験する事になるだけです。だから、死後の人の霊魂が死後の世界とやらに行く訳ではないと、私は知っています。

以上のことより、人は死んでしまうと総てがお終いとお考えになったら、それは本当に寂しい事です。では、人が死んだらどこに行くのでしょう?

多くの映画やドラマやアニメの世界では、「その人は、心の中で生き続けている」と云う表現をしています。「その人」が生きてきた証は、何よりも確実に「その人」の死を見送った人達の心の中に残っています。これは正しく釈迦の説いた先祖供養への考え方です。自分の心の中に居る「その人」への供養を心の中で行う事こそが、生きている人の為にも重要と説いています。

だから、霊能者の人達が見出している「その人」とは、「その人」を失った人の心の中に居る「その人」です。これを見出す方法は・・・コールド・リーディングとか、プロファイリングとか様々な手段があるのでしょう。TVに出てくる有名な霊能者の方は、他にもホット・リーディングとか云う手法も使っているカモ知れません。

霊能者の方を交えてでも、「その人」を失った人の心の中に居る「その人」と意思疎通が出来たと思えたのなら、それはそれで良かった、と、私は思います。「その人」を意思疎通が出来た事で、「『「その人』を失った人」が何かの平安を手に入れたのなら、代償の多寡に拘わらず良かったとのだと考えます。ネット上の正義を自認する方には許せない事と思し召すカモ知れませんが、代償を払って得られる人の平安や幸福とは、所詮その程度のモノです。ですが、霊能者の方々の中には「『「その人』を失った人」に長い期間つきまとい、平安を与えず現世的な施しを要求し続ける場合も、少なからず有るのかも知れません。この穢れた娑婆には、少しだけ悪い人と随分悪い人と云うバリエーションが「悪い人」の中に存在するモノだと思います。

「『その人』を失った人の心の中に居る『その人』」は、「『その人』を失った人」が死んだ時点で消滅してしまうのですが、それを本当に寂しい事だと思うなら、「『その人』を失った人」が死んだ後も、「その人」、又は「『その人』を失った人の心の中に居る『その人』」が思い出される様にしておく事で、回避可能です。これを先祖供養と云いますが、「『その人』を失った人の心の中に居る『その人』」の名前で財団でも創り「『その人』を失った人の心の中に居る『その人』」が生前に行っていた社会貢献を続ければ、かなり後世まで「その人」を多くの人の心に留めておく事が可能となるのでしょう。

これだけでは、「その人」を失った悲しみは消えないと思うなら、別の解釈もあります。

過去記事に何度か書いてきた通り・・・、私の信じている「この世界」は、10次元か26次元の超対称性のヒモで出来上がった世界ではなく、複素平面(ガウス平面)と云う2次元を投影した世界だと思っています。

釈迦は、「三界(現世)は唯心の所現」と云いました。この世の事象の総ては『仮相の世界』と云う意味です。
過去記事「Wake up, Neo. The Matrix has you. 2010-11-05 21:44:59 | 独り言」にも書いた通り・・・「我々が存在を疑わない3次元の世界は、2次元情報の単なるホログラフィックなバージョンに過ぎない」と云うのがホログラム宇宙論です。

上下,左右,そして前後・・・我々が認識する空間の次元が3つだと云う事は,周囲を見れば実感できる。これに時間を足せば,空間と時間が4次元で溶けあった「時空」だ。私達は4次元連続時空体宇宙に住んでいる事になっている。だが、数学的な破綻を避ける為に、5次元が10次元に、そして11次元に・・・最近では26次元の次元数が登場し、余剰次元はブランク長以下に折り畳まれているとされている。

だが、我々が当然存在すると感じている重力や空間次元の1つは,もっと次元の低い時空での粒子の相互作用から生まれる一種の「幻」なのかもしれない。「ホログラフィック理論」と呼ばれる物理学の理論に依ると,重力のない2次元空間は重力のある3次元空間と完全に同等だと考えられる。ホログラムから生まれる立体映像のように,重力を含む3次元の世界は2次元空間の物理から生じているのかもしれない。だから、「幻」である重力子(ヒッグス粒子)や重力波は検出されない訳だ。


虚数とは、「2乗した値がゼロを超えない実数になる複素数」として想像上の数字として数学の世界で発案されました。

アインシュタインの相対性理論に数学的基礎を与えた(リトアニア生まれのユダヤ系ドイツ人数学者)ヘルマン・ミンコフスキーが、空間のタテ・ヨコ・高さの3次元に時間を1次元として与えたミンコフスキー空間(4次元連続時空体)を発案した。

ミンコフスキーの一般相対性理論式


この式の「時間の距離」の処に虚数を入れて計算すると「時空の距離」は必ず実数に成りますが、そうでないと「時空の距離」が虚数になる場合があります。虚数に成ったり成らなかったりする「時空の距離」よりは「虚数の『時間の距離』」を許した方が数学的に美しいカモ?って事で、虚数時間も案外アリじゃね?となっていました。

大きく端折って、ビックバン宇宙の誕生前・・・を考えていたホーキングが、量子論の波動方程式を虚数時間を使って計算すると「我々の宇宙には境界とか端はない。」となるので、時空の端・・・特異点以前・以降が無い宇宙モデルを発案しました。

過去記事にも書いた通り・・・、今までの偉い学者先生の宇宙論を取り纏めて、辻褄を合わせ続けた「超ひも理論」は破綻しつつあります。

シャーロック・ホームズは「緑柱石の宝冠」の中で「完全にありえないことを取り除けば、残ったものは、いかにありそうにないことでも、事実に間違いないということです」と云っていますが、「我々が存在を疑わない3次元の世界は、2次元情報の単なるホログラフィックなバージョンに過ぎない」と云うホログラム宇宙論は直ちに納得できないとしても、どうやら我々の宇宙の時間軸は虚数時間である可能性が高い・・・と云う部分にガッテンして頂けば・・・

本来の有り様である虚数時間の宇宙では、釈迦が言ったとおり、実数の時間軸がまやかしカモ知れない。そうすれば、実数時間しか感じる事の出来ない私達の中では既に死んでしまった「その人」は、私達の住まう虚数宇宙の中では現在進行形でチャンと生きているのです。
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