いなほブログ避難所

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本日は海軍記念日

2005年05月27日 23時14分23秒 | 日記
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直ニ出動之ヲ撃滅セントス 天気晴朗ナレドモ浪高シ」

おそらくあちこちのブログで取り上げられている話題だと思います。
上の言葉は海軍参謀秋山真之起草の有名な言葉ですが

天気晴朗ナレドモ浪高シ

この部分がイイですね。

日露戦争に勝利して100年も経つのですね。
今日は結構重要な日だと思いますが、どの新聞でも
大きくは扱っていません。しかし唯一読売だけが
社説で取り上げていましたので全文引用します。

引用開始

[日本海海戦]「歴史の潮目を変えた海戦だった」

日露戦争の帰趨(きすう)を決した日本海海戦から、今日で100年を迎える。
1905年5月27日から翌28日にかけての戦闘で、東郷平八郎元帥率いる連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊を壊滅させた。
世界の海戦史上、ほとんど類例のない完勝で、世界を驚かせた。その見事な戦いぶりは、1805年、ネルソン提督が率いるイギリス艦隊が、フランス、スペインの連合艦隊を破り、ナポレオンのイギリス進攻を阻止したトラファルガー海戦と、しばしば対比される。
日本海海戦の圧勝、そして日露戦争の「勝利」から、様々な歴史の教訓を引き出すことが出来るだろう。
開戦に際しては、軍事上の問題だけではなく、当時の国際情勢をも視野に入れた、様々な国家的戦略が練られていた。太平洋戦争の開戦とは、決定的に、異なる面である。
例えば、日本の諜報(ちょうほう)員は、西欧や北欧の各地で、ロシアの革命運動家たちにひそかに接触しながら、資金援助も行い、ロシア国内の攪乱(かくらん)に努めた。
戦局が日本に有利になった時点において講和に持ち込むという、開戦前からの構想の下で、米国に早い段階から仲介役を依頼していた。
日英同盟を結び、活用した。
英知を結集して、日本を脅かす大国ロシアと対決し、国難を乗り越えた。
その後の20世紀の歴史に与えたインパクトも大きかった。
ロシアの支配下にあった北・東欧から欧米の植民地だったアジア、アフリカにいたる各地の民族独立運動に、大きな希望を与えた。
日本海海戦の翌月、中国紙「大公報」は、「黄色人種が白色人種と併存する世界が訪れた」と論評している。
日清戦争後、中国から日本への留学生が目立ち始めたが、日露戦争が終結した翌年の1906年には1万人を超えた。留学生の中には、辛亥革命から共産党政権確立に至る過程で活躍した人物群も含まれる。
しかし、世界から熱い眼差(まなざ)しを向けられた日本は、やがて無謀な戦争に突入して、破局を迎える。
小説「坂の上の雲」で、日露戦争を戦った明治の群像を生き生きと描いた作家の司馬遼太郎は、「日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせた」と表現し、日本社会から合理的判断力が失われていったとの見方を示している。
世界史の大きな流れの中で、日露戦争とは何だったのか。日露戦後100年を契機に改めて考えてみたい。
2005年5月27日1時46分 読売新聞)

引用終了

昭和20年まで存在した本当の日本を考える上で
日露戦争は重要な意味を持っています。
海軍記念日にでも色々とその時代へ思いを巡らすのも
良いかもしれません。

偽物に変えられた日本に住む者として。



「旧日本兵2人 比で生存」ミンダナオ島 引き揚げできず山岳に

海軍記念日にこの吉報です。
びっくりしました。帝国陸軍万歳!
さぞ、ご家族は喜ばれたのではないでしょうか。
戦死されたとされていたのですからね。

で、各紙これに関連する記事を読んでいて気付いたんですが
読売や産経にはお二方の所属、階級まできちんと書いてありましたが
朝日や毎日にはそれがありませんでした。

些細なことですけどね。

朝日は「旧陸軍三十師団に所属」と漠然と書いていますが
ここは産経のように「旧陸軍三十師団捜索第三十連隊」くらい
正確に書かなければならないと思います。
また、階級の表記も併せて必要でしょう。
というのも、師団は一万人規模の人数で構成されています。
この三十師団だけでも一万六千人で構成されていましたから
ただ「三十師団のだれそれ」と報道しても正確さを欠きます。
だから所属まで必要だと思うのです。
人の生死に関わる情報です。同じ師団所属者の家族も
注目しているだろうと予測できる情報です。

なぜ書かないのだろうか。

今回責任を果たしているのは全国紙では
産経と読売だけです。



中国海軍の新型観測艦を確認 沖ノ鳥島沖で海自機

なるほど支那が靖国で大騒ぎしていたのは
こういうことをやる必要もあったのですね。
どうせそのへんに原潜もいるんだろうね。