日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

吉本襄『校訂 海舟先生 氷川清談 全』先生蘭書翻訳御用を命ぜられる

2021-03-04 12:29:23 | 勝海舟



吉本襄『校訂
海舟先生 氷川清談
全』

 安政二年正月、先生蘭書翻訳御用を命ぜられる。
蓋し大久保忠寛の薦擧にかかる、當時海防掛御目付役は、身分低くけれども、
その事要路に在るを以て、人の之を望むもの頗る多し、
閣老阿部伊勢守更に先生をこの職に任ぜんと欲し、
大久保及び岩瀬忠震をして内旨を先生に傳へしむ。

  先生、平然として曰く、
余の翻訳は、拙なりと雖も、卿等の力は余にすら及ばざるべし。
 余は、多く新刊の蘭書を覧るを得て、
一身の修行ちもなるべければ、強ひて現職に留まるべし。
卿等の部下に属して、俗務に鞅掌するが如きは、余の欲せざる所、
その伊勢守の内旨に出づると、否とは、余の關せざること也、と。

 二人また如何ともするなし。
その秋長崎表海軍傳習所御用を命ぜられる。
發するに先だちて小十人組を命ぜられる。

 當時論あり。
曰はく、身分につきて云々の現あらば、傳習の事また破れんと。
より先生も唯々として奉命せしなりとぞ。


 江川太郎左衛門、下曽根金三郎は、共に高島四郎太夫の高足なり。
旗下、諸藩の子弟を集めて、盛んに銃陣の調練を行ふ。
當時、先生は蘭書を本とせしかば、その式やや二人に異なり、
且つ門人の數未だ甚だ多からず。

 三人鼎立といふと雖、先生は蓋し二人に敵するに足らざりしなり。
時に阿部閣老、小普請組支配奥田主馬をして、先生の銃弾を觀んことを求めしむ。
 先生情を陳して之を謝す。
主馬大に苦しむ。組頭依田五郎八郎 先生に勸めて強ひて之れを諾せしむ。
且つ閣老へは日延を請求し、小普請組二三百人を悉く先生の門人と為す。
土岐丹波守また大に先生を援け、是より日々赤坂桐畑の空地に練兵を行ふ。
竹腰藩士また先生の門に加はる。

 かくて期旦に至り、丹後守指揮にて閣老觀兵のこと無事結了す。
但し先生は、此日既に長崎にありしなり。

 大久保一翁の日記にこの日の事を記す。

 曰く
 安政三辰年十一月十三日勝麟太郎門人觀練御召置に付、
伊勢守殿、大和守殿、但馬守殿、右京亮殿、御越相成しに付、
修理殿。自分、五時前出宅、七時半歸宅。

 高野長英 幕府の探索甚だ急なるを以て、一夜先生を訪うて救を乞ふ。
先生曰く、余は幕臣なり。義、足下の請を容るる能はず。
然れども、足下も國士なり。

 縲絏の辱をせしむるは、余の欲せざる所、去りて他處に潜めよ。
余嘗て足下が今夕の来訪を秘せん、と、長英、先生の高誼を謝して去る。 

一夜、門下の壮士、潜に先生の寝室に抵り、
請うて曰く、實は土藩の廣井磐之助なり。    

僕が父大六、嘗て同藩の土棚橋三郎の為めに非命に斃る。
僕、願くは父の為めに讎を復せんと欲す。
先生能く僕の為めに之を計れ、と。

先生之を壮として一書を附す。
曰く、
廣井磐之助者。吾門下也。慾為父報讎。踪邂逅於之。輙可殺傷。萬須照法規焉。 
                     軍艦奉行 勝 麟太郎  
  全国明府各位

 時に、三郎潜みて紀伊にあり。先生之を探知し、百方周旋す。磐之助遂にその意を達するを得たり。



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