日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大川周明『北一輝君を億ふ』

2020-04-02 08:52:39 | 大川周明


大川周明『北一輝君を億ふ』 



〔北君の支那革命観〕

北君の支那革命観並びにその在支中の活動は其著『支那革命外史』に述べ尽されて居る。もと此著は日本の対支外交を誤らしめまいため、人々に対する建白書として、『支那革命党及び革命之支那』と題し、大正四年十一月起稿して翌五年五月に脱稿するまで、成るに従つて之を有志に頒布せるものを、後に題名を支那革命外史と改めて、公刊せるものである。

 此書が刊行された時、吉野作造博士は『支那革命史中の白眉』と激称したが、それは単に支那革命党に対する北君の厳格なる批判であるだけでなく、支那革命を解説するために、縦横に筆をフランス革命と明治維新とに馳せ、古今東西に通ずる革命の原理を提示せる点に於て比類なき特色を有する。

 私は甚だ多くを此書によって教へられた。若し私が生涯に読んだ夥しき書籍のうち、最も深刻なる感銘を受けたもの十部を選べと言はれるならば、私は必ず此書を其中に入れる。北君は既に此書の中で、明治維新の本質並に経過を明かにして、日本が改造されねばならぬことを強力に示唆して居る。従って此書は『日本改造法案大綱』の母胎である。

 北君は、大西郷の西南の変を以て一個の反動なりとする一般史学者とは全く反対に、之を以て維新革命の逆転又は不徹底に対する第二革命とした。そしてこの第二革命の失敗によつて、日本は黄金大名の聯邦制度と之を支持する徳川其儘の官僚政治の実現を招いた。維新の精神はかくして封建時代に逆行し、之にフランス革命に対する反動時代なりし西欧、殊にドイツの制度を輸入したので、朽根に腐木を接いだ東西混淆の中世紀的日本が生れた。

 かくの如き日本が民族更生のために第三革命を必要とすることは北君にとりては自明の結論である。而も目本の第三革命の前に、支那はまた風雲動き、北君は其年の夏再び上海に急行して支那の第三革命に参加したが、事志と違ひて空しく上海に滞在することとなった。
 
〔霊感によって法華経に帰依〕
 北君は大輝君への遺言にある如く、大輝君誕生の年、即ち大正三年に霊感によって法華経に帰依し爾来一貫して法華経行者を以て自ら任じ、『支那革命外史』もまた読誦三昧の間に成ったものであるが、この上海仮寓時代に法華経信仰は益々深くなった。そして大正八年夏に至り、法華経読誦の間に霊感あり、日本の第三革命に備へるため、国家改造の具体案を起稿するに至ったのである。

 当時北君は私より三つ年上の三十七歳、白哲端麗、貴公子の風姿を具へていたが、太陽館の一室で私と対談する段になると、上着を脱いで猿又一つになった。その痩せた裸形童子の姿は、何んとも言へぬ愛嬌を天然自然に湛へて居た。 
 そして一灯の動作におのづから人の微笑を誘ふユーモラスなものが漂っていた。 

 私は北君の国体論や支那革命外史を読んで、その文章には夙くから傾倒して居たが、会って対談に及んで、その舌端から迸る雄弁に驚嘆した。似た者同志といふ言葉通り、性格の似通った者が互に相惹かれることは事実である。併し逆に最も天稟の違った者が互ひに強く相惹く場合もある。私と北君の場合は此の後者である。

 私の精神鑑定を行った米国病院の診断書は、冒頭に私のことを『この囚人の風貌は、思切って不愛想である』と書いて居る。誰かが『大川の顔を見ると石を投げっけたくなる』と言ったそうだが、どうも私には愛嬌が欠けているらしい。また同じ診断書に私の英語を『用語は立派だが発音はまずい』と書いてある。
 まずいのは英語だからでなく、私の日本語の発音そのものが甚しく不明瞭で、殆んど半分しか相手に判らないだけでなく、話に抑揚頓挫といふものがない。その無愛想で口下手な私が、人品に無限の愛嬌を湛へ、弁舌は天馬空を往く北君に接したのであるから、吾と吾身に引きくらべて、一たまりもなく感服したことに何の不思議もない。

 また真剣に書かれた北君の文章は、まさしく破格の文章である。北君の文章は同時に思惟であり、感興であり、また行動でもある。私の読書の範囲では、少くも明治以後の日本に於て、かやうな文章を書いた人を知らない。従って北君の文章は絶倫無比のものと言ひ得る。人々は思惟して論文を書き、感興が湧けば詩歌を詠じ、意欲すれば行動する。従って左様な文章は論旨の一貫周匝を、詩歌は感情の純潔深刻を、行動は適切機敏などを物さしとして、それぞれの値打を決めることが出来る。然るに北君の揚合はその精神全体を渾一的に表現した文章である。

 言い換へれば北君の魂の全面的発動である。そして此事は北君の談話の場合も同然である。北君が真剣に語る時、北君の魂そのものが溌剌として北君の舌頭から迸り出る。それ故に之を聴く相手は、魂の全部を挙げて共鳴するのである。かやうにして北君に共鳴した者は、殆ど宗教的意味での『信者』となる。

 尤も電気に対して伝導体と不伝導体とがあるやうに、北君の生命と相触れても、一向火花を発せぬ人々もある。其等の人々のうちには、北君の言論文章は難解だという者もある。併し難解とか不可解とかいうことは、人間の理性の対象となるべき事柄についての取沙汰である。

 然るに北君の書論文章は、禅家の公案と同じく、理性の対象として理解すべきものでなく、精神全体で感受又は観得せらるべきものである。それ故に北君の言語文章から、その理論的一面を抽象して、之を理性の俎上にのせ、論旨が矛盾しているの、論理上の飛躍があるの無いのと騒いで見たところで結局無用の閑葛藤である。

 白隠和尚は『女郎のまことに、卵の四角、三十日(みそか)三十日の良い月夜』といふ唄を、好んで説教の際に用ひたという話である。女郎の嘘八百が、そつくり其儘天地を貫く至誠であり、円い玉子がそつくり其儘四角四面の立方体であり真闇な三十日の空が、そつくり其儘千里月明の良夜であるといふのである。

 如何に哲学者や科学者が、そんな馬鹿な話があるものかと、その途方もない矛盾を指摘して力んで見たところで、白隠和尚は泰然として『これが禅の極意だ』と言ふのだから仕方がない。若しまた此の矛盾を解かうとして、此唄の本旨は、女郎も改心すれば誠に返るし、丸い卵も切りやうで四角になるし、三十日の闇はやがて十五夜の明月を約束するといふことだなどと、当時流行の『合理的解釈』を加へるならば、和尚の真意を相距ること実に白雲万里であらう。 
此事は北君の文章の場合も同然である。

 マホメットに親灸し得なかつた初期の回教信者達は、アーイシャ初めマホメットの諸未亡人に向つて、しきりにマホメットの為人を語り聞かせよと懇請した。その都度アーイシャは『あなた方はコーランをお持ちでないか。そしてアラビヤ語を知って居るではないか。コーランこそマホメット其人です。それだのに何故あなた方はマホメットの為人を訊ねるのか』と答へたさうである。
 
 『文は人なり』といふビユボンの言葉は、マホメットと同じく北君の場合にも極めて、適切で、北君の人物は実に北君の文章そつくりである。それ故に北君の文章を色読し得る人でなければ北君の人物を本当に把握することが出来ない。

 禅家の語に『天堂と地獄と、総て是れ閑家具』とある。極楽や地獄など、有っても無くても、構はないと書ふのであるが、北君は正に其の通りに生活していた。其の文章が然る如く、北君の生活は渾一的、即ち無拘束、無分別であった。貧乏すれば猿又一つで平気であり、金があれば誰揮らず贅沢を尽した。その貧乏も贅沢も、等しく身について見えて、氷炭相容れぬ双方が一向無理を伴はぬところに北君の面目がある。

 一言で尽せば北君は普通の人間の言動を律する規範を超越して居た。是非善悪の物さしなどは、母親の胎内に置去りにして来たやうに思はれた。生活費を算段するにも機略縦横で、とんと手段を択ばなかった。誰かを説得しやうと思へば、口から出放題に話を始め、奇想天外の比喩や燦爛たる警句を連発して往く間に、いつしか当の出鱈目が当人にも真実に思はれて来たのかと見えるほど真剣になり、やがて苦もなく相手を手玉に取る。 

 口下手な私は、つくづく北君の話術に感嘆し、『世間に神憑りはあるが、君のは魔憑りとでも言ふものだらう』と言つた。そして後には北君を『魔王』と呼ぶことにした。

〔君が私に遺した形見『大魔王観音』の五字〕
 処刑直前に北君が私に遺した形見の第二の品は、実に巻紙に大書した『大魔王観音』の五字である。北君がこれを書く時、その中に千情万緒が往来したことであろう。一つ大川にからかつてやれと言ふ気持もあつたらう。また私が魔王々々と呼んで北君と水魚のやうに濃かに交って居た頃のことを思ひめぐらしたことであらう。また今の大川には大魔王観音の意味が本当に判る筈だと微笑したことでもあらう。いずれにせよ死刑を明日に控えてのかのやうな遊戯三昧は、驚き入った心境と言はねばならぬ。

 私が北君から離れた経緯については、世間の取沙汰区々であるが、総じて見当違ひの当推量である。離別の根本理由は簡単明瞭である。それは当時の私が北君の体得してた宗教的境地に到達して居なかつたからである。当時私が北君を『魔王』と呼んだのに対し、北君は私を『須佐之男』と名づけた。

 それは、往年の私は、気性が激しく、罷り間違へば天上の班駒を逆剥ぎにしかねぬ向ふ見ずであったからの命名で其頃北君から来た手紙の宛名にはよく『逆剥尊殿』としてあつた。北君自身は白隠和尚の『女郎の誠』の生れながらの体得者で、名前は魔王でも実は仏魔一如の天地を融通無礙に往来したものであるが、是非善悪に囚はれ、義理人情にからまる私として見れば、若し此儘でいつまでも北君と一緒に出頭没頭して居れば、結局私は仏魔一如の魔ではなく、仏と対立する魔ものになると考へたので、或る事件の際に北君に対して『須佐之男』ぶりを発揮し、激しい喧嘩をしたのをきっかけに、思ひ切つて北君から遠のくことにしたのである。

 爾来世間では、北君と私とが全く敵味方となって互ひに憎み合つているものと早合点し、好き勝手な噂を立てて居る。併し北君と私との因縁不可思議な間柄は、世間並の物尺で深い浅いを測り得る性質のものではない。一別以来二度と顔を合せたことはないが、お互の真情は不断に通って居り、何度か手紙の往復もあつた。そして私自身の宗教的経験が深まるにつれて、北君の本領をも一層よく会得出来るやうになった。私は別離以後の吾々の交情が如何なるものであったかを示すために、北君から貰った手紙のうちの二通を下に掲げる。

〔北君から貰った手紙〕
 その一通は北君が宮内省怪文書事件で約半年間市ケ谷に収容され、翌年初春に保釈出所した直後のもので、精確には昭和二年二月二十二日附の手紙である。━━ 

 拝啓 相別れて一年有半、獄窓に在りて黙想するところ、実に兄と弟との分離に候。来また切に君を想ふて止まず、革命目的のためにすることの如何に於ては、小生一個の見地によりて進退すべきは固より乍ら、君との友情に阻隔を来せし点は小生一人に十二分の責任あることを想ひて止まず候。
 仮令五分五分の理屈ありとするも、君は超脱の仙骨、生は辛酸苦楽の巷に世故を経たる老怪者に候へば、君を怒りし如きは以ての外の不行届と恥入りて日を送り候。何も世の常の人の交りの如く、利害感情によりて今後如何にせんと云ふ如き理由あるには無之、只この心持を直接君に向って申述べ度、一書如斯次第に御座候。此心あらば今後幾月の後、大川に対する北の真情の事実に示さるる機なきにもあるまじく、それなしとするも両者の心交は両者の間に於てのみ感得致度ものに御座候。
 獄窓の夢に君を見る時、君また小生を憂惧せらるる御心持をよくよく了知仕候。相見る幾年幾月の後なるも可、途中ヤアヤアと悦び会するも可、あの魔王もおれを忘れることは出来ぬと御一笑被下度候』

 第二の手紙は、私が五・一五事件に連座して市ケ谷に収容されて居た時、獄中の私に宛てたもので日附は昭和八年十月七日である。━━ 

大川君 吾兄に書簡するのは幾年振か。兄が市ケ谷に往きしより、特にこの半年ほどは、日に幾度となく君のことばかり考へられる。何度かせめて手紙でも差上げようかと考へては思返して来た。此頃の秋には、小生自身も身に覚えのある獄窓の独坐瞑想、時々は暗然として独り君を想つて居る。この胸に満つる涙は、神仏の憐れみ給ふものであらう。

 断じて忘れない、君が上海に迎へに来たこと、肥前の唐津で二夜同じ夢を見られたことなど、かかる場合にこそ絶対の安心が大切ですぞ。小生殺されずに世に一分役立ち申すならば、その寸功に賞でて吾兄を迎へに往くこと、吾兄の上海に於ける如くなるべき日あるを信じて居る。禍福は総て長年月の後に回顧すれば却て顛倒するものである。
 今の百千の苦労は小生深く了承して居る。而も小生の此の念願は神仏の意に叶ふべしと信ずる。法廷にて他の被告が如何に君を是非善悪するとも、眼中に置くなし。是と非とは簡単明瞭にて足る。万言尽きず、只此心と兄の心との感応道交を知りて、兄のために日夜の祈りを精進するばかりです。 
                   経前にて。

 以上二通の手紙を読む人は、白の夏服並に大魔王観音の五字を、形見として私に遺した気持を納得出来るであらう。

 第二の手紙で私を迎へに往くといふのは、第一審で私に対する求刑は懲役十五年であったつたから北君は私が容易に娑婆に出されぬものと思ひ、其迄に屹度革新を断行する。其時に自分が監獄に私を迎へに来るといふのである。而も『小生殺されずに』の一句は、身を殺して仁を成さんとする志士仁人としての北君の平素の覚悟を淡々と示し、また『寸功に賞でて云々』は、革新運動への貢献に対する一切の報賞を私の釈放と棒引にしようといふのであるから、私がその友情に感激するのは当然であるが、それにも勝りて私は北君の無私の心事に心打たれる。 

 一死を覚悟の前で、己れのためには如何なる報賞をも求めぬ北君を、恰も権力にあこがれる革命業者の範疇に入る人間のやうに論じている人もあるが、左様な人はこの手紙を読んで北君の霊前にその埒もない邪推を詑びるがよい。常に塵や泥にまみれて居りながら、その本質は微塵も汚されることのない北君の水晶のやうな魂を看得しなければ、表面的に現れた北君の言行を如何に丹念に分析し、解剖し、整理して見たところで、決して北君の真面目を把握することが出来ないであらう。

〔二・二六事件の首謀者の一人として刑死〕

 北君は、二・二六事件の首謀者の一人として死刑に処せられ、極めて特異なる五十五年の生涯を終へた。私は長く北君と往来を絶つて居たから、この事件と北君との間に如何なる具体的関係があつたかをしらない。北君が西田税君を通じて多くの青年将校と相識り、彼等の魂に革命精神を鼓吹したこと、そして彼等の間に多くの北信者があり、日本改造法案が広く読まれて居たことは事実であるから、フランス革命に於けるルソーと同様、二・二六事件の思想的背景に北君が居たことは拒むべくもない。併し私は北君がこの事件の直接主動者であるとは金輪際考へない。

 二・二六事件は近衛歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊、野戦重砲兵第七聯隊に属する将兵千四百数十名が干戈を執つて蹶起した一大革命運動であったにもかかはらず、結局僅かに三人の老人を殺し、岡田内閣を広田内閣に変ただけに終ったことは、文字通りに竜頭蛇尾であり、その規模の大なりしに比べて、その成果の余りに小なりしに驚かざるを得ない。

 而も此の事件は日本の本質的革新に何の貢献もしなかつたのみでなく、無策であるだけに純真なる多くの軍人を失ひ、革新的気象を帯びた軍人が遠退けられて、中央は機会主義、便宜主義の秀才型軍入に占められ、軍部の堕落を促進することになった。

 若し北君が当初から此の事件に関与し、その計画並びに実行に参画して居たならば、その天才的頭脳と支那革命の体験とを存分に働かせて、周匝緻密な行動順序を樹て、明確なる具体的目標に向って運動を指導したに相違ない。恐らく北君は青年将校蹶起の覚悟既に決し、大勢最早如何ともすべからざる時に至つて初めて此の計画を知り、心ひそかに『しまった!』と叫んだことであらう。

 支那革命外史を読む者は、北君が革命の混乱時代に必ず来るべき外国熱力の如何に恐るべきものなるかを力説したるを看過せぬ筈である。北君は日本の国際的地位を顧みて、中国並びに米国との国交調整を国内改造の先決条件と考へて居た。昭和十年北君は中国行を計画して居たと聞くが、その志すところは茲に在つたと断言して憚らない。果して然らば二・二六事件は断じて北君の主唱によるものでないのみならず、北君の意に反して尚早に勃発せるものである。

 二月二十七日北君は直接青年将校に電話して『一切を真崎に任せよ』と告げたのは、時局の拡大を防ぎ、真崎によつて犠牲者をできるだけ少くしようとしたもので、真崎内閣によつて日本改造法案の実現を図ろうとしたのではない。現に北君は法廷に於て『真崎や柳川によつて自分の改造案の原則が掌現されるであらうとは夢想だもして居らぬ』と述べて居る。北君を事件の首謀者といふ如きは、明かに北君を殺すかめの口実にすぎない。而も北君は冤抂に甘んじて従容として死に就いた。私は豊多摩刑務所で北君の処刑を聞いたのである。

 今日の日本にも一芸一能の士が沢山居る。多芸多能の人も稀にはある。其等の人々は、之を適所に配して仕事をさせれば、それぞれ適材を発揮して数々の業績を挙げる。そして其の業績が其等の人々の値打ちをきめるのであるから履歴書にテニオハをつけるだけで、ほぼ満足すべき伝記が書ける。

 然るに世の中には、其の人のやつた仕事を丹念に書き列ねるだけでは決して満足すべき伝記とならぬ人々が居る。例へば大ピットの演説を聴いた人は、その雄弁に驚嘆しながら、いつも彼の人間そのものの方が、彼の言論の総てよりも、→層立派だと感じさせられたということである。これは大西郷や頭山翁の場合も同然で、やった仕事を洩れなく加算して見ても、決して其の真面目を彷彿させろことが出来ない。これも人間の方が常に其の仕事よりも立派だからである。

 かやうな人物は、其の魂の中に何ものがを宿して居て、それが其人の現実の行動を超越した或る期待を、吾々の心に起こさせる。言葉を換へて言へば、其の人の力の大部分が潜在的で、実際の言動の現れたものは、唯だ貯蔵された力の一部にすぎないと感じさせるのである。
 
 それ故に吾々は、若し因縁熟するならば、何等か偉大なる仕事が、屹度其人によって成し遂げられるであらうといふ希望と期待とを抱くのである。私は多種多様の人々と接触して、無限の生命に連って生きて居る人と然らざる人との間に、截然たる区別があることを知った。北君は法華教を通じて常に無限の生命に連って居た。それだからこそ人々は北君の精神のうちに、測り難い力の潜在を感じ、偉大なる期待をその潜める力にかけたのである。
 最も切実に北君の如き人物を必要とする現在の日本に於て、私は残念ながら北君に代るべき人物を見出さない。『洛陽知己皆為鬼』まことに寂寥無限である。

  昭和三十三年八月十九日午後二時より、目黒不動尊滝泉寺に於て、
  北一輝氏の建碑式が挙行された。
  碑文は大川周明博士の撰である。
 
     北一輝墓碑銘

 歴史は北一輝君を革命家として伝へるであらう。然し革命とは順逆不二の法門その理論は不立文字なりとせる北君は決して世の革命家ではない。君の後半生二十宥余年は法華経誦持の宗教生活であった。
 すでに幼少より煥発せる豊麗多彩なる諸の才能を深く内に封じ唯だ大音声の読経によって一心不乱に慈悲折伏の本願成就を念じ専ら其門を叩く一個半個の説得に心を籠めた北君は尋常人間界の縄墨を超越して仏魔一如の世界を融通無礙に往来して居たのでその文章も説話も総て精神全体の渾然たる表現であった。
 それ故に之を聴く者は魂の全体を挙げて共鳴した。かくして北君は生前も死後も一貫して正に不朽であらう。
   昭和三十三年八月 
                  大 川 周 明 撰  





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